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マダムの根っこ

城の裏手へと続くアーチを潜ると、そこにはむせ返るような花の香りが満ちていた。

色鮮やかな薔薇に混じって、血管のような筋が浮き出た禍々しい黒百合が咲き誇っている。……おかしいわね。この花々、目があるわけでもないのに、私が歩くたびにその首をぎこちなく回して、じっと私を凝視しているような気がするの。


「マダム、この庭園は……随分と広いのね。お城を囲む塀が見えないくらいだわ」


「ええ、そうよ。ここは公爵様の『欲望の広さ』そのものだからね。広すぎて、一度迷い込んだら二度と出られずに土に還った連中も少なくないわ」


マダム・ヴェノマの後に続いて歩いていると、道の脇に点々と置かれた石像が目に留まった。

どれも驚くほど精巧で、若く美しい女性たちが、あるものは祈り、あるものは絶望に顔を歪めた瞬間を切り取ったような姿をしている。


「……マダム、この石像はどなた? みんな、とても美しいけれど……」


「ああ、それ? 公爵様がかつて愛した、お好みの女性たちの姿を象ったものよ」


「かつての、お好み……?」


胸の奥に、チクリとした不快感が走る。でも、私はすぐにその感情を飲み込んだ。そうよ、これはただの嫉妬。アルカード様ほどのお方が、過去に誰も愛さなかったはずがないもの。今は私が、彼の「最高傑作」なのだから。


ふと、植え込みの陰に、見覚えのある黒い布切れが引っかかっているのが見えた。

……昨夜、リアムが着ていた燕尾服の袖口。ボロボロに引き裂かれ、泥にまみれている。


(ピピンの言った通り、本当に彼はここで……)


「待ってーーーー!」


湿っぽい空気を切り裂いて、ピピンが元気よく飛び出してきた。彼女は昨日のお肉……いえ、スライムと追いかけっこをしているらしく、無邪気な笑い声を上げながら、丹精込めて植えられた花々を容赦なく踏み荒らしていく。


「ちょっと! ピピン! あんた、その足元にあるのがどれだけ貴重な花だと思ってるの! 踏み潰したら、明日のあんたのご飯を除草剤にするわよ!」


マダム・ヴェノマが怒鳴り散らしたけれど、ピピンは「あはは〜♪捕まえたぁ!」とスライムを抱きしめたまま、どこかへ走り去ってしまった。


「……ったく、誰も彼も。命の重みを知らない綿の塊はこれだから困るわ」


呆れ果てたマダム・ヴェノマが、溜息をつきながら折れた花の茎を丁寧に直し始めた。意外にもマダムは、植物に対してだけは慈愛に満ちた手つきをしている。私はドレスの裾が汚れるのも構わず、彼女の隣に跪いた。


「マダム、私にも手伝わせて。こう見えて、聖女だった頃は薬草園の世話もしていたのよ」


「ふん、お嬢さんがねえ……。まあ、いいわ。あんたのその白い指が泥にまみれるのを見るのは、公爵様には内緒にしておいてあげる」


二人で土を弄り、折れた花を直していると、マダム・ヴェノマがふと、独り言のように話し始めた。


「……お嬢さん、驚いたかしら。私がどうして、こんな植物の姿でメイド長なんて真似をしてるのか」


「ええ、少しだけ。マダムは、昔からずっとこの姿なの?」


私の問いに、マダムは大きな葉を力なく揺らした。


「さあね……。私の記憶は、この庭の霧みたいにぼんやりしてるわ。覚えているのは、青い空の下で、私が焼きたてのパンのような香りのする花を育てていたこと。……そうよ、私は毎日、その花を摘んで学校へ通っていたはずだわ。私の根っこは、その頃はまだ、赤い革靴の中に収まっていたような気がするの」


(パンの香りの花? 学校へ……赤い革靴?)


マダムの語る過去は、リアムの時と同じだった。穏やかな口調なのに、中身はパズルのピースを無理やり削って繋ぎ合わせたように歪んでいる。


「マダム、あなた……本当は人間だったんじゃ……」


「……あら、変なことを言うのね。私は生まれつき、この毒々しい蔓と食虫植物の口を持った『メイド長』よ。公爵様がそう仰ったんだから、それが真実だわ。……それより、あんた。さっき、自分のことを何て言ったかしら」


「え? ……聖女だった頃は、薬草園の世話をしていたと言ったのだけれど」


「…………」


マダムの蔦が、一瞬だけ鋭く、鞭のようにしなった。

彼女の大きな食虫植物の「口」が、驚愕に震えるように大きく開き、中から紫色の煙が漏れ出す。


「……ああ、嫌だわ。その言葉、なんだか……とても胸の奥がチリチリする。……聖女。白くて、冷たくて……」


「マダム?」


彼女は急に黙り込み、何事もなかったかのように再び折れた茎を繋ぎ合わせ始めた。その手つきは、執着に近いほど丁寧で、どこか恐ろしかった。


「……いい、お嬢さん。あんたが何者だったかなんて、この城では意味を持たないわ。公爵様に愛でられ、名前を呼ばれれば、それだけでいい。……あの方の愛は、記憶を塗りつぶす真っ白な毒なのよ」


マダムは、修復したばかりの花の首をグイと曲げ、私の方へ向けた。

花はやはり、視線もないのに私をじっと見つめてくる。


「見てごらんなさい、この子たちを。みんな、昔はあんたみたいに綺麗な声で鳴いていたはずよ。……でも今は、公爵様の望む通りに『黙って見つめる』ことしかできない。……ふふ。あんたもいつか、そんな素敵な『沈黙』を手に入れる日が来るわ。それこそが、この城のメイド長(私)にできる最高の祝福よ」


マダムの笑い声は、風に揺れる花々の擦れる音にかき消された。

彼女も、リアムも、そしてこの庭を埋め尽くす石像や花たちも……。

みんなアルカード様に「定義」され、自分自身の本当の姿を忘れてしまった残骸なのだとしたら。


「……大丈夫よ、マダム。私は、アルカード様の愛を信じているわ」


私は、土で汚れた指輪をそっとドレスの裾で拭った。

指輪の漆黒の輝きが、私の瞳に映る庭園の色彩を、さらに鮮やかで狂ったものへと変えていく。

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