58.とろける平和
「待たせたな、魔王。これが俺たちの旅の集大成、最後のデザートだ」
俺が運んできたのは、白い皿に乗った、シンプルな焦げ茶色の焼き菓子だった。 隣には、牛太郎牧場のミルクで作ったバニラアイスと、ミントの葉が添えられている。
「……黒い塊だな。さきほどの苦い実が、どうなったというのだ?」
魔王は鼻を近づけた。 ふわりと漂う、甘く、そして妖艶な香り。 それは魔界のどこにも存在しない、脳の報酬系を刺激する香りだった。
「その菓子に、スプーンを入れてみてくれ」
言われるがまま、魔王はスプーンを突き立てた。 サクッ。 表面の薄い生地が割れる。 次の瞬間。
とろ〜り。
中から、熱々の黒い液体が、マグマのように溢れ出した。 フォンダンショコラだ。 半熟に焼き上げられたチョコレート生地が、外気に触れて湯気を立てる。
「な、中身が溶け出した!? 生きているのか!?」
「さあ、その熱々の黒いソースと、冷たいアイスを一緒に掬って……口へ」
魔王はゴクリと唾を飲み込み、黒と白のコントラストを口に運んだ。
パクッ。
熱さと冷たさ。 苦味と甘味。 カカオの芳醇な香りと、ミルクの濃厚なコク。 相反する要素が口の中で爆発し、そして混ざり合い、完璧なハーモニーとなって溶けていく。
「…………ッ!!!!」
魔王の瞳孔が開ききった。 彼は言葉を発することもできず、震え出した。
(なんだ……この幸福感は……!)
魔王の脳内を、かつてない快楽物質が駆け巡る。 カカオに含まれるテオブロミンと、砂糖による血糖値の上昇。それは、荒みきった魔王の精神を、温かい毛布で包み込むような癒やしを与えた。
「甘い……苦い……いや、甘い……! 魔界の実は、こんなにも情熱的な味を隠し持っていたのか……!」
魔王は夢中でスプーンを動かした。 皿に残ったチョコレートソースさえも、舐め取らんばかりの勢いだ。
「これが『チョコレート』だ。カカオの苦味があるからこそ、砂糖の甘さが引き立つ。……世界と同じさ。辛いこともあるから、飯が美味いんだよ」
俺がそう告げると、魔王は完食した皿を置き、深々と息を吐いた。 その顔は、もはや恐怖の支配者ではない。 甘い恋をした乙女のように(見た目は巨漢の魔族だが)、うっとりととろけていた。
「……負けた。完膚なきまでに」
魔王は立ち上がり、腰の魔剣を外してテーブルに置いた。
「アレクよ。余はこの黒い甘露のためなら、剣を捨てよう。人間を滅ぼせば、二度とこれが食えなくなる。それは、死よりも辛いことだ」
「商談成立だな。これからは『客』として来い。カカオを持ってくれば、いつでもチョコと交換してやる」
「うむ! 約束だぞ! ……あ、あと、帰りにその『フォンダンショコラ』とやら、折り詰めにしてもらえるか? 部下たちにも食わせてやりたい」
「はいはい、お土産な」
こうして、人類と魔族の長きにわたる対立は、たった一個のチョコレートケーキによって終焉を迎えた。 後に歴史書にはこう記される。 『魔王は剣ではなく、スプーンによって武装解除された』と。




