55.前菜:海と大地の恵み
戦場の真ん中に、雅な和風のテーブルセットが置かれた。 魔王は怪訝な顔で座ったが、その巨大な体に見合わない小さな箸を器用に持った。
「一品目。『向付』です」
セリアがうやうやしく運んできたのは、氷を敷き詰めた皿。 その上に美しく盛り付けられているのは、ナギサの海で獲れた「本マグロの大トロ」と「クラーケンの薄造り」だ。
「……生肉か? 人間は野蛮だな。火を通さねば臭くて食えぬだろう」
「魔界の腐った肉とは違います。まずは何もつけずに、そのままで」
魔王は半信半疑で、透き通るようなクラーケンの切り身を口に運んだ。
「……む?」
魔王の目が丸くなる。
「臭くない……? コリコリとした歯ごたえ。そして、噛むほどに染み出すほのかな甘み……。これが海の味か?」
「次は大トロを。こちらの黒い液体『醤油』と、緑の薬味『ワサビ』を少しつけてどうぞ」
魔王は大トロを醤油に浸し、口に入れた。
とろり。
脂が舌の上で溶ける。 醤油の塩気と旨味が脂の甘みを引き立て、ワサビの爽やかな辛味が鼻に抜ける。
「ぬおおぉぉッ!?」
魔王がのけぞった。
「なんだこれは! 肉が……消えた!? 口の中に濃厚な旨味の爆弾を残して、雪のように消えおった!」
「生だからこそ味わえる、命の鮮度です」
「美味い……! これは美味いぞ!」
魔王の箸が止まらない。あっという間に皿が空になる。
「続いて二品目。『椀物』です」
次に出されたのは、蓋付きの漆塗りのお椀。 蓋を開けると、ふわりと上品な湯気が立ち上る。 中身は、黄金色の出汁に浮かぶ、真っ白な豆腐と、季節の野菜、そして柚子の皮が一片。
「ただの湯か?」
魔王は椀を持ち上げ、汁を啜った。
ズズッ……。
その瞬間、魔王の荒々しい魔力が、スゥッと凪いだ。
「…………ぁ」
魔王が深いため息をつく。
「優しい……。なんと優しい味なのだ……」
昆布とカツオの合わせ出汁。 その複雑にして繊細な旨味が、荒れ果てた魔王の五臓六腑に染み渡っていく。 刺激的な味ではない。だが、心の底から安らぐ味だ。
「魔界の水は泥と血の味しかせぬ……。こんなにも澄み切った、魂を洗うような雫が、この世にあるとは……」
魔王の目尻に、光るものが浮かんだ。 豆腐を食べる。大豆の甘みが広がる。 野菜を噛む。大地の香りがする。
「アレクとやら……。貴様、魔法使いだな? それも、精神を浄化する高等魔法の使い手だ」
「いいえ、ただの農家です。素材の声を聞いて、合わせただけですよ」
「農家……恐ろしい職業だ」
魔王は椀の底まで飲み干し、名残惜しそうに置いた。 彼の目から、当初の殺意は完全に消えていた。 だが、まだ終わらない。 次なる皿は、魔王の胃袋にガツンと響く「メインディッシュ」だ。




