32.夏だ、カレーだ
「……暑い」
ガレの領地に、容赦のない夏が訪れていた。 盆地特有の熱気が澱み、空には雲ひとつない。 かつては岩盤の照り返しでフライパンのようだったこの土地も、緑化が進んで多少はマシになったが、それでも暑いものは暑い。
「アレク様……もう、ダメです……」
執務室の床に、銀色の髪をダラリと広げて倒れているのは、筆頭騎士のセリアだ。 彼女は暑さに弱い。北国出身のエルフ族であるエリルに至っては、氷魔法で自分を凍らせて冬眠状態に入っている。
「食欲が……湧きません。おにぎりすら、喉を通らないなんて……」
セリアがうわ言のように呟く。 深刻だ。 ガレの領民たちも同様で、コボルトたちは舌を出して日陰で伸びているし、人間の移民たちも作業効率が落ちている。 いわゆる「夏バテ」だ。
「これはいかんな」
俺は団扇(竹と紙で作った試作品)で風を送りながら、眉をひそめた。 冷たい麺類があればいいが、まだ小麦の品種改良中で、細く伸ばせるほどのグルテンがない。 この気だるさを吹き飛ばし、胃袋を強制的にこじ開け、スタミナをつける料理が必要だ。
俺の脳裏に、ある「黄金色のソース」が浮かんだ。 灼熱の国発祥の、あの刺激的な香り。
「カレーだ」
俺は立ち上がった。
「カレー……? また新しい料理ですか? カレイの煮付けなら食べたいですが……」
「違う。魚じゃない。数十種類の香辛料を調合し、野菜と肉を煮込んだ、食欲増進の最終兵器だ」
俺は熱弁を振るう。 クミン、コリアンダー、ターメリック、そして唐辛子。 あの香りを嗅げば、どんなに食欲がない人間でも、パブロフの犬のように腹が鳴る。それは人類のDNAに刻まれた本能だ。
「ですがアレク様、この辺りで採れるハーブは、シソやサンショウくらいですよ? そんな南国の植物なんて……」
「ここにはない。だが、ある場所にはあるはずだ」
俺は壁に貼られた世界地図を指差した。 ガレから山脈を越えた南。そこには広大な砂漠地帯が広がっている。 通称「砂海」。
「昨日、味噌を買いに来たギガン将軍が言っていた。『南の砂漠には、口から火が出るほど辛い草を食べる猫の種族がいる』とな」
「猫……ですか?」
「ああ。間違いなくスパイスを使っているはずだ。セリア、準備をしろ! 俺たちは今日から『カレー遠征隊』だ!」
「ええぇ……この暑いのに、もっと暑い砂漠に行くのですか……?」
セリアはげんなりとした顔をしたが、俺が「カレーを食べれば、そのダルさも一発で治るぞ」と囁くと、騎士の目で立ち上がった。
「行きます。その魔法の薬、手に入れましょう」
こうして俺たちは、避暑地に行くようなノリで、灼熱の砂漠へと旅立った。 まさかそこで、この世界の「宗教」という厄介な敵と出会うことになるとは知らずに。




