23.圧搾と一番搾り
それから半年が過ぎた。
ガレの領地は、季節を一巡りし、さらに豊かになっていた。 水田では二度目の米の収穫が終わり、コボルトたちは新築の「長屋」で平和に暮らしている。イリス王女の「おにぎり効果」で、王都からの支援物資や移民も増え、人口は五百人を超えていた。
そんなある日。 俺は再び、あの発酵小屋の前に立っていた。 隣には、相変わらず半信半疑の顔をしたセリアと、助っ人として呼ばれた鍛冶師のガンテツがいる。
「……本当にか? 小僧。わしが作った特製の『圧搾機』を使うほどの価値があるもんなのか?」
ガンテツが疑わしげに鼻を鳴らす。 彼が持ち込んだのは、巨大な万力と、濾過布を組み合わせた絞り機だ。ミスリル製のシャフトが鈍く光っている。
「ああ。樽の中身を見てくれ」
俺は半年間、毎日櫂を入れて育ててきた木樽の蓋を開けた。
フワァァァッ……。
小屋の中に、濃厚な香りが広がった。 それは腐敗臭ではない。 焦がしたような香ばしさと、熟成された豆の甘み、そして食欲を強烈に刺激する塩気を含んだ香り。
「……ん?」
セリアの鼻がピクリと動く。
「……臭くない。むしろ、焼いたお肉のような……いい匂い?」
「ほう、こいつは驚いた。腐った豆の成れの果てとは思えん芳香だ」
ガンテツも目を見開く。 樽の中にあるのは、ドロドロとした茶褐色のペースト状の物体。見た目は泥だが、香りは一級品だ。
「よし、絞るぞ! セリア、ガンテツ、手伝ってくれ!」
俺たちは濾過布に諸味を流し込み、圧搾機にセットした。 ガンテツが太い腕でハンドルを回す。
ギリリリリ……ッ。
圧力がかかる。 そして、注ぎ口からポタリ、ポタリと液体が滴り落ちた。
それは、艶やかな黒褐色。 琥珀のように透き通り、とろりとした粘度を持っている。
「出た……!」
俺は受け皿に溜まったその液体を、震える指で掬った。 そして、舐める。
「…………ッ!!」
脳髄に電流が走った。 塩辛さの後に来る、爆発的な旨味の奔流。 大豆のコク、小麦の甘み、塩のキレ。すべてが調和している。 完璧だ。これぞ日本の味、醤油だ。
「……どうなのですか、アレク様? お腹、痛くないですか?」
セリアが心配そうに覗き込んでくる。 俺は無言で、スプーンに醤油を垂らし、彼女の口元に差し出した。
「毒見だ。舐めてみろ」
「えっ、あ、はい……」
セリアは覚悟を決めて、目を閉じて舌を出した。 黒い雫が、彼女の舌に乗る。
「んっ……?」
セリアの目がカッ! と開かれた。
「しょっぱい……けど、何ですかこれ!? スープ!? お肉の煮汁!? いえ、それをもっと濃縮したような……!」
「『旨味』だ」
俺はニヤリと笑った。
「ただの塩味じゃない。素材の味を何倍にも引き上げる魔法のエキスだ。これがあれば、焼いた肉も、魚も、野菜も、すべてが御馳走に変わる」
「すごい……! 舐めているだけで、ご飯が食べたくなります!」
セリアがスプーンを離そうとしない。完全に「旨味」の虜になっている。
「そして、絞りカスも捨てないぞ。これは『味噌』の原型だ。これまた最強のスープの素になる」
俺はさらに、もう一つの発明品を取り出した。 大豆を煮て絞った白い汁に、この荒野の地下水に含まれる天然の「苦汁」を加えて固めたもの。
プルプルと震える、白い直方体。
「とどめだ。こいつに醤油をかけて食うぞ」
「そ、その白くてフルフルした可愛いものは何ですか!?」
「『豆腐』だ。大豆の精霊みたいなもんだ」
俺は切り分けた豆腐に、刻んだネギ(これも栽培に成功した)と生姜を乗せ、完成したばかりの醤油をタラリとかけた。 黒い滴が白い肌を滑り落ち、美しいコントラストを描く。
「冷奴だ。……食え」
パクッ。
セリアとガンテツが同時に口に入れる。 つるんとした食感。淡白な豆の甘み。そこに醤油のガツンとした旨味が絡み合う。
「「う、美味すぎるぅぅぅッ!!」」
二人の絶叫が小屋に響いた。 ガンテツに至っては涙を流している。
「なんじゃこりゃあ! 酒だ! 酒を持ってこい! これだけで樽ごと飲めるわ!」 「アレク様! これは危険です! この『黒い液体』は、王女様が知ったら国ごと買い取ると言い出しますよ!?」
「ははは、だろうな。だが残念ながら、これはまだ俺たちだけの秘密だ」
俺は冷奴を頬張りながら、窓の外を見た。 北の空が、怪しく曇っている。
平和な食事の時間だ。 だが、俺の「観察眼」は、風に乗って運ばれてくる微かな「鉄と血の匂い」を捉えていた。
「……客か」
俺は箸を置いた。 どうやら、この最高の和食定食を狙う、招かれざる客が近づいているようだ。




