21.究極の「塩むすび」
屋敷の居間。 長椅子に横たわったイリス王女は、荒い呼吸を繰り返していた。
「……何も、食べたくない……。匂いだけで、吐き気が……」
王宮のシェフが作った最高級のスープですら、彼女は受け付けなかったという。 体が「マナ」そのものを拒絶しているのだ。
「大丈夫だ。これを食べてみろ」
俺は、先ほど炊きあがったばかりの土鍋から、新たなご飯をよそった。 そして、手に塩と水をつけ、熱々の米を握る。
キュッ、キュッ。
リズミカルな音が響く。 余計な力はいれない。米と米の間に空気を含ませるように、優しく、しかし形は崩れないように。
「……それは、何だ?」
執事が怪訝な顔をする。 皿の上に乗せられたのは、真っ白な三角形の塊。具もソースもない。湯気だけが立ち上っている。
「『塩むすび』だ」
「しお……? そんな貧相なものを殿下に……!」
「黙って見てろ」
俺は皿を王女の顔の近くに差し出した。 炊きたての米の香り。 それは甘く、優しく、決して押し付けがましくない。
イリス王女の鼻が、ピクリと動いた。 虚ろだった瞳が、ゆっくりと皿に向けられる。
「……いい、匂い……」
「魔法の毒は入ってない。これは、俺たちが泥まみれになって育てた、ただの穀物だ」
俺の言葉に、王女は震える手を伸ばした。 小さな手で、大きなおにぎりを掴む。 熱いはずだが、彼女はその温もりが心地よいのか、両手で包み込むように持った。
そして、小さく一口、齧りついた。
ハムッ。
時が止まったようだった。 執事もセリアも、固唾を飲んで見守る。 もし吐き出せば、俺の首が飛ぶかもしれない。
モグ、モグ……。
王女の口が動く。 そして。
ゴクリ。
喉が鳴った。飲み込んだのだ。
「…………ッ」
王女の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「……温かい……」
彼女は掠れた声で呟いた。
「体が……温かいの……。胃が、痛くない……。甘くて、優しくて……」
彼女は二口目を食べた。今度は大きく。 三口目、四口目。 止まらない。あれほど食事を拒否していたのが嘘のように、彼女は夢中でおにぎりを頬張った。
「美味しい……! 美味しい……!」
米に含まれる純粋な大地のエネルギーが、彼女の体を巡り、蓄積していた汚染マナを浄化していく。 蒼白だった頬に、見る見るうちにバラ色の血色が戻ってくる。 それは魔法による治癒ではない。「食べる」という行為が持つ、根源的な回復力だ。
「馬鹿な……。ただの白い穀物の塊だぞ……?」
執事が腰を抜かす。 セリアは誇らしげに胸を張っている。「そうでしょ、私の主君はすごいでしょ」と言いたげだ。
その時だった。
「待たれよ殿下ァァァッ!!」
ドタドタという足音と共に、ドアが乱暴に開けられた。 父バルドルと弟ライルだ。
「アレク! 貴様、殿下に何を食わせている! そんな下賎なものを!」
バルドルは王女が食べているおにぎりを見て、顔を真っ赤にして激怒した。
「見ろ、泣いておられるではないか! 貴様、毒を盛ったな!?」
「違う、これは……」
「黙れ! 衛兵、こいつを捕らえろ! 殿下、口直しにこちらのパンを! 我が領地で採れた最高級の小麦を、宮廷魔導師の火力で焼き上げた逸品です!」
バルドルは王女の目の前に、カチカチに焼けた黒っぽいパンと、ドギツイ色の野菜を突き出した。 そこから漂うのは、鼻を刺すような人工的なマナの臭気。
イリス王女の手が止まる。 彼女は、食べかけのおにぎりを大事そうに抱きかかえると、父たちを睨みつけた。
その瞳は、先ほどまでの弱々しいものではない。 王族としての、氷のような威厳に満ちていた。
「……下がれ」
「は、はい?」
「その毒物を、私の前から消せと言っているのです」
王女の冷徹な声が響いた。 バルドルとライルが凍りつく。
「ど、毒物……? 滅相もございません! これは我が家の最高傑作で……」
「臭いのです」
王女はハンカチで鼻を覆った。
「貴方たちの野菜からは、腐臭がします。土地を虐げ、無理やり太らせた醜悪な欲望の匂いです。あのようなものを食べさせられる領民が不憫でなりません」
「な、なな……っ」
バルドルがパクパクと口を開閉させる。
「それに比べて、この『塩むすび』は……」
王女は再びおにぎりに愛おしげな視線を落とし、最後の一口を頬張った。
「大地の愛そのものです。……セバス」
「はッ!」
執事が姿勢を正す。
「勅命です。グラナード辺境伯家に対し、ガレへの立ち入りおよび干渉を禁じます。また、彼らの領地の野菜が、なぜこれほど不快なのか……王室監査官を派遣して徹底的に調査なさい」
それは、実質的な死刑宣告だった。 調査が入れば、彼らが魔法を乱用して土地を殺していること、そして領民を飢えさせていることが公になる。爵位剥奪は免れないだろう。
「そ、そんな……殿下、お待ちください! これは誤解で……!」
「衛兵、つまみ出せ」
近衛騎士たちが無言でバルドルとライルの腕を掴む。 二人はズルズルと引きずられていく。
「アレク! お前の仕業か! 父を嵌めおってぇぇぇ!」 「兄さん! 助けてよ! 僕たち家族じゃないか!」
情けない悲鳴が遠ざかっていく。 俺はそれを冷ややかな目で見送った。
「家族か。……俺の家族は、この畑の作物と、共に汗を流す仲間だけだ」
俺が呟くと、イリス王女が服の袖をチョイチョイと引っ張った。 見れば、空になった皿を差し出し、上目遣いでこちらを見ている。
「……アレク、と言いましたね」
「はい、殿下」
「その……もう一つ、頂けますか? 今度はもっと大きいのを」
俺とセリアは顔を見合わせ、吹き出した。
「承知いたしました。いくらでも食ってください。米なら腐るほどありますから」
「ふふっ。貴方の領地は素晴らしいですね。私、ここが気に入りました」
王女の笑顔は、まるで太陽のように輝いていた。 こうして、ガレの領地は王家の「直轄地」……というより、王女お気に入りの「美食リゾート」として認定されることになった。
米の力は偉大だ。 だが、これで終わりではない。 米があるなら、次は「味噌」と「醤油」だ。 俺の野望(和食コンプリート)への道は、まだ始まったばかりである。




