0.未練と泥と、新しい朝
叩きつけるような雨音が、鼓膜を揺らしていた。 視界は真っ白で、足元は泥濘み、立っているのがやっとだ。
「おい耕作! 戻れ! 用水路が決壊しそうだ!」 「馬鹿野郎! 今ここを離れたら、三年かけて作った『土』が全部流されちまう!」
俺、大地耕作は、台風の暴風雨の中で叫んでいた。 俺は農家だ。ただの農家じゃない。誰もが見捨てた耕作放棄地を借り受け、石ころだらけの荒れ地を、フカフカの黒土に変えることに命を燃やす「土壌オタク」だ。
この畑も、やっと団粒構造ができ始めたところなんだ。 微生物が増え、ミミズが戻り、今年こそ最高のナスができるはずだった。
「頼む、耐えてくれ……俺の土……!」
クワを握りしめ、泥の壁を補強しようとした瞬間だった。 ドォォォォォン、という腹の底に響く音が聞こえ、視界の端から茶色い津波が迫ってきた。
(あ、これ死ぬな)
不思議と恐怖はなかった。ただ、強烈な無念だけがあった。
俺の人生、土作りだけで終わっちまったな。 まだ、あの畑で何も収穫できてねえのに。 あそこには、まだ窒素とカリウムのバランス調整が必要なのに――。
意識はそこで、プツリと途絶えた。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき、俺は知らない天井を見上げていた。 全身が火のように熱い。高熱にうなされているようだ。
「アレク様! アレク様がお目覚めになられました!」
メイド服を着た女性が慌てて部屋を飛び出していく。 アレク? 誰だそれは。 俺は起き上がろうとして、自分の手を見た。小さい。白くて細い、子供の手だ。ゴツゴツしてマメだらけだった俺の手じゃない。
(そうか、俺は……)
状況を理解するより先に、窓の外が目に入った。 豪奢な庭園が見える。だが、俺の意識は花でも噴水でもなく、その「地面」に釘付けになった。
「……最悪だ」
渇いた唇から、自然と言葉が漏れた。
庭の土が、白く乾いている。 手入れされているはずなのに、表面がカサブタのように硬化し、ひび割れている。 あり得ない。あれは塩害か? いや、化学肥料のやりすぎで土中の微生物が死滅した「死んだ土」だ。
「窒素、リン、カリウム……全部足りてねえ。それどころか、有機物がすっからかんだ」
俺はフラフラとベッドから降り、窓に張り付いた。 貴族の家に生まれたとか、異世界に来たとか、そんなことはどうでもいい。
この世界の土は、悲鳴を上げている。 それが、元農家である俺の本能を強烈に逆撫でした。
「待ってろよ……俺が、直してやるからな」
15歳の少年、アレク・グラナードとしての記憶が脳に馴染むより早く、俺の魂は再び「クワ」を求めていた。




