不正を拒んで地下に落とされた会計士、悪女と噂の令嬢に拾われて逆転! ~私をハメた男爵は、娘ともども全財産を剥ぎ取られて無様に詰んだ模様~
第一幕:泥に沈む天秤
王宮主計局。そこは国の血脈である国家予算の動きを監視し、一滴の無駄も許さぬ「聖域」であるはずだった。石造りの冷厳な部屋には、羽根ペンが紙を擦る音と、規則正しい時計の刻みだけが響いている。 だがその静寂は、傲慢な足音によって無残に踏みにじられた。
「いいか、レオ。この慈善事業の帳簿を見ろ」
若き会計士レオの前に突きつけられたのは、表向きは孤児院への寄付を装った数枚の支出書だった。声をかけたのは、王宮に太いパイプを持つエヴァンス男爵だ。彼は脂ぎった指で特定の項目を指差した。
「使途不明の三万ゴールド。これをすべて『ある高貴な女性が私的に流用した』という形に書き換えろ。最初からそうであったかのように、お前のその器用な指先で美しく、完璧な数字を並べるんだ」
男爵の傍らでは、彼の娘であるリリアンが、宝石の散りばめられた爪を退屈そうに眺めていた。彼女は将来、第二王子の妃になることが確実視されている美しいが、傲慢な様子の女性だ。 「ねえお父様、いつまでこんな埃っぽい部屋にいるの? 早くしてちょうだい」 「分かっているよ、リリアン。……さあ、レオ。これは決定事項だ。お前はただ私の命に従い、数字を弄べばいいのだ」
レオは絶句した。三万ゴールド。それは小さな村が数年は平穏に暮らせる額だ。それを無実の誰かに押し付け、闇に葬るなど、会計士としての魂を売るに等しい。 レオが抗議の声を上げようとしたその時、隣でペンを握っていた親友のハンスが、幽霊のように青白い顔で顔を上げた。
「……承知いたしました、男爵閣下。ただちに、ご指示通りに修正いたします」
「ハンス、何を……! お前、正気か!」 レオの制止を、ハンスの震える絶叫が遮った。 「黙ってくれ、レオ! 頼むから……これ以上、何も言わないでくれ!」
男爵親子が満足げに部屋を去った後、レオはハンスの肩を激しく掴んだ。 「どうしたんだハンス! あんな明らかな不正、通せば俺たちは終わりだぞ!」 ハンスは顔を覆い、絞り出すような声で言った。 「……母さんの病気が、悪化したんだ。王宮薬師しか処方できない、あの希少な薬がなければ、あと一週間も持たない。男爵は……その薬の供給権を握っている。言うことを聞けば薬を出す、逆らえば母さんを見殺しにすると言われたんだ」
ハンスの瞳には、逃れられぬ絶望の泥が澱んでいた。 「これに署名しなければ、母さんは死ぬ。レオ、頼む……今回だけは、目をつぶってくれ。あの侯爵令嬢一人が泥を被れば、俺たちも、俺の母さんも救われるんだ。ただ数字を書きかえるだけだ、頼む!」
レオは拳を血が滲むほど握りしめた。親友の母親の命か、それとも会計士としての正義か。数字という絶対の真理を信条とするレオにとって、それは魂を二つに裂かれるような問いだった。
1度は親友のためと見て見ぬふりをしようとしたレオだが、翌日、レオの出した答えは、ハンスの手から強引にペンを奪い取ることだった。
「……おまえを救うために、無実の人間を地獄へ送る数字は書けない。それを書いた瞬間、俺たちの会計士としての人生は死ぬんだ。ハンス、お前の手は汚させない」
だが、正義の代償は残酷だった。さらにその翌日、レオを待っていたのは「公金領収の不備」という身に覚えのない罪状と、王宮の最下層、陽の光も届かぬ地下の廃棄庫係への左遷命令だった。
第二幕:踏みにじられる正義
地下倉庫は、湿気とカビの臭いが立ち込める「書類の墓場」だった。 レオはそこに閉じ込められても、その瞳から光を失わなかった。彼は知っていた。男爵がハンスを脅してまで隠そうとした三万ゴールドは、氷山の一角に過ぎないことを。
「数字は嘘をつかない。たとえ、バラバラに引き裂かれても」
レオは倉庫に眠る、過去十数年分の断片的な帳簿や、廃棄寸前の領収書の束を繋ぎ合わせ始めた。夜通し、わずかなランプの光を頼りに、計算盤を弾く。 現れたのは、戦慄すべき真実だった。男爵は長年にわたり、慈善事業や公共工事の予算を、網の目のように複雑な経路で横領し続けていたのだ。 レオはそれを一冊の告発書にまとめ上げた。それは一人の会計士が、自らの命と引き換えに綴った、執念の記録だった。
彼は監視の目を盗んで地下を抜け出し、かつての同僚や上司を訪ねた。 「これを見てください! 男爵は国を蝕んでいます!」 だが、かつて「真実を追う」と誓い合った上司は、書類を一瞥もせずに突き返した。 「レオ、お前はまだ分からないのか。エヴァンス男爵を訴えるだと? 命が惜しくないのか。今の王宮で、正しい数字など誰も求めていないんだよ」
最後にレオが向かったのは、王宮の全機関の予算を監視する権限を持つ『会計監査委員会』だった。ここには国王直属の監査官がいるはずだ。ここなら、男爵の権力も届かない。そう信じて門を叩いた。 だが、重厚な扉の向こうで待ち構えていたのは、冷笑を浮かべてワインを嗜む男爵本人だった。
「まだ足掻いていたのか、地下の小鼠め」
「なっ……なぜ、あなたがここに」
「この委員会の幹部たちと私が、どれほどの付き合いだと思っている。お前のような下っ端が持ち込む紙切れ一枚で、私の築き上げた城が揺らぐとでも思ったか?」
男爵はレオが命懸けで書き上げた告発状をひったくると、傍らの暖炉へ放り込んだ。
「ああ……っ!」
炎が真実を舐め取り、灰に変えていく。レオが手を伸ばそうとした時、男爵の配下たちが彼を床に叩き伏せた。
「いいか、レオ。次はない。これ以上騒ぐなら、お前も、あのハンスという男も『不運な事故』で死ぬことになる。道連れが欲しければ続けるがいい。せいぜい地下の闇で、カビにまみれて朽ち果てろ」
無慈悲な打撃がレオの脇腹に食い込む。石畳に這いつくばり、吐血するレオの視界で、男爵の靴が遠ざかっていった。王宮という巨大な城壁の中で、レオは完全に孤立した。 真実を知っているはずの数字は、闇の中で沈黙したまま、彼の無力さを嘲笑っているように見えた。
第三幕:闇の中に届いた「光」
それから三日目の夜。 打ち捨てられた地下倉庫。傷んだ身体を引きずりながら、レオは再び書類の山に向き合っていた。告発状は焼かれた。だが、彼の頭の中にはすべての計算式が刻まれている。 その時、密閉されたはずの部屋に、冷ややかな夜風が吹き抜けた。
「……正義感とは、時に命を縮める猛毒になりますわね。会計士殿」
レオは弾かれたように振り返った。そこには、深いフードを被り、影を纏った女性が立っていた。粗末な地下倉庫にはおよそ不釣り合いな、圧倒的な気品。 「あなたは……? 刺客、ですか。男爵が、ついに私の掃除を命じたのか」 レオは死を覚悟し、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「いいえ。わたくしは、貴方が誰からも相手にされず、それでも捨てることができなかったその『真実』を、買い取りに来た者です」
彼女はレオの前に、一束の分厚い書類を置いた。レオが目を見開いてそれを見ると、そこには男爵が複数の商会を中継して行っていた、秘密口座の取引詳細が記されていた。レオがどうしても手に入れられなかった、パズルの最後の欠片だった。
「これを貴方の記憶にある告発状に添えなさい。三日後の正午、しかるべき場所――わたくしが指定する窓口へ提出すれば、それは必ず受理されます。……三日です。無茶な要求ですが、あなたならできるはず。三日で、彼らが二度と這い上がれないほどの、強固な『数字の檻』を完成させるのです」
レオは震える手で書類を取った。この情報があれば、男爵を逃げ場のない死角へ追い込める。だが、なぜこの女性は自分を助けるのか。 「……なぜ、私に手を貸すのです。正義の盾の無力さに打ちひしがれた、この哀れな会計士に」
彼女は去り際、フードの陰で微かに、だが鮮烈に微笑んだ。 「貴方が守ろうとしたのは、自分自身の潔白ではありません。国が守るべき『正しさ』の根幹です。……期待していますわよ、会計士殿。貴方のペンが、どれほど鋭い剣になるのかを」
第四幕:数字による処刑
三日後の夕刻。レオが寝食を忘れ、心血を注いで作り直した告発状は、王宮の中枢を電光石火の速さで突き動かした。
レオが地下から這い上がると、王宮の正門前は騒然としていた。 そこには、きらびやかな礼装に身を包み、今まさに舞踏会へ向かおうとしていたエヴァンス男爵の姿があった。だが、彼の乗るはずだった馬車は、武装した近衛兵によって包囲されていた。
「な、なんだこれは! 私はエヴァンスだぞ! 離せ、この無礼者ども!」
「エヴァンス男爵。多額の横領、および国家反逆罪に近い規模の脱税容疑で逮捕する」
執務官が冷徹に告げた。 「馬鹿な……なんの証拠があってそのようなことを……!」
「証拠なら、ここにあります」 人混みを割り、レオが一歩前に出た。その手には、男爵が焼いたはずの、しかし以前よりも遥かに精密に組み上げられた「断罪の帳簿」の複写が握られていた。
「この帳簿は、あなたの隠し口座から流れた一銭単位の動きまで、すべてを網羅しています。言い逃れはできません。エヴァンス男爵……すべての証拠は揃いました。あなたが軽んじた『数字の真実』を、その身で重く受け止めてください」
男爵の顔から血の気が引き、膝から崩れ落ちた。豪華な上着は衛兵に剥ぎ取られ、彼は泥の浮いた地面に無様に這いつくばった。 レオはその光景を眺め、長く、深い溜息をついた。
今頃、王宮のきらびやかなダンスホールでは、何も知らない娘のリリアンが、己の破滅の足音を聞いているのだろう。彼女の夢見た「王子の妃」という椅子は、すでに砂の城のように崩れ去っているはずだ。
第五幕:驚愕の再会と、真実の地図
「大断罪」の噂は、一夜にして国中に広がった。 男爵に連なり、不正を黙認し、甘い汁を吸っていた役人たちは、クモの子を散らすように連行されていった。第二王子は事態を重く見た国王によって廃嫡され、エヴァンスとその娘リリアンは全財産を没収の上、国外追放されたという。
レオもまた、自らの手で真実を暴いたものの、一度は不正に加担しかけた過去を清算するため、沙汰を待っていた。 そこへ、新しく就任した王室顧問官からの召喚状が届く。 新しい顧問官は「氷の処刑人」とも揶揄されるほど、不正には一切容赦のない人物だという。
レオは最悪の事態――監獄、あるいは永久追放――を覚悟し、重厚な執務室の扉を叩いた。 「失礼いたします。廃棄庫係、レオでございます」
「入りなさい」
聞き覚えのある、涼やかな声。 デスクに座っていたのは、あの夜、地下倉庫に現れた「謎の女性」だった。 彼女こそ、社交界で「冷酷な悪女」と噂される、イザベラ・ロザリンド侯爵令嬢その人であるという。
「イザベラ様……!? あなたが、あの夜の……そして、新しい顧問官なのですか!?」 「ご苦労様、レオ殿。貴方の綴った数字こそが、わたくしの背中を守り、敵を討つ最強の盾となりましたわ」
レオは驚愕のあまり言葉を失った。あの夜、彼女が持ってきた隠し口座の資料。それさえあれば、彼女自身が告発することもできたはずだ。 「……なぜ、閣下は地下にいた私の窮状を知ったのですか。私のような、打ち捨てられた会計士を」
イザベラは、かつてレオが各署で門前払いされた際にバラ撒いた、あの告発状の控えを取り出した。 「不審な人事の影には、必ず腐敗した不正が隠れているものです。優秀な会計士である貴方が、突然不可解な理由で左遷された。それだけで調べる価値はありました」
彼女は立ち上がり、窓際に歩み寄った。 「そして何より、貴方が各部署を回り、冷遇され、泥を投げられ、傷を負いながらも、最後まで真実を捨てずに動き回ったその『痕跡』があったからこそ、わたくしの諜報網は貴方を見つけることができたのです。貴方がもし地下で絶望し、ペンを置いていたら、わたくしもこれほど鮮やかな一撃は加えられなかったでしょう。これは他ならぬ、貴方の魂が勝ち取った功績です」
レオは溢れそうになる涙を必死に堪えた。報われた。その思いが胸を突く。 だが、彼は震える手で、一枚の辞職願を差し出した。 「……ですが閣下、私は不正を知りながら、友人を守るために一度は沈黙を選ぼうとしました。ハンスも……彼は、法に照らせば罰せられるべき共犯者です。私は、そんな彼を見捨てられない」
イザベラは辞職願に目を通すことさえせず、代わりに一通の公文書を返した。 「ハンス殿の件は、わたくしの判断ですでに処理済みです。当然、不正に加担した罪は消えません。彼は大幅な減俸と降格処分とし、厳しい監視の元で、その贖罪が終わるまで死に物狂いで国に奉仕してもらいます」
「……え?」 「そして、彼の母親の治療薬については、わたくしが個人的に王宮薬師に命じ、永続的な供与を保証しました。……罪を憎むのは当然ですが、人を絶望の底へ追い詰めるのは、わたくしの本意ではありません」
イザベラはレオを真っ直ぐに見つめた。 「レオ殿、貴方が彼を想って葛藤したからこそ、わたくしは彼の中に、まだ救うべき『良心』が残っていることを確信できたのです。友を信じた貴方の目に、わたくしも賭けました」
彼女の瞳は、冬の星のように澄み渡っていた。 「貴方の辞職は認めません。真実のために命を懸け、友のために涙を流せる会計士こそ、今のこの国に必要なのです。……これからもわたくしの隣で、その正確なペンを振るってくださいな。わたくしの計算違いでなければ、貴方は断るはずがありませんわね?」
レオは、視界が滲むのを感じながら、深く、深く頭を下げた。 「……もちろんです、顧問閣下。この命、そしてこのペンが尽きるまで。数字に嘘を吐かせない世界を、共に」
執務室の窓の外には、かつての濁った空気など微塵も感じさせない、どこまでも澄み渡った抜けるような青空が広がっていた。
(おしまい)
この話は「悪役令嬢イザベラの断罪手帖」の一部です。
よろしければ、他のストーリにもお目通しくださいませ。
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