Bと娘の再出発
ビジネスホテルの小さな部屋。シングルルームのベッド上。
LEDの白い光が、天井のシミまで、容赦なく照らし出す。
Bはベッドの端に沈むように腰を下ろし、スマホを膝の上に置いた。
画面が、ピコピコピコと振動を繰り返す。
通知の波が、まるで生き物のように這い上がってくる。
続々と着弾する問い合わせメール。
鳴りやまないクレーム電話。いたずらの出前通知。宗教関連のDM。
DDオートは、文字通り地獄の業火で延焼していた。
あの夜の自宅。リビングの時計は、もう深夜を回っていた。
Aの声が、「出てけ!」と割れた。
Bは泣きながら食い下がった。
「そんな! せめて娘だけは――」
だが、Aの目は血走り、火に油を注ぐだけだった。
ご近所の目を気にして、Bはビジネスホテルに避難するしかなかった。
「でも、一人娘なんだし。
きっとあの人も、最低限の面倒は見てくれるはず。
もう3歳になるんだし……1晩ぐらいなら……」
その見立ては甘過ぎた。Aは酒に酔って、玄関の鍵をかけ忘れた。
「Bが戻ってくるはずだ。全部あいつのせいだ。母親失格だ」
と言い訳しながら、ソファで寝落ちた。
しかし、娘の命を危険に晒したのは、紛れもなく両親二人。
保護された娘は、道路の真ん中にうずくまり、「マンマ~」と泣きじゃくっていたらしい。
あのとき、スマートフォンの電話が鳴った。
Bが無視しても、何度もかかってくる。
末尾の番号は、0110。
出てみると、相手は警官を名乗った。一瞬詐欺かと思ったら、紛れもなく本物だった。
「保護された女児の、母親の方ですか?」
Bは保護の状況を聞き、急いで警察署へとタクシーで向かった。終わらない事情聴取。
――でもこれで、娘を取り戻せるのでは……?
生活安全課の署員は、淡い期待を打ち砕く。
娘は児童相談所に保護されたと告げた。
そうか、自分は母親失格なのだ。
もし彼女達、RとMが通りかからなかったら……?
だれか来たとしても、まともな人間じゃなかったら……?
Bは想像するだけで、背筋が凍る。
恐怖と絶望が、胸を圧迫する。
涙で、スマホの画面がぐにゃぐにゃに歪んだ。
どこからか、情報が漏れた。
きっと、Aのパワハラで退職した元社員だろう。
身に覚えがありすぎて、特定すらできない。
会社のメールボックスは未読:999+。
クレーム電話は鳴り止まず、いたずら出前は最初からキャンセルにしてくれと、各方面に依頼した。
「……もう、全部見切れない」
Bは膝を抱え、ため息をついた。
追い打ちのTVニュース。
「書類送検を――」
ネットはおそらく炎上の嵐。
ご近所の奥様方の噂も、考えるだけで憂鬱だ。
DDオートは、県内外の大手企業から契約を打ち切られ、残った社員も一斉退職。
ユニオンが結成され、残業代含む未払い賃金の請求が殺到した。
地銀は融資を引き揚げ、最後に残った取引先とも、契約終了。
内部留保はむしり取られ、DDオートは終焉を迎えた。
Aは高過ぎるプライドが耐えられなかったのだろう。
無断で各口座から金を引き出して、探してくれるな。
という置き手紙だけを残して、行方をくらました。
成人男性の自発的失踪――ましてや明確な動機がある場合、警察はろくに探そうともしないのだと、Bは初めて知った。
でも仮に見つけたところで、娘の親権で揉めるだけだ。
このまま娘を養育し、あとはただ無難に離婚したい。
Bの考えは、まだまだ甘かった。
児相はBの養育に難色を示し、娘はA社長の実母――娘からすると、父方祖母の手元へ引き取られることになった。
彼女は未亡人だが、手堅い資産家。
家の裏手の畑には、大粒のトマトが実る。
「Bさん。貴方には、ほんっとうに失望しました。
私と同じ女子校出身だから、Aとの結婚を許したのに……。
孫娘ちゃんは、将来女子校に通わせて、
ばぁばみたいに、手厚くご指導していただかなくては」
Bは心の中で呟く。
(いや、結局女子校に入れるんか~い!)
それでもかくしゃくとした元義母の態度は、Bにわずかな希望を与えた。
「お義母さま。どうか……どうか娘を、よろしくお願いします。
私、大学院出てますから……都会の方が、チャンスもありますし。
出稼ぎに行って参ります。
娘の学費は、私が払います!」




