Mの幸福最大化
Cは中学校からの帰り道。手帳を片手に、図書館の静かな書架を歩いていた。
T師から聴き取ったCのメモには、本の大まかな作者や、T師が読書を希望する内容が、きっちり書かれている。
「ジェレミー・ベンサム……功利主義思想……?」
Cは小声でつぶやき、首を傾げた。
本のページをめくると、鉛筆で線が引かれた箇所_φ(・_・があった。
図書館の蔵書は公共物なので、たとえ鉛筆✍だろうが、本来はNGだ。
かと言って、Cが消す時にページを破いては元も子もない。次の返却時に司書に伝えよう。そう考えながらCは手帳にメモを取る。
しかし――前に読んだヤツは何を思って、こんな箇所にワザワザ線なんか?
「もしある行為が快楽をもたらし、他者に苦痛を与えぬなら――
それを罪と呼ぶ理由は、いったいどこにあるのだろう?」
Cは目を細める。
(あれ……これ、なんか触ったりとか、セルフケア的な話……?)
ページ下には「Offences Against One’s Self」と英語の章題。
英語は苦手。解説を見ても、さっぱり分からない。
そのとき、横から軽やかな声した。
「ねえ、そこの子」
Cが顔を上げると、私服の年上が立っていた。
見た目は女子中学生~女子高校生の間くらい。
「Tさんのお手伝い?」
Cは少し驚き、答える。
「え……はい」
謎の年上は、にやりと笑う。
「それ、実は同性恋愛擁護やで~☜(↼_↼)」
Cは小さく肩をすくめた。
(へー……そういう話。分かりにくっ……)
それでもこれはT師のリクエスト。
「まあ、借りてくるか……」と本を抱え貸し出しカウンターへと向かった。
謎の年上は当然のようにCについて来る。
この人、中学生……?
いや、Cと違って制服じゃないし、私服高校生?
あるいは、不登校生?
「アナタがC? いつも図書館来てるよね」
その見た目は、全然ヤンキーじゃない。
髪も染めてないし、服を着崩したりもしていない。
タバコ臭もしない。
「え……はい」
Cは少し驚いて答える。
謎の年上は、強いて言うなら、ちょっとスポーティでボーイッシュな雰囲気だ。
しかし図書館なのにガムを噛んでいる。
(いいのか? 顔なじみの司書にチクろうかな?)
Cはわりとチクリ屋だ。本人にはバレないように告げ口するのが、昔から得意。
そんなの謎の年上には、知りようもないし。
「結構しっかりバイトしてるんだね。
Tさんは昔から勉強熱心でさ、
アナタみたいな子がいてくれて助かってるって言ってたわ~。
やるじゃん、このこの~」
「そう……なんですか?」
謎の年上は、いきなり馴れ馴れしく肘でグリグリ。
CはT師の面影がチラついて、謎の年上にもイラついた。
「つーか名乗れよ。誰なんだアンタは」
「えー私、言ってなかったっけ? Mだよ!
通信制に通ってるんだ~♪
図書館には、よく自習に来ててさ。アナタのバイト前任者」
Mは、元不登校生。しかしイジメや、ヤンキー化が原因ではない。
彼女の母が不慮の交通事故によって、日常生活に支障を来たしたのだ。
自賠責保険は下りたものの、相手は任意保険には未加入。支払い能力もゼロだった。
父には日中仕事がある。やむなくMが母の介助。
Mは学校にも行けなくなった。
そこへ駆け付けたのが、T師だった。
Mの母に介護施設を紹介。
父には娘の権利と義務教育を怠るな! と滾々と説教。
現在ではリハビリの甲斐あって、Mの母は日常生活レベルには回復した。
そして現在のMは、ライフワークの登山に打ち込むため、通信高校を選択。
父と協力しながら、母の生活をサポートする日々を送る。
「ウゲッC…ちゃんと読むの? ベンサムって、難しくない? 経済学者の長ったらしい話でしょ?」
「うん……“幸せの最大化”って書いてあるけど、
どういうことか、まだわかんなくて」
「ま、T師はそういうの好きだからね。
みんなが幸せになる方法、ってことだよ」
Cは、先ほど読んだ一節を思い出す。
(でも、“みんな”の中に、誰が入ってるんだろう。
誰も傷つけない人たちも、入れてるのかな)
Cは少しだけ感心しそうになった。
でも、金木犀の香りを思い出し、すぐに眉をひそめた。




