おのれ金木犀ババア
しずかな精神科病棟。天井の蛍光灯が、CとKの母――チカを、淡く照らしていた。
「やはり長期療養を」と医師が告げたとき、彼女は小さくうなずいた。
うつで何度も入退院を繰り返すより、思い切って環境を変えるほうがいい――
そう提案したのは、その後日、診察室に同席していたT師だった。
「“任意団体・地域子育て支援の会”で、Kくんをしばらく預かりましょう」
落ち着いた声が、消毒液のニオイに満ちた空気を和らげる。
転校先の中学校から帰宅したCは、T師の占い館で、T師から同じ説明を受ける。
「ここから歩いて5分ですし、私が代表です」
チカは少し驚いたようにT師を見たが、その穏やかさに気をゆるめた。
Cは一瞬、沈黙した。
「弟を……預けるの?」
声に出した途端、急に現実味を帯びる。
T師は微笑んだ。
「Kくんを養子に出すわけじゃありませんよ。
アナタも引き続き、この館で過ごすの。――チカさんが元気になるまで」
大人にそう言われてしまっては、中学生にはどうしようもない。
Cはしぶしぶうなずいた。
T師の仕事スペース――主に占いルームでは、毎日金木犀の香を焚きしめている。
あの部屋には絶対近寄りたくないのだが、この際仕方ない。
チカはそのまま、療養地へ向けて出立した。
T師の館にひとり残されたCは、静まり返った部屋の中で、弟の寝息を思い出した。
「おのれ……金木犀ババア……」
翌早朝。
CはT師に連れられて、“地域子育て支援の会”を訪ねた。
古い和洋折衷の士族屋敷を改装した建物は、白い壁と木の香りが心地よい。
窓辺に吊るされたモビールが、朝の光でゆらめいている。
和室には清潔なベビーベッドが並び、奥のキッチンでは哺乳瓶を滅菌する音がしていた。
壁には寄付者の名札、棚には絵本と、子どもたちの手作りの紙花。
常駐スタッフや、主婦ボランティアたちは、明るくCを迎えた。
忙しそうな手つきの中にも、温かな空気が漂っている。
Kくんは、小さな布団の上で“あ~”と声をあげる。
オレえらい! オレたのしい♪ とでも言うように。
少しも泣いてはいない。ただ、きょろきょろと周囲を眺め、目が合うとにっこり笑う。
「……Kくん、楽しい?」
Cがつぶやくと、T師はやさしく笑った。
「ここは“あったかい場所”です。みんなで見守っていますよ」
Cは少しだけ眉をひそめた。
その“あたたかさ”が、あまりに整って見えたからだ。
けれど、Kくんの笑顔を見て、肩の力が抜けた。
それからさらに、数日が過ぎた。
母からの連絡は短い手紙だけになったが、Cの中学生活は落ち着いていた。
T師はきちんと三食を整え、小遣いも律儀に手渡す。そんなある日、T師が言った。
「ねえCくん、ひとつお願いしてもいいかしら?」
「なんですか?」
「図書館で本を借りてきてほしいの。私のカードは10冊までだから、あなたのカードも使えたら助かる」
頼まれたのは、本を借りて来て、期限内に返すだけの簡単なこと。
報酬は小遣いの足しになるレベル。
「延滞したら迷惑でしょう? あなたなら大丈夫と思って」
Cは少し考えてからうなずいた。
「……いいですよ。それくらいなら」
ほんの小さな手伝い。
しかしそれが、のちにT師の“もうひとつの顔”を知る扉になるとは――
Cは、まだ知らなかった。




