行ってはなんねえ!事件
ときは昭和――高度経済成長期まっただ中の、夏のある日。
事件は起こった。
S家の避暑地へバカンスに旅立つ車の目の前に、
一人の女ペテン師が飛び出した。
『行ってはなんねえ!』
『きさまあ! 死にたいのか!』
お抱え運転手の急ブレーキがすんでのところでかかり、
女ペテン師は九死に一生を得た。
車に乗っていた四郎の祖父・二郎は、当時まだ四十代半ばの働き盛り。
事業拡大もまだまだこれからという鰻登りの時節柄、
人身事故による突然のスキャンダルなど、たまったものではない。
『死ぬのはあんたやが! 今に災いが天より降りかからん!』
――夏の暑さにやられた、頭のおかしな女のたわごとだ。
S・二郎は一顧だにせず出発し、
プライベートビーチの水の事故で、かえらぬ人となった。
これは行方不明や失踪という意味ではなく、要するに死んだのだ。
そしてS家本邸で通夜や葬儀を営むために、遺体が自宅に運び込まれた。
これを直球で言い表すとなんだかつらいので、
日本語のニュース番組などでは「無言の帰宅を果たした」と表現する。
死者は喋らないからだ。おわかりいただけると恐縮だ。
なお、これは博識な方も今知った方も、決してバカにしているわけではない。
古き良き日本語とやらを、意味を含めて書き残す文化保存の一環である。
さて、当主・二郎亡きあと慌てふためいたのは、残されたS家遺族の面々だった。
不幸中のさいわいで遺児・三郎が跡取り息子として存在していたものの、
まだ幼く、とても企業や従業員を率いるような真似はできない。
白羽の矢が立ったのは、二郎の単なる姉婿・O次であった。
彼O次は一切の野心もなく、至って真面目に中継ぎ社長を勤め上げた。
しかしO次は、甥の育児にはまったく関与しなかったし、
その資格も無いと考えていた。
代わって彼の妻である二郎の姉と、寡婦となった二郎の妻は、
三郎若様に過保護の限りを尽くした。
すると三郎は、成人するや否やいとも簡単に放漫経営でS家を傾け、
当主が勘当されるという異常事態を引き起こしたのである。
なお、さきの女ペテン師は、この一連の大事件により、
自称“百発百中の占い”を掲げるT師に成り上がった。
今では自宅で地域系新宗教を運営し、近所の主婦層からも慕われ、
地元上流層の丁半投資を占う豪快なオバハンである。
「……なにが予言だ。バカバカしい」
三郎のお見合い結婚により誕生したのが、四郎と四乃兄妹だ。
以後の三郎は、精管結紮術と引き換えに資産を与えられ、
それすら使い果たすと時折無心に訪れる。
四郎は、S家の恥である実父・三郎を思い出すと、頭が痛くなる。
サイズの合った革靴はそれほど音がしないものだが、
足運びは日によって変わるものである。
特に四郎の不機嫌に連動して。
出勤時間ちょうどに出社した四郎を、
S家ホールディングス系列企業の従業員が出迎える。
「おはようございます!」
その挨拶を軽くいなして、四郎は社長室に入っていった。
◇◆◇
「室長、今日AIが“きさまあ指数72”って出してます……。やばい日ですよ……。
またO太さんが要らないこと言ったんじゃ」
「なにっ。おいキミ! 入社早々すまんが、社内メッセージアプリで
犬スタンプ(※こういうやつ)送っとけ!」
「へ? 了解です! こんな感じでどうすか!」
(犬スタンプ)
ガチャ――社長室側に通じる扉が開き、秘書室の三名は固まった。
「……犬、元気か?」
「はい! 社長。ご自宅のペットカメラからの状況も、問題ありません」
「ならいい。邪魔したな」
扉が閉まった。
秘書たちは――成し遂げたのだ。
ChatGPT 四郎様モード v3.2、ばんざい。
「助かったあああ!!」
S家ホールディングス系列企業は、AI導入の成功事例である。
皮肉にも、生身の社員よりAIのほうが、四郎様を理解しているがゆえに。




