キンモクセイ公園のほうがいい
四乃が夫と暮らすマンションは、四乃の兄・四郎の所有物件だ。
立地も内装も申し分ない。
けれど、「なんか嫌」だった。
四乃はもう既婚者なのに、自立できていない気がして。
その点やっぱり――キンモクセイ公園近くのマンションは、ちょうどいい。
四乃の職場の旅館からも近く、家賃も安くなる。
まあ、兄物件の家賃も、相場よりはずっと安いのだが。
それに、あちらはスライド式ドアだ。
Cが好む、後付けスマートロックは取りつけられない。
――四乃チョイス、ふたたびか。
少し日が陰りを見せた。
四乃がカーテンを閉めると、部屋の中に兄の影がちらつく。
四乃は少し息苦しくなった。
まだ出ていないのに、もう出ていきたい。
そんな矛盾を抱えながら、四乃はリビングの電気を点けた。
その頃夫のCは、中古車販売店の店先で、中古車の査定をしていた。
依頼主は、S家から勘当された前当主・三郎。
車はマイクロミニカー。
走行距離は短いが、塗装が少し剥げている。
「趣味の車は売っぱらっちまおうと思ってな~」
三郎はへらへらと笑いながら言った。
Cはメモを取りながら、軽く相槌を打つ。
「生活費が足りないのなら、四郎様に無心しては?」
三郎が、声を一段低くした。
「この三郎とーちゃんに、息子に頭下げろってか?」
三郎が、懐から取り出した紙煙草を燃やす。
くわえた穂先の煙が、ゆっくりと空中に広がる。
Cは黙って査定票を確認した。
「いいかC。あいつらがデカイ顔できるのは、ぜーんぶ俺サマのおかげだかんな。
あの嫁も、しーちゃんも、しのちゃんも。
特にしーちゃんは、三郎とーちゃんに感謝祭を開くべきだ。
俺サマが8歳差で兄妹を作ってやったから、経営権で揉めずに済んでるんだぜ」
「へえ、意外とちゃんと考えて生きてらっしゃいますね」
Cの声は穏やかだった。S家のゴタゴタには興味がない。
三郎は、むっとした顔で紫煙を吐いた。
「そりゃそうだろオメエ、俺サマだってなあ~。
プラザ合意さえなきゃ、今もブイブイ言わせてたんだ。
従姉のO歌め、逃げ切りやがって。
放漫経営? アイツの方がひでーモンだったよ。
ブランド買い漁って、毎月のように海外小旅行だぞ? 女将の座に収まってるが、今じゃ考えらんねーだろ?」
三郎の言葉の端々に、失われた時代の自尊心が滲んでいた。
Cはスマホの計算アプリを閉じ、静かに事務所へ引き返す。
「そうだC」
三郎はその背中に声をかけ、口角を上げた。
「しのちゃんにやられっぱなしが嫌なら、アイツを専業にしろ」
「……はあ?」
Cが返す声は、乾いていた。
けげんな表情を浮かべながら、Cは事務所で印刷した査定書を封筒に入れた。
イミテーションの指輪がちらつく。
洗ったはずの手のひらから、四乃好みの金木犀が香る気がして、Cは眉をひそめた。




