S家当主の推正月(おしょうがつ)
冬の冷気が街を包む頃、S家本邸の一角――老舗温泉旅館・仙洞館では、例年通りの正月準備が始まった。
若女将の四乃は、従業員用の更衣室で和服に着替え、帯をきちんと締めながら、朝日の差し込む窓から庭を眺めていた。
年末の忙しさに追われ、寝不足気味だったが、その表情は凛として輝いていた。
「今年も、だいぶ忙しくなりそう……」
四乃は、好みの香りがする金木犀のハンドクリームを手の甲に塗りながら、独り言を漏らした。
塗り終わった四乃がロビーに向かうと、すでに仲居やフロント係が動き回っていた。 松や鏡餅の飾り付け、座敷の掃き掃除、正月用の特別メニューの確認――すべてが手際よく進んでいく。
四乃は旅館各所に指示を出しながら、仕事の合間に本邸にも顔を出した。
客間や玄関の飾り付けを確認する。
S家親戚筋の女将・O歌も顔を出し、本邸の備品や正月飾りのチェックを手伝うが、彼女はあまりしゃしゃり出ず、準備の大半は四乃の采配で進んでいた。
一方、ホテル仙洞では、四郎が総支配人として、年末年始の予約管理や宴会準備に目を光らせていた。
(……ふむ、宴会席次はほぼ完璧。手配漏れはない。料理長、花係、装飾、全員把握。ここで一つでも狂えば、俺の信用に関わる…)
社員との打ち合わせを終えると、四郎は短時間だけS家本邸に顔を出す。
床暖房の効いた座敷は、畳の目の奥までぬくもりを含み、外の冷気と対照的に穏やかだった。
長時間の滞在はできないが、S家正月行事の進行を確認するため、四郎は大広間に軽く腰を下ろした。
「四乃、準備は万端か?」
四郎の低い声に、四乃は一礼する。
「はい、お兄様。万事手筈どおりに」
大みそかの夜。歌合戦もカウントダウン番組も、S家とは無縁だった。
大広間には、柔らかく暖かみのある照明が灯り、畳の緑色や、座布団の色を優しく包み込んでいた。
外は冷たい冬の空気だが、床暖房で足元の畳がじんわりと温かく、踏むたびに柔らかい熱が、爪先まで伝わる心地よさ。
四乃は客膳を最終セッティングし、心地よく過ごせるよう、座布団や茶器の位置を微調整する。
Cは手伝う隙もなく、手持ち無沙汰にそれを眺めていた。
その背後で、四郎は推しの目線、表情、微動を、神業のように同時進行でチェックしていた。家業と推し活の両立――四郎の高級スマートウォッチ⌚が、静かに計測を始める。
♥ 心拍章・壱
✔ 記録モード:夜間・家族団らん監視中
心拍数:92 bpm ストレス推定:やや高
(……いいぞ四乃、完璧な動線だ。座布団の角度も、Cの位置も、あの困った表情も理想的だ……)
Cは初めてのS家宿泊の夜に少し緊張しつつも、四乃の細やかな心配りに感心しながら微笑む。
四郎の鼓動は、微かな高鳴りを抑えつつ、家業と推し活を両立させていた。
「……C、湯呑みの向き、少しこちらに直せ」
四郎の指示でCが軽く手を伸ばし、自然に整える。
その所作を見逃さず、四郎は心の中で小さくガッツポーズを決めた。
♥ 心拍章・弐
✔ 心拍数:108 bpm ストレス推定:高↑
(くっ、Cの指先、湯呑みを整えるその角度……完璧だ…! 理性を保ちながら、心拍♥を抑えるのがこんなに難しいとは…)
「くっ、……すばらし過ぎる。これ以上ない完璧さだ(。ŏ﹏ŏ)」
「それはどうも? 四郎様に、そこまで褒めていただけるとは……(^~^;)ゞ」
♥心拍数:114 bpm ストレス推定:上限接近⚠️
(あ、この目線…俺を意識してる…認知最高…❥❥! この眉をひそめた表情…反則級だ…⁽⁽◝(•௰•)◜⁾⁾!)
四郎の妻が、鍋を携えて大広間へやって来た。
本邸のキッチンで作った、甘めの出汁がきいた年越し餅蕎麦を差し出す。
餅は丸く、湯気にのって香ばしい香りが、畳の間に広がる。
具材には、かまぼこやしいたけも混ざっており、出汁の甘みと餅の柔らかさが、床暖で温まった身体にしみ込むようだった。
C夫妻は座敷で落ち着き、礼を言ってそれをほおばる。
♥ 心拍章・参
✔心拍数:119 bpm ストレス推定:極高⇧
(くっ、やばい…あの口角の上がり具合…幸福度、もう振り切りそう…❌)
四郎は箸とお椀を握ったまま、微動だにしない。
妻が問いかける。
「しーちゃん、お蕎麦食べないの? 冷めちゃうよ?」
♥心拍数:121 bpm ストレス推定:臨界ライン⚠️
(理性を保て……俺は当主……だが推しが尊い……(゜o゜;)
お雑煮蕎麦の後、妹夫妻は本邸の四乃部屋に引き上げる。
Cはさりげなく肩に手を伸ばす。
「四乃さん、お疲れ様でした」
四乃は微笑み、軽くうなずく。
その瞬間、四郎は神業のごとく心拍数を抑え、推し活の記録を更新した。
♥ 心拍章・終
✔心拍数:132 bpm ストレス推定:警告レベル❌
(アワワ(・o・;)、手の動き…指の角度…全てが…! 俺の倫理ブレーキ、限界突破寸前…)
「……家族円満……これも、ありだ……!!」
✔心拍数:128 bpm ストレス推定:回復傾向↓ 理性制御再起動✅
暖かな灯りの下、S家本邸の大みそかは静かに幕を閉じる。
業務、家族団らん、そして四郎の密かな推し活――
すべてが同時に回転する、特異な一日だった。
☀元旦、S家には会社関係者や親族がつどう。
四郎と四乃の老母はおっとりとして、古風な上流出身らしく「よきに計らえ」で通す。
四郎の妻は、長男・長女・次女を連れ、子供たちにつきっきり。
四乃の夫・Cは、まだ姿を現さない。
S家親戚筋の女将・O歌は、来客対応を少し手伝ったが、すぐに旅館の仕事へ戻る。
その息子でS家雑用係のO太も、来客の出迎え準備とあと片付けで、ほとんど顔を出さない。




