四乃チョイス
深夜一時を回ったリビングは、照明を一段落としたまま、柔らかな闇に包まれていた。
ダイニングテーブルの上に広げた書類と、ノートパソコンの青白い光だけが、薄闇で瞬く。
Cは画面に目を凝らし、指先でキーを叩く。
カチ、カチ。
規則正しい音が、時計の秒針と重なる。
だが、集中の糸がほつれ始め、まぶたが重い。
最後のカチ、という音のあと、Cの手は止まった。
小さく息を吐き、頬をテーブルに預ける。
そのまま、眠りに落ちた。
時計が二時を過ぎた頃、廊下から淡い明かりが漏れた。
寝間着姿の四乃が、コップを片手に白湯を求めて現れる。
だが、ダイニングのCを見て、足を止めた。
画面はまだ点いたまま、スクロールバーが半分で止まっていた。
四乃は静かにベッドルームへ戻り、自分のクローゼットからブランケットを取り出した。
淡いベージュ、縁に小さな刺繍が入った、彼女のお気に入り。
リビングへ戻ると、Cの肩にそっと掛ける。
ふわり。 布が触れた瞬間、Cの指がわずかに震えた。
だが、目は開かない。四乃は微笑んだ。
――この人は、放っておくとすぐに乱れる。
仕事も、睡眠も、生活のリズムも。
だから、私が整えてあげなくちゃ。
クスッ、どっちが年上かわからない。
そう心で呟くと、彼女は音を立てずにベッドへ戻る。
翌朝、Cは八時キッカリに目を覚ました。
リビングのテーブルに頬を押しつけたまま、寝違えた首が痛む。
肩に掛けられたブランケットを見て、眉を寄せる。
「……あれ?」 寝落ちした記憶はある。
だが、毛布をかけた覚えはない。
四乃はもう出勤している。
この模様――以前、彼女の部屋で見たものだ。
Cはそれを「気遣い」と受け取った。
けれど、胸の奥に小さな棘が残る。
――寒ければ、起きて部屋に戻っていたはずだ。
リビングで眠るのは、自分の本意ではなかった気がする。
✴
週末の午後、四乃は洗濯室で洗剤の棚を整えていた。
Cの書斎を覗き込み、いつもの明るさで声をかける。
「Cさん、粉の洗剤、もう終わりそうですけど……次はジェルボールにしてみませんか?」
「え? 別に今のでも――」
「ジェルの方が便利ですし、洗い心地も良いですよ」
四乃の声は、いたって穏やかそのもの。
でも、選択肢を提示しているようで、実際には「もう決まったこと」。
Cは曖昧に頷き、結果として洗剤は変わった。
次は寝具。
「この布団、少しヘタってますね。新しいものにしましょうか」
「いや、まだまだ使えるよ?」
「Cさんは夜型でしょう? 寝具の質は健康に直結しますから」
四乃の言葉には、常に理屈があった。
反論の隙がない。
Cは言葉を呑み込み、頷いた。
――気づけば、身の回りのものが、少しずつ「四乃チョイス」になっていく。
でも、感謝して受け容れるべきなのだ。
自分のだらしのなさが、彼女を煩わせているのだから。
✴
週末の夜、ふたりはソファに並んでいた。
配信サイトで人気の映画を再生し、自然な流れで肩が触れ合う距離。
物語の途中で、四乃が画面を指さす。
「ほら、この俳優さん、以前旅館にロケでいらして……」
その瞬間、肘が軽く触れた。
Cは息を止めた。
微妙な距離。
妻を避けるのは、「失礼」だと思った。
四乃は何事もなかったように、横顔を画面に向け続ける。
てらいのない笑み。
だが、その気安さが、Cの内側をかき乱した。
――四乃さん、何を考えているんだろう。
お互い望まない結婚を強いられたはずなのに。
あなたは結局、兄である四郎に従うのか?
Cの意識が、自分の内側へ沈んでいくとき――
四乃の「家庭内秩序」は、静かに完成へと向かっていた。
四乃は、微笑みながら、Cのグラスにも炭酸水を注いだ。
氷が、静かに音を立てながらきしむ。
――これが結婚、これが夫婦のくらし。
それが、私の人生。
Cは、グラスを受け取りながら、
気づかなかった。
自分の居場所は、すでに彼女の掌中にあることに。




