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女将O歌のぼやき

 覚醒すると同時に夢の内容を忘れ、枕元のアラームを止める。起き上がって衣服を着替え、パンを食べて外へ出た。


 四乃は、出かける直前に夫の部屋をそっと覗く。

 夜型のCはまだ眠っていた。枕が変わると眠れないらしい。

 やっぱり布団が落ち着く、と言って、実家から持ち込んだ布団の上で微睡んでいる。



 四乃は仙洞館に到着すると、従業員用の更衣室で和服に着替える。

 鏡に向かい、帯を締め、髪を整える。

 四乃は最後に、大好きな金木犀のハンドクリームを手に纏う。

 すべて手馴れた動作だ。

 身支度を整えると、帳場室へ向かう。


 すれ違う仲居やフロント係たちが「おはようございます、若女将」と声をかける。

 四乃は微笑みで返し、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。


 帳場の襖を開けると、女将のO歌が帳面を広げて座っていた。

 四乃は丁寧に一礼し、O歌も穏やかにうなずく。


 帳場には帳面や予約台帳が几帳面に並ぶ。

 四乃は椅子に腰かけ、昨夜の宿泊伝票を照らし合わせながら、今夜の予約リストに目を通す。


 「あらっ。この新規のお客様……三番のお部屋に、お子様用の作務衣と布団を、一枚追加しなくては」


 四乃は内線を取り上げ、仲居頭へ指示を伝える。

 女将O歌がそれを見つめ、領収書を束ねながら、ため息混じりに言った。


 「……四郎お兄様も、若女将も。やっぱり“外の血”がお好きですねぇ」


 四乃は眉をひそめる。

 「女将、なんのお話しでしょうか?」


 O歌は慌てて口を押さえ、乾いた笑いを漏らす。

 「あら……聞こえてしまいました? 帳場は声が響きますものね。

  ――いえ、ついこぼしただけ。本家の方々の、お相手選びについてですのよ」


 「義姉と私の夫に、なにかご不満でも?」



 O歌は口元をほころばせ、静かに返答した。

 「いえいえ、まさかそんなことは。

  素敵な方々ですから。


  でも、他所からいらしたのに嫁入り婿入りなんて……大変だろうな、と思いまして。

  ですから私、若女将には地元の方を紹介しようと思ってましたのに。

  ことごとく四郎お兄様に阻止されてしまって……」



 四乃は、ふと高校時代の光景を思い出す。

 兄・四郎が、お見合いの釣書を庭の池にポイ捨てした事件――。


 兄は大学入学と同時に剣道を辞め、学生時代から一族経営に参画し、期待通りの妻を選び、卒業と同時に籍を入れ、待望の長男を授かった。

 親戚一同は泣いて喜び、兄は会社を継ぎ、父・三郎の代で傾いた放漫経営をあっという間に立て直しましたとさ。めでたし、めでたし。


 さて、妹・四乃の処遇はどうするか。

 兄は健在、その息子も問題なし。まだ次子も望める年齢。


 四乃は当時まだ高校生とはいえ、花の命は短く儚い。


 「お兄様のように、早めに結婚させては如何ですか?

  女子大に進ませて、お見合いなさったら?

  ご両親もそうでしたし、おっとりした方ですから、その方が幸せになれますよ。

  そうそう、ちょうど紹介したい殿方が――」


 O歌が差し出した釣書を、兄は庭の池に投げ捨て、高らかに笑った。

 「四乃、オマエは何も気にするな。半端な家に嫁ぐ位なら、独身でいろ」


 その言葉どおり、四乃は独身を謳歌した。

 だが、20代の終わりに差し掛かった頃、スポーツ仲間としてCとバドミントンをしていたところ(※兄は黙認。何ならCとの仕事上の付き合いは、兄の方が長い)

 ――兄の圧力で、しぶしぶ結婚した経緯を思い出す。



 四乃は眉をひそめる。

 「外の血……? 彼は中高は地元のはずでは……?」


 O歌は口元をほころばせたまま告げる。

 「実はCさん……親御さんが離婚され、お母さまがうつ病だったことまではご存知ですよね?」


 四乃は軽くうなずく。

 「ええ、そうですね」


 「で、さらに……ご存知かどうかはわかりませんが、Cさんが13歳のとき、都会から縁もゆかりもないこの地方都市に、お母さまと弟さんと一緒に越していらしたそうで」


 その言葉に、四乃の目が一瞬見開かれる。

 「……えっ?」


 四乃はこれまで、Cの経歴はほぼ把握していたものの、その転居の事実だけは知らなかった。

 C自身も昔のことは「大したことないですよ」と笑って話題を変えていたため、自然と伏せられていた情報だった。


 四乃は思わず口元に手を当て、驚きを押さえたままO歌の顔を見る。

 O歌はにっこり微笑む。

 「あらまあ……そうでしたか」


 O歌はゆっくりと帳簿をめくった。

 

 「若女将、少し驚かれましたね。でも、知らなくて当然です。私も、うちのバカ息子(※O太)から聞いただけですし」


 四乃は頷きつつも、頭の片隅でふわりと記憶が重なる。

 Cの笑顔や小さな仕草、都会での暮らしぶりを思い浮かべながら、少しだけ新鮮な視点で、Cを想った。



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