『漆黒企業』DDオート
展示場の照明が落ちる。
最後の客を見送ったあと、妻Bはデスクに戻り、営業報告を整理していた。
夫Aが後ろから覗き込み、数値の入ったシートを指で叩く。
「この車、オプションは全部セットで行け。後から『別に要らない』って言われても関係ない。セットだから買うしかないんだ」
妻Bは、ため息をつきながらも反論できない。
「でもあなた、お孫さんの就職祝いですってよ。本当にこんな全部必要…?」
「かわいい孫のためだろ、いくらでも出すさ。営業は心理戦だ。多少は誇張してでも、流れを作るのが社長の仕事だ」
軽く言うその調子に、妻Bはもう何も言えない。
最初の頃は抗議もした。
「そんなやり方じゃ顧客の信頼を失う」と。
けれど夫Aは笑って答えた。
「信用ってのはな、“失わないように演出するもの”だ」
――その言葉の意味を、妻Bは今も完全には否定できない。
社員の誰かが辞めるたび、妻Bは引き止め役として謝罪に回る。
「社長も悪気があったわけじゃなくてね……」
そう説明しているうちに、自分でも何を守っているのかわからなくなる。
夫Aは妻Bを信頼している、とのたまう。
「お前がいなきゃ、この会社は回らん」
その言葉が、妙にうれしい。
自分は“必要とされている”――そう感じられる、唯一の瞬間だった。
そして翌朝には、何事もなかったように制服を着て、夫の隣に立つ。
“副社長”として。
“良き妻”として。
しかし、“賢き母”にはなれなかった。
不妊治療の医師は、やさしい声で言った。
「体質の問題もあるけれど、集中力の波や生活リズムの乱れが、ホルモンバランスに影響している可能性もありますね」
そのあと、検査の結果を見せながら、妻Bにさらりと告げた。
「こういう傾向がある方は、自己管理が難しいこともあります。
投薬で少し安定するかもしれません」
妻Bは頷いた。
そう言われて、驚くほど心当たりがあった。
女子校時代、むかうところ敵なしの天才肌だった。
大学院の研究室で、徹夜して論文を書き上げたときの、激し過ぎる高揚。
気がつけば文字どおり、丸一日没頭していた。
逆に、まったく何も手につかなくなる日々。
今まで“性格の問題”で片づけてきたものが、ひとつの線でつながっていく。
薬を受け取る手が、少し震えた。
「病気」とは言われていないのに、なぜか“瑕疵”を告げられたような気がした。
帰宅後、夫Aに何も言わなかった。
副社長として、妻として、“健常”でいなければならない。
彼の前で、弱さや揺らぎを見せることは許されない。
そのかわり、夜、寝室の明かりを落としたあと、妻Bは1錠、キッチンで薬を取り出した。
錠剤が指の上で小さく光る。
妻Bは息を止め、そっと水道水で流し込んだ。
――これは私を保つための薬。
でも、もし彼に知られたら、“欠陥品”と見なされるだろう。
妻Bは目を閉じる。
そして、翌朝また、何もなかったかのように会社に出る。
数年が経った。未だに夫Aには告白できていない。
今日も彼は新入社員のFを怒鳴り散らし、無能女と蔑む。たしか事務職として雇い入れたはずなのに、営業や外回りを強要し、ノルマ未達を罵倒する。
いまの彼女に、薬を飲まなかった自分自身が重なった。
「あなた…もうそれぐらいにしておいたら。彼女、泣いてるじゃないの」
「泣けば許されるとでも!? これだから甘やかされた大卒は、安い高卒の方がもっと真面目に、もっと必死こいて働くぞ! F、お前が辞めれば、今すぐにな!」
――私はわるくない。副社長として、ちゃんと社員を庇った。
夫Aは、社員達のえり好みや、依怙贔屓も激しい。しかもそれが、必ずしも契約実績には比例しない。
要するに、自分をおだて、良い気にさせる人材だけを好むのだ。
「お願いします! 週末、弟の地方大会があるんです! 小学校最後ですし、今度こそ見に行って、応援してあげたいんです」
営業に週末プライベートなんかあると思うな。常に努力しろ。……ああ、でも。誠意を見せて土下座するなら、特別に許してやってもいいかもしれない。
ああ、C君…閉店後のショールームで、異様な光景。しかし誰も口には出さない。
――わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。




