マイ・フェア・レィディ
若女将――四乃のもとに、S家親戚筋のO太が訪れた。しかし仙洞館は、経営会議のまっ最中である。
「ご友人の方がいらっしゃっておりますが、どうなさいますか?」
女将O歌は鼻を鳴らし、息子を軽くたしなめる。四乃は返答次第では出迎えるつもりで、O太に訊ねる。
「どなたでしょうか。その方のお名前を、教えていただけますか?」
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「四乃さん、お元気だった? 私この間、隣県の学会に行ってきたの。こちら、お土産のフィナンシェ。とても美味しくて、ぜひ召し上がってほしくて」
「まあ、ありがとうございます。せっかくですし、お茶をお淹れしますよ。…ね、上がっていってくれるんでしょう?」
――仙洞館控えの間。
四乃は、にっこり笑う。わざわざ訪ねてきてくれた、女子校時代の旧友は、カップの紅茶をさましながら、ちらりと近況に触れる。
「夫は大学勤務で忙しくてね、夜はほとんど帰って来れないの。妹もいよいよ研修医だし、わが家のことは、ハウスキーパーに任せっきり」
四乃は頷き、部屋の窓から裏庭の手入れをする庭師を見やる。
「そうでしたか。大切なことです、信頼できる人に任せるというのは」
「ふふ、やっぱり。四乃さんなら分かってくれると思った。私や両親に代わって、子ども達の面倒も見てくれるし――正直、産んだら終わりって、ホントありがたい……大きい声じゃ言えないけど。私ね、今なら医者家系に産まれてよかった、って、心底思える」
控え室に柔らかな笑い声が広がり、裏手の小さな空間に二人の穏やかな時間が流れた。
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仙洞館未公開エリア――S家本邸。窓際のソファに腰掛け、紅茶をひとくち。外は淡い夕暮れで、道行く人々の足取りはまばら。
友人たちから結婚の知らせが届くたび、四乃は胸の奥で、ちょっとした薄もやを感じる。先ほどの医師であり、医者の娘。ごく普通の会社勤め、学校教師――みんな同じ女子校の同級生――多かれ少なかれ、家庭と子どもを手に入れている。
「四乃さんは私と違って、本物のお嬢様ですもの。さすがねぇ、自由で羨ましい」
まじり気のない純粋な褒め言葉。
中学から高校、あるいは大学まで。ずっと一緒の女子校仲間だから、そこに一切の皮肉はない。羨ましがられているのはわかる。けれども、微妙に複雑な気持ちが混ざる。羨ましいのはどちら? ――自由なのか、それとも安心なのか。
まぎれもない自由。
四乃は、裕福な実家でゆとりのある生活を過ごし、誰にも急かされない日々を送る。
でも、友人たちの「普通」の選択を見ると、少しだけ孤独を感じる。彼女たちは、社会や家族、年齢を意識して、人生の枠を埋めるように結婚を選んだのだろう。四乃はその枠の外で、はじめから終わりまで生きていく。
――別にひとりが好きなわけじゃないはずなのに。ひとりで居るのが長すぎて、今さら他人に合わせられない。
四乃は自嘲しながら、同じソファに腰掛ける幼い姉妹たちを眺めた。
「London Bridge is falling down,
Falling down, falling down,
London Bridge is falling down,
My fair lady.」
姪たちが歌う英語のうた。義姉が通わせる英会話教室で習ったロンドン橋。
日本語歌詞にはない「マイ・フェア・レィディ」が顔を出す。
さらに四乃の母――姉妹の祖母は日本舞踊推しで、姪たちは忙しい。
「ぱぱこわい~」
「まますき!」
まだ幼い姪たちは、見ていて本当にほほえましい。
「やっと見つけた。君たち、叔母さまの部屋に隠れてたのね。歌うのはいいけれど、お母さまが帰るまでに支度をなさい」
ノックして入ってきた甥は、顔立ちも仕草も昔の兄にそっくりだ。もし甥本人に言ったら、大いに嫌がるだろうが。




