クモの糸
Kくんを親戚に預け、Cの母は精神科病院の定期通院に訪れていた。
予約時間を過ぎ、さらに待たされてようやく診察室へ通される。
担当の男性医師は、質問はするがあからさまに忙しく、結局はいつも薬を出して終わる。
「そうでしたか。詳しいことはケースワーカーさんに聞いてくださいね。はい、次の方~」
返す言葉も浮かばず、受付で処方箋を受け取って流れ作業のように薬局へ立ち寄り、帰路につく。
○
数日後ーーーやっとの思いでケースワーカーへ電話をかけると、話し中で繋がらない。時間を置いて掛け直すと、携帯電話の向こうから、少し疲労をにじませた声が響いた。
(ご家族との関係を少し教えていただけますか?
こちらから照会を出す場合がありますが、もし連絡されたくない事情があればお伺いします。)
(いえ……もう何年も会ってないです。母とは折り合いが悪くって……)
(そうでしたか。じゃあ無しにしておきますね。
申請自体は役所窓口での手続きになります。詳しくはそちらでお聞きください。)
“それだけ?”と聞き返す気力もなかった。
Cの母はチラシの端に、震える文字で「まどぐち」とだけ書いた。
○○
そのまま数週間。
ようやく少し動ける気力が溜まり、夕方が迫る中、Kくんをベビーカーに乗せてたどり着いた庁舎。
ガラス扉に紙が貼られていた。
【本日の窓口業務は終了しました。】
外の時計の針は午後五時五十七分を指していた。
自己嫌悪にうなだれ、トボトボと親戚宅へ引き返す。
食卓で親戚女性がご飯をよそいながら、Cの母を励ます。
「困ったもんよねぇ、役所ってすぐ閉まるんだから。でも引っ越す時は言ってね。
うちのお父さんはもういないけど、息子と孫がいるから! 親子そろってラガーマンなの。タンスくらい軽々よ~!」
「ラガーマンってなに?」
Cの一言に、親戚女性は満面の笑みを浮かべ、いそいそとアルバムを引っ張り出す。
試合の写真を見せびらかしながら、ラグビー選手のことだと嬉しそうに説明し始めた。
○○○
CもKくんも寝静まったあと、母の携帯電話のブザーが鳴る。
先月、講演会で連絡先を交換したT女史からだ。
(もしもし? この間のTです。どう? ちゃんと休めてる?)
なにも答えられない。気まずい沈黙を、T女史が軽やかに破った。
(これはね、ワタシが昔世話した子の話なんだけどーー
まだ中学生くらいだったかな? なかなか学校に来られない子がいてね。
いじめとかグレたとかじゃないの。
行ってみたら、一人でお母さんの世話をしてたの。
事故で身体が不自由になってて、一人じゃトイレにも行けない状態でね。
周りは“親思いのいい子”だって言ってたけど、ワタシはそうは思えなかった。
あのまま一人じゃ、きっとつぶれてた。)
母は思わず息をのんだ。
“つぶれる”という言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
静かな夜。電話の向こうで紙をめくるような音がする。
(ねえ、アナタ。
もし都会の空気がつらいなら、少し環境を変えてみない?
私のいる町、民生委員もしてるから、手続きは全部こっちでやる。
あなたは休むことだけ考えればいいの。
CくんもKくんも、少しはのびのびできると思う。)
結局、何も言えなかった。
ただ「手続きは全部こっちでやる」という言葉に、
久しく忘れていた“安堵”を感じた。
(………いいんでしょうか、私……もう、なにもできなくて……)
(いいのいいの。だってアナターーずっと頑張って来たじゃない。
今度は、社会の番よ。)




