君は生徒会長北条詩乃の可愛さを知っているか?
「ねぇ、君は北条詩乃の秘密を知ってる?」
放課後、淡々と帰り支度をしていた俺に話しかけてきたのは、同じクラスで茶髪ショートの女子、武田だ。新聞部に所属している彼女は、自称情報通として校内のゴシップを集めている。
「お前、とうとう北条の秘密を探ろうってか」
「そうよ! あの美しさとあらゆる才能を持つまさに才色兼備の完璧超人、生徒会長北条詩乃だって、何かしらの秘密を持っているはずなんだから!」
ウチの学校の生徒会長、北条詩乃という女は、あらゆる教科の成績が飛び抜けて優れているのは勿論のこと、どんなスポーツも万能にこなす完璧超人。
その上、どこかの華族とか貴族のご令嬢かのような上品で高貴な雰囲気で、さぞ着物が似合いそうな、長い黒髪のザ・大和撫子という非の打ちどころのない人間だ。最早妖怪の域。
「私はね、あの超絶クール系美少女の秘密を探りたいの。あの北条詩乃だって秘密の一つや二つぐらいあるはずなんだから」
いや、あの北条詩乃の唯一の欠点は、彼女が醸し出す雰囲気が高貴過ぎるが故に、近寄りがたい存在になってしまっていることだろうか。北条詩乃は決して人当たりが悪いわけではないのだが、常に冷静沈着であまり感情の起伏が顔に出ることもなく、俺も彼女の笑顔とか全然見たことがない。所謂クール系なのかもしれないが。
「上杉君はさ、いつも彼女の金魚のフンをやってるでしょ?」
「ちゃんと生徒会役員のはずなんだが」
「そんな君なら、あの完璧超人の化けの皮が剥がれた瞬間を目撃したことがあるんじゃないかと思ったの!」
化けの皮って言ってやるな。
武田が言う通り、俺は北条詩乃の金魚のフン、ではなく一応生徒会副会長として、あの完璧超人と一緒にいることも少なくない。
しかし、あの鉄仮面がそう簡単に剝がれるわけがないだろう。
「そんなの、俺が知ってるわけないだろ。北条が俺なんかに心を開いてるわけがない」
「そうだよね」
「納得するならそもそも聞くんじゃない!」
俺も北条詩乃に冷たくされているわけではないが、学校での彼女を見ていると、あまり人間味を感じないところもある。まぁあんな美貌で成績も良くて、そして生徒会長ときたものだ。この学校の生徒にとってはまさに高嶺の花という存在である。
「でもね、私は絶対に北条詩乃の秘密を掴んでやるんだから!」
「アイツに何か秘密があると思うか?」
「例えば、虫が苦手とか」
「この前、生徒会室に入ってきたセミを真顔で掴んで外に帰してたぞ」
「例えば、雷が苦手とか」
「学校に雷が落ちて停電しても、アイツは眉の一つも動かさないぞ」
「例えば、幽霊が苦手とか」
「アイツ、生徒会室にいた地縛霊を自力で祓ったらしいぞ」
「……猫舌とか」
「アッツアツのコーヒーを飲ませてみたが、平気な顔で飲んでたぞ」
仮に北条詩乃がそういうの苦手だったとしても、多分ギャップ萌えになるだけだと思うけどなぁ。余計に人気が出るだけだ。
「こうなったら、北条詩乃を四六時中監視するしかないわね」
「お前、アイツの秘密を握ってどうしたいんだ?」
「学校新聞に載せる!」
全生徒に知られている北条詩乃の記事ともなれば注目も集まるだろうが、個人情報を流される身にもなってやれよ。
と、北条詩乃の秘密探しに意気込む武田の肩が、背後からポンポンと叩かれた。
「武田さん」
「ほいほーい……って、北条さん!?」
武田の背後に現れたのは、噂の張本人、北条詩乃。いつも彼女の長い黒髪はサラサラで、少し風が吹くだけで心地よい香りが漂ってくるし、そして背も高いから存在感がすごい。
そんな完璧超人を目の前にして、さっきまで意気揚々としていた上杉も縮こまっているようだった。
「特定個人の情報を学校新聞に掲載するのは、あまり良くないと思います」
「ひょえっ」
「もし私のことを記事にしたいなら、インタビューの場も設けますが」
「ひゃいっ! じゃあまた改めて申請させていただきまぁす!」
「お待ちしています」
さっきまではライオンぐらい態度のでかかった武田も、今は蛇に睨まれた蛙かのようにビクビクと震えていて、北条詩乃が現れるやいなや、逃げるように教室から出て行ってしまった。
そして武田がいなくなった後、北条詩乃は椅子に座る俺のことを見下げながら口を開く。
「上杉海渡」
「おう」
俺のことをフルネームで呼んでくるのは彼女ぐらいだろう。
「この前貴方に預けた資料、まだ持ってますか?」
「あぁ、生徒会室に置いてあるぞ」
「なら良かったです。明日の委員会で必要になるかと思いましたので。では」
「おう、さいなら」
用件を済ませると、北条詩乃はスタスタと教室から去ってしまう。
物腰こそ丁寧だが、この会話の淡白さは少し怖いところもある。あまり世間話とかすることもないしな、だから俺も未だに緊張してしまう。
しかし、俺はそんな北条詩乃の秘密を、一つだけ知っている。
◇
帰宅して夕飯や入浴を済ませて、自分の部屋で机に向かって勉強に励む。しかし集中力はそんな長く続かず、ふと机の横にある窓から外を眺めてみる。
俺の部屋は二階建て一軒家の二階の角、そして通りに面していて、窓を開けていると車や電車の走行音、そして歩道を歩く人々の話し声が自然と聞こえてくる。
こんな都会の空を眺めていたって綺麗な星空や夜景が見えるわけでもなく、何の変哲もない住宅街が広がっているだけだ、正直一ミリも面白くない。
だけど、最近の俺には一つだけ楽しみがある。
「伯爵~」
窓の向こうから、声だけでも可愛らしい女の子の声が聞こえてきた。今日も彼女はやって来たようで、俺はカーテンの隙間から自分の家と通りの境に立っている塀の方を見た。
「ミャ~」
すると、二階にある俺の部屋から丁度真ん前に見える塀の上に、いかにもふてぶてしそうな三毛猫が座っていた。
そして塀の向こうの歩道から、長い黒髪でセーラー服姿の少女が、とても嬉しそうな笑顔で三毛猫に話しかけていた。
「こんばんは、伯爵~」
「ミャー」
「今日もかぁわいぃねぇ~」
「ミャ~オ」
夜の通りに人気がないからか、長い黒髪の少女は猫なで声で三毛猫に話しかけて、そして可愛らしい女の子に構ってもらえて満更でもなさそうな三毛猫は、大人しく少女に頭を撫でてもらうのであった。
「おりゃおりゃ~」
「ミャ~」
……女の子があんな猫なで声で猫と戯れている様子を見られるのはかなり眼福なのだが、驚くべきは、その女の子の正体だ。
そう、彼女は北条詩乃。学校では決して剝がれることのない鉄仮面が、猫を目の前にするとまるで別人のようになってしまうのである。
それが、俺が唯一知っている、北条詩乃の秘密だ。
「伯爵~今日は先生にとっても褒めてもらえたの~伯爵ももっと褒めて~」
「ミャ~」
カーテンの隙間から、三毛猫を可愛がっている北条詩乃の様子を伺う。見ると、もう三毛猫を抱きかかえて顔をすりすりしてる。可愛い。
「明日もねっ、体育の授業でバスケットボールもあるし、委員会の時にはまた皆の前に立たないといけないの」
「ミャッ」
「伯爵、明日の私が頑張れるように応援して~」
「ミャ~」
「キャー♡」
北条詩乃はもうたまらないという様子で、三毛猫をギューッと抱きしめていた。存分に猫吸いというやつも堪能しているらしい。
こうやってカーテンの隙間から彼女の姿を覗き見るのも悪い気がするのだが、窓を閉めてても聞こえてくるから、どうしても気になってしまうのだ。よりにもよって、学校ではあんな超絶クール系美少女として名を馳せている完璧超人、北条詩乃なのだから。
「じゃあねっ、伯爵。私、また明日も来るからねっ」
「ミャー」
「伯爵も待っててね?」
「ミャ~」
「じゃあね~」
と、北条詩乃は三毛猫に別れを告げて、笑顔で手を振りながら去っていった。学校では見せることのない笑顔、そして弾むようなステップ。もう何から何まで信じられないが、これは紛れもない現実の光景なのだ。
そんな学校とは違う一面を見せる北条詩乃が三毛猫と戯れている様子を覗き見るのが、ここ最近の俺の日課だ。俺ってば悪い奴だね。
☆
生徒会役員は今日も大忙し。放課後の貴重な時間も定例の委員会に費やされる。
しかし、副会長である俺の仕事はそんなに多いわけでもなく、たまに議事進行を務めることもあるが、優秀な生徒会長、北条詩乃がなんでもかんでも取りまとめてしまうから、昔は結構時間を費やしたという委員会もすぐに終わってしまう。
そしてそんな委員会が終わった後、生徒会役員だけ少し残って雑務を処理して、ようやく帰ろうかというタイミングで北条詩乃は相変わらずの鉄仮面で俺に話しかけてくる。
「上杉海渡」
「おう」
「今日もお疲れ様です」
「会長こそお疲れさん」
「では、また明日」
「おう、んじゃあな」
俺と北条詩乃が言葉を交わすのは、生徒会役員としての業務連絡とこういった挨拶だけの、本当に最低限の会話だけだ。一緒に帰るかと誘おうとしたこともあるが、一緒に帰っても話が弾みそうにないので、俺は諦めてしまっている。
本当に、俺が自分の部屋から見ている北条詩乃の姿は本物なのだろうか。
◇
「伯爵~今日もとっても頑張ってきたよ~褒めて褒めて~」
「ミャ~」
本当に、俺が自分の部屋から見ている北条詩乃の姿は本物なのだろうか。
北条詩乃は今日もいつものように、びっくりするぐらいの猫なで声で三毛猫に話しかけて、三毛猫が鳴くととても嬉しそうに体をピョンピョンと弾ませた。
なんか、猫を前にすると十歳ぐらい精神年齢が若返るのだろうか。
「ねね、伯爵。私ね、色んな部活の細かい予算をね、電卓とかそろばんとか一切使わずに暗算できるの」
「ミャ~」
「そうでしょ~すごいでしょ~」
それは本当にすごいと俺も思うけどね。
あの三毛猫が北条詩乃の言葉を理解しているとは思えないが、三毛猫が鳴くだけで彼女は感激した様子で三毛猫を抱きしめるのである。
なんだか、見ているこっちが恥ずかしくなってくるデレデレっぷりだ。
「伯爵~明日はチュール持ってきてあげるからね~」
「ミャ~」
「ね~伯爵~楽しみにしててね~♡」
なお、あの三毛猫はウチの家族の一員で、本当の名前はホームズと言う。
ほら、三毛猫といえばホームズじゃん。なんか北条詩乃はホームズに爵位を与えてしまったけれど。
◇
「上杉海渡」
「うおっ」
移動教室のため廊下を歩いていると、背後から突然北条詩乃から声をかけられて俺はびっくりしてしまう。
「なんだ、会長」
「今日の放課後、少し時間ありますか?」
「おう、大丈夫だけど、何かあったの?」
「体育倉庫を片付けしてほしいという生徒の要望があったから、整理を手伝ってほしいんです」
「りょっ」
「ありがとうございます。では、放課後よろしくお願いします」
北条詩乃は俺に軽く会釈すると、自分の教室に戻ってしまった。クラスが別だから普段そんなに会話する機会も少ないのだが、彼女の方から声をかけてもらえたかと思ったら、いつも生徒会関係の業務連絡で、内容も非常に淡泊だ。
まぁ、あの完璧超人からこういう風に頼られると、やっぱり嬉しくなるものだ。
◇
「伯爵~」
「ミャッ」
「今日も私、いっぱい頑張ったよ~褒めて褒めて~」
「ミャ~」
「きゃー♡ 伯爵、はいチュールあげるよ~」
今日も外から北条詩乃の猫なで声が聞こえる。今までは車とか電車の走行音とか、やかましい若者の大声しか聞こえなくて迷惑していたが、こんな可愛い騒音はもう毎日大歓迎だ。
でも、伯爵こと三毛猫のホームズと戯れている北条詩乃を見すぎているともう興奮が収まりそうにないため、今日は我慢して彼女の猫なで声を聞いているだけだ。
「私ねっ、今日ね、もうとても散らかってた体育倉庫をお片付けしたの~」
「ミャー」
「ゴミとかもちゃんと捨てて埃とかも綺麗に掃除したら、先生にとっても褒めてもらえたんだ~」
「ミャ~」
「きゃー♡」
その体育倉庫のお片付けに俺も参加したわけだが、あの完璧超人は家事も完璧にこなせてしまうのか、とにかく几帳面に掃除をテキパキとこなして、俺は重量のある器具の移動とか高いところの掃除をしただけだったなぁ。
すると、まだ外から彼女の猫なで声が聞こえてくる。
「今日はね、皆用事があって一人でお片付けになっちゃうかなって思ったんだけど、優しい友達が助けてくれたの~」
「ミャー」
「おかげでちゃんと今日中に終わったよ~」
……ん? その優しい友達って、もしかして俺のこと?
「あの人ったらね、いつも嫌な顔せずに私のお願いを聞いてくれるし、色んな仕事をテキパキこなしてくれるから、とっても頼りになるんだ~」
「ミャー」
「勿論、伯爵もとっても頼りになる猫ちゃんだよ~♡」
「ミャ~」
……なんか、自分がいないところで(本当はいるけど)誰かに褒めてもらえると、めちゃくちゃ嬉しくなる。
俺って北条詩乃目線で頼りになる人だったんだ。俺、副会長やってて良かった。ていうか、北条詩乃に友達として認識されてるのは意外だったな。
◇
「皆さん、今日は遅くまで残ってくれてありがとうございます」
生徒会の仕事がいつもより少し長引いてしまい、部活動生達がぞろぞろと帰り始める時間になってしまった。
しかし、北条詩乃が率いる生徒会役員の面々は、彼女のためならと喜んで仕事に励むのだ。俺もその一人というわけだが。
そしてようやく仕事が終わって帰ろうとした頃、生徒会室の窓の外を見るとざあざあと大雨が降っていた。
「すげぇ雨だな。雷とか鳴りそう」
「上杉海渡、傘は持ってきていますか?」
「おう。会長は大丈夫か? これから日本舞踊の教室に行くんだろ?」
「これぐらいの雨なら問題ありません。では、また明日。今日はありがとうございました」
「おう、んじゃあな」
北条詩乃の口から放たれる、いかにも事務的な感謝の言葉を聞くと、どんな疲れだって吹き飛んでしまうね。
俺もすっかり彼女に夢中なようだ。
◇
自分の部屋から窓の外を見ると、まだ大雨が降り続けている。こんなに雨が降っていると、あの伯爵こと三毛猫のホームズも家の中に避難してしまっている。
だが、ふと下の通りに目をやった時、水色の傘を差した少女の姿が俺の目に映った。
「伯爵……」
ざあざあと降り続ける雨音に混じって、そんな北条詩乃のか細い声が聞こえてきたような気がする。
な、なんかすごく寂しそうなんだけど、アイツ。そんな泣きそうな顔するなよ。
俺はいてもたってもいられなくなって、自分の部屋を出て階段を降りて一階のリビングに行き、クッションの上でくつろいでいた三毛猫のホームズに話しかける。
「おいっ! ホームズ! 早く起きろ!」
「ミャッ」
「ほら、いつものアイツが外で待ってるから」
「ミャー?」
「いつもかわいがってもらってるだろ、ほら行って来いって!」
しかし、せっかくくつろいでいたところを邪魔されたからか、三毛猫のホームズはかなり不機嫌そうな顔をしていて、俺が抱き上げると毛を逆立てて俺の顔を引っ搔いてきた。
「いっでぇ!?」
「フシャー!」
「あぁわかったよ! そうだよな、さすがに雨の日は寒いもんな」
三毛猫のホームズは、北条詩乃に構ってもらっている時はいつも満更でもなさそうなのに、どういうわけか俺を相手にすると不機嫌になってしまう。ウチの家族の一員のはずなんだがなぁ。
そして部屋に戻って外の様子を確認すると、寂しそうにトボトボと去っていく北条詩乃の後ろ姿が見えたのであった……。
◇
「上杉海渡」
昼休み、廊下を歩いていると北条詩乃とばったり出会った。
「おう、どした」
「その顔の傷、何かあったんですか?」
今の俺の右頬には、昨日三毛猫のホームズに引っ掻かれた傷跡がきれいに残っている。そんなに痛いわけではないが、はたから見ると痛々しい傷だろう。
「昨日、ウチのペットに引っかかれちゃってな。別にそんな痛くないよ」
無駄に彼女に心配をかけさせるわけにはいかないと思って、俺は明るく答えてそのまま立ち去ろうとした。
「待ってください」
しかし、北条詩乃は俺の肩をガッシリと力強く掴んできて、俺は驚いて彼女の方を振り返った。
「な、なんだ?」
「そのペットって、もしかして猫さんですか?」
「あぁ、そうだけど」
俺がそう答えると、いつもは鉄仮面の北条詩乃が、動揺しているというか、何かにひどく葛藤しているかのように表情を二転三転させていた。
そんな彼女の姿を見た俺もびっくりしてしまって、思わず声をかける。
「ど、どうしたんだ?」
「い、いえっ、なんでもありません。お大事になさってください」
「お、おう」
わざわざ俺の肩を掴んできた割には、あまり問い詰めることもなく北条詩乃は去って行ってしまった。
きっと、北条詩乃は葛藤していたのだろう。
いつものあのデレデレっぷりを見るに、北条詩乃は大の猫好きだ。だから俺が猫を飼っているというのを知って、思わず声をかけたのだろう。もしかしたら見に行きたかったのかもしれないが、俺の目の前であんな恥ずかしい姿を見せるわけにはいかないと、思い留まったに違いない。
◇
「伯爵~こんばんは~」
「ミャー」
「はいっ、チュールあげるね~♡」
まぁ、いくら彼女が隠そうとしたって、俺はもう知ってるけどね。
「ねぇ伯爵~お友達いるの~?」
「ミャー」
「せっかくだったら、たくさんお友達連れてきてもいいよ~」
きっと北条詩乃にとって、猫カフェというものは天国に違いない。いや、一匹を相手にしてあんな風になってしまうのなら、猫カフェに入った瞬間に昇天してしまうんじゃないだろうか。
すると北条詩乃は、いつも伯爵こと三毛猫のホームズの前では明るく振舞っていたのに、ふと悲しげな表情を浮かべて口を開く。
「私ね、お父さんが猫アレルギーだから、猫さんを家で飼えないだ」
「ミャー」
そうだったのか。猫好きな北条詩乃にとっては悲しい境遇だな。
「私が伯爵を抱きしめた時に制服についた伯爵の毛で、もうお父さんはたくさんじんましんが出ちゃうの」
もっとお父さんのことを労わってやってくれ。
しかし、三毛猫の毛がどれだけ制服や髪の毛につこうが構わないという様子で、北条詩乃はギュっと三毛猫を抱きしめた。
「私、もっと伯爵と一緒にいたい……」
その言葉だけ聞くと、まるでヨーロッパの戯曲の一幕みたいなんだがなぁ。絵面があまりにも可愛らしすぎるけれど、あんな悲しそうな北条詩乃の姿はあまり見たくない。
北条詩乃は、俺の家の近くにある日本舞踊の教室に通っていて、毎日その帰りにウチの三毛猫を可愛がっているのだ。しかし大体夜遅い時間帯で、北条詩乃も遠くにあるだろうから、可愛がることが出来る時間は限られているのだ。
「ごめんね、伯爵。こんな話聞かせちゃって。ほら、チュールあげる~」
「ミャ~」
北条詩乃は平気で人の家の飼い猫に餌を与えているが、前に彼女を見かけた俺の母親が許可したら喜んで餌を持ってくるようになったらしい。
未だに、そこが俺の家だとは知らないようだけど。
◇
放課後、今日は武道館の冷房がどれだけ効いていないかという文句を剣道部や柔道部の面々から聞かされて、一人で生徒会室に戻る。確かに最近の夏はちょっとの冷房じゃ全然涼しくならないし、汗を流す部活動生にとっては本当に死活問題だろう。
そして俺は生徒会室に戻って扉をノックしたのだが、中から返事が聞こえない。会長の北条詩乃が残っていると思ったのだが、どこかに行ってしまったのだろうか。
そう思って扉を開いて生徒会室の中を目にした瞬間、俺は息を呑んだ。北条詩乃が、テーブルに突っ伏して眠っていたのだ。
「はくしゃくぅ……」
あぁ、しかもなんだか聞いちゃいけないような寝言を言っちゃってるよこの人。
「きょうもわたし、がんばったよぉ……」
彼女は夢の中でも三毛猫を可愛がっているのだろうか。多分、他の生徒が聞いたらびっくりしてしまうような寝言だよなぁ。
「ほめてほめてぇ……」
俺は葛藤した。
俺は今、北条詩乃の頭を撫でたい衝動に駆られている。
きっと、いつも三毛猫を可愛がっている彼女の姿を目にしているからだろう。
しかし、もしも俺が北条詩乃の頭を撫でたら、一体彼女はどんな反応をするのだろう? 常に冷静沈着な彼女のことだ、面と向かって怒ってくることこそないだろうが、なんとなく軽蔑されそうな気がするし、今までより若干距離を置かれるに違いない。
あぁ! でも撫でてみたい! この超絶クール系美少女の頭を撫でてみたい! いつも頑張っている北条詩乃を褒めてあげたい!
「んぅぅ~」
俺が頭を抱えて葛藤していると、テーブルに突っ伏していた北条詩乃が目を覚まして顔を上げた。そして生徒会室にいた俺の存在に気がつくと、さっきまでの可愛らしい寝言はどこへやら、いつものキリッとした鉄仮面に戻って口を開いた。
「上杉海渡」
「お、おう」
「お疲れ様です。武道館の様子はいかがでしたか」
「あぁ、やっぱり冷房をどれだけ強くしても暑かったな。冷房を増やすなり新調するなり、何かしらの対策が必要だと思う」
「わかりました。今日はもう遅いですし、これでお開きにしましょうか。ではまた明日」
「おう、じゃあな」
北条詩乃はものすごいスピードでスタスタと生徒会室から立ち去ってしまった。
すごい、まるで自分が眠ってしまっていたことなんてなかったかのように振舞っていた。切り替えすごいな。
……寝言を言ってる北条詩乃、可愛かったなぁ。
◇
今日は久々にいとこの家に遊びに行ってたから帰りが遅くなってしまったぜ。すっかり空は闇に覆われ、何の変哲もない住宅街の通りにも人通りが少なくなってきていた。
そして、街灯が立っている街角を曲がり、そのまま曲がってすぐのとこにある俺の家に帰宅しようとした瞬間──。
「伯爵~こんばんにゃ~」
「ミャー」
「きゃー♡」
ウチの家の前で、三毛猫を可愛がっている北条詩乃の姿が俺の視界に映った。
「私ね、今日もいっぱい頑張ったんだよ~」
「ミャ~」
まだ北条詩乃は俺の存在に気づいていないようだ。そして俺はチラッと自分の腕時計を確認する。うん、今日は俺の帰りが遅かったってのもあるけど、いつもより北条詩乃の帰りが早いね。
ヤバい。
どうしよう、この状況。
そして、俺はすぐに結論を出した。
ひとまず俺は逃げよう。
声をかけるのも躊躇われたので、俺の家がもう目の前にあるというのに、俺は北条詩乃にバレないよう静かに立ち去ろうとしたのだが──。
「あ、海渡おかえり~」
あろうことか、丁度俺の背後から買い物袋を持った俺の母親が登場したのであった。
そして俺の母親は、家の前で三毛猫を可愛がっていた北条詩乃の存在にも、勿論気づいてしまうのであった。
「あら~詩乃ちゃん、今日も来てくれてたの~」
俺の母親に声をかけられた北条詩乃は、伯爵こと三毛猫のホームズを抱きかかえたまま、俺達の方を向いた。
「上杉海渡……?」
そして彼女は、自分の視界に映った、本来はいるはずのない俺という存在に気付いて、三毛猫を抱きかかえたまま固まってしまっていた。
一方で、学校での北条詩乃の姿を知るわけもない俺の母親は、一向にお構いなく口を開く。
「あら海翔、詩乃ちゃんと知り合いなの?」
「俺がいつも話してる会長ってこの人のことだ」
「あらそうだったのね~詩乃ちゃん、ウチの海渡とも仲良くしてあげてね~」
と、俺の母親は余計な一言を言って、楽しそうに先に家の中に入ってしまった。
そして、取り残された俺と北条詩乃は、お互いに黙ったまま見つめあう形になってしまったが、ホームズがミャーと鳴いたタイミングで、先に彼女が口を開いた。
「ここって、貴方の家?」
「あ、あぁ」
ごめん、今まで黙ってて。でもその真実を告げると、北条詩乃の可愛い姿を見られなくなってしまうと、そして彼女の楽しみを奪ってしまうかと思ったんだ。
こうして北条詩乃を目の前にして、俺は何を言うべきか迷って何も出来ずにいたが、一方で彼女は、今までの自分の姿を俺に見られていたことに気づいて恥ずかしくなったのか、見る見るうちに顔が耳まで真っ赤になって、そしてとうとう俺からプイッと顔を背けてしまった。
「上杉海渡」
「お、おう」
「貴方の家の猫は、とても可愛いですね」
「あ、あぁ、自慢の家族だ」
「そうですか、それはよかったです。ではまた明日」
「おう、んじゃあな」
「伯爵も、また明日」
「ミャー」
北条詩乃はいつもの口調を取り繕って俺と三毛猫に別れを告げると、スタスタと立ち去ってしまった。
声、めっちゃ震えてたけどね。
◇
放課後、今日も生徒会は忙しい。
なんでも演劇部の小道具の製作が本番までに間に合わないそうで、生徒会も総出で手伝うことになったのだ。
俺は演劇部の部員の指示通り型紙を切り取る作業をしていたのだが、水筒と紙コップを手に持った北条詩乃が俺のところへやって来て口を開く。
「うううううううう上杉海渡」
「お、おうどうした」
よく母音をそんな連続で言うことが出来るな。
「の、喉は渇いていませんか? 麦茶ならありますが」
「ならいただこうかな」
「で、ではどうぞ」
「サンキュー……ぶほぉっ!? これめんつゆだぁ!?」
「め、めんつゆ!?」
珍しくドッキリでも仕掛けてきたのかと思ったら、いつもは冷静沈着な北条詩乃が慌てふためいているのを見るに、どうやらガチでミスってしまったようだ。
彼女がこんなミスをするなんて珍しい。ていうか誰だ、学校にめんつゆを用意したの。
そして、その後も……。
「会長! この型紙はべつのとこに貼るやつですよ!?」
「ご、ごめんなさい」
「北条さん! この衣装、縫い付けるとこ間違ってます!」
「ご、ごめんなさい……」
いつもの北条詩乃なら絶対犯すはずのないミスを連発し、演劇部の手伝いをしに来たはずなのに、むしろ彼らの仕事を増やしてしまう結果となってしまった。
ただ、いつもとは違う北条詩乃のドジっ子ぶりを目の当たりにした演劇部や生徒会役員の面々は、不思議と微笑ましそうな表情をしていたのであった……。
◇
さて、昨日の今日で北条詩乃はウチの猫を可愛がりに来るのだろうか。今日の学校での動揺っぷりを見るに、とてもやって来るとは思えないが。
そんなこと考えながらチラッと窓の外を確認すると、ウチの家の前の通りに北条詩乃の姿が。
今までは塀の上でくつろぐ三毛猫の姿を見るやいなや嬉しそうに駆け寄ってきていたのに、今日はやけに周囲をキョロキョロと用心深く確認しながら、さながら泥棒みたいな挙動不審っぷりだ。
「こ、こんにちは、伯爵」
「ミャアッ!?」
しかも今日はあの猫なで声ではない。北条詩乃の変貌っぷりを目の当たりにした伯爵こと三毛猫のホームズもびっくりしてんじゃんか。
「きょ、今日はとても良い天気ね、伯爵」
……昨日の出来事があって今日も来てくれたのは嬉しいのだが、今の北条詩乃の姿を見ていると、どうもいたたまれない。
いてもたってもいられなくなった俺は自分の部屋を出て一階に降り、そして勝手口から庭に出て、静かに塀の後ろから北条詩乃の元へ近づいた。
「は、伯爵、こ、こっちに来てもいいんですよ?」
「ミャア……」
塀の向こうから北条詩乃は三毛猫に声をかけ続けているが、一方で三毛猫は彼女に警戒しているようで、塀の上から彼女のことを睨みつけている。
しょうがないなと思って、俺は塀の後ろからひょこっと顔を出して、北条詩乃に声をかけた。
「よっ、会長」
「ひょわああああああああああああっ!?」
そんな泥棒を見つけたみたいな反応をしなくても。むしろそっちの方が泥棒っぽい挙動不審っぷりだったのに。
北条詩乃は普段の姿からは考えられないぐらい飛び上がって驚いていたようだが、すぐに恥ずかしそうにワナワナと唇を噛みしめて、ジーッと俺のことを睨んできた。
「ほら、ウチの猫も警戒してるから、いつも通り可愛がってやってくれよ」
北条詩乃はムーッと頬を膨らませていたが、自分のプライドよりも猫の方が大事だったのか、いつも三毛猫に向けていたように笑顔を作って、ウチの猫を胸に抱いた。
俺が塀をよじ登って歩道側に降りると、北条詩乃は口を開く。
「あの、いつから気づいていたんですか?」
「ほら、そこに窓が見えるだろ」
「はい」
「あれ、俺の部屋なんだ」
「……見てたんですか?」
「丁度一か月ぐらい前ぐらいかね、会長が来てたのは。毎日のように見てるぜ」
すると、未だ顔が赤い北条詩乃は、俺の肩をポカッと小突いてきた。
「あんな猫なで声聞かされたら、そりゃ気になるだろ。可愛がってくれてありがとな、ウチの猫」
「別に、貴方のためではありませんからっ」
「……褒めて褒めて~」
「こらっ」
「きゃー♡」
「もうっ、本気で怒っちゃいますよっ」
北条詩乃はプンプンと怒って口を尖らせていたが、学校での彼女の姿に比べると、もう本当に面白くて、そして可愛くてしょうがない。
そんな風に茶化してる俺にそっぽを向きつつも、北条詩乃はいつもの猫なで声で三毛猫に話しかける。
「ね、伯爵~私が一番ですもんね~」
「あのな、会長。ソイツの本当の名前、ホームズなんだ」
「じゃあホームズ伯爵ですね~」
どうしても爵位を与えたかったのか。
「あのっ、上杉海渡」
「どうした?」
「その、貴方の家に迷惑でなければ、休みの日とかに、貴方の家にお訪ねしても構いませんか?」
「良いと思うぜ。存分に可愛がってくれよな、俺のこと」
「貴方のことは知りませんっ」
◇
それからというものの、北条詩乃は休日の俺の家を訪ねてきて、三毛猫のホームズ伯爵を可愛がるようになった。俺の家に上がり込んで、猫じゃらしとか猫用のおもちゃでホームズ伯爵ととても楽しそうに遊んでいる。
でも相変わらず俺に対しては素っ気ない態度だから、俺からすれば大きな猫が一匹増えたような気分である。
「上杉海渡」
「おう、どした」
そして、北条詩乃が学校で俺に声をかけてくる回数も増えた。相変わらず俺のことをフルネームで呼んでくるが。
「あの、今日もホームズ伯爵のところにお訪ねしても構いませんか?」
「あぁ、良いぜ」
流石に皆の前で俺の家に行きたいとは言いづらいようで、こうしてホームズ伯爵という隠語を使って、今日家を訪ねてもいいかとよく確認を取られる。ウチの家族はいつでも歓迎してそうなんだがな。
「そういえば会長」
「どうかしましたか?」
「実はな、こういうのを入手したんだが……」
俺はポケットから二枚のチケットを取り出して北条詩乃に見せた。それは、今度学校の近くにオープンする猫カフェの先行体験会のチケットだ。
「こ、これは、今度オープンするあの天国の……!?」
「おう。先行体験チケットなんだと。ほら、これあげるよ」
「良いんですか、こんな宝物を」
「大袈裟だな。会長はいつも頑張ってるんだし、存分に癒されて来いよ」
すると、いつも学校では鉄仮面を貫く北条詩乃が、とても嬉しそうに表情をぱあぁと明るくさせた。これを見るために俺は生きているね。
「あの、これ二枚ありますけど」
「あぁ、だから友達と行って来いよ」
「いえ、貴方が一緒に来てください」
「へ? 俺?」
「でないと私、理性を抑えきれないかもしれません」
「じゃ、じゃあ良いけど」
「今度のお休み、空けといてくださいね」
北条詩乃は念を押すように俺にそう言うと、若干スキップ気味に立ち去って行った。
……これ、デート?
「上杉君!」
「ぬおわっ」
北条詩乃からデートに誘われたかもしれないと思って興奮気味だった俺の背後から、ゴシップライター女子、武田が声をかけてきた。
「ねぇ上杉君。最近、あの北条詩乃と仲良いよね?」
「別に。以前と変わらないだろ」
「……本当ですかぁ?」
確かに最近、北条詩乃は休日にも俺の家に訪ねてくるようになったし、学校でも二人きりの時は猫の可愛い動画や写真を見せ合って共有したりしているが、特段仲良くなったというわけではない。
このブンヤに対しては、そういうことにしておこう。
「ねぇ、君は北条詩乃の秘密を知ってるよね?」
「さぁ、知らないなぁ」
「とぼけるなー!」
これ以上北条詩乃が人気になってしまったら、俺も困るんだよ。
◇
そして、猫カフェの先行体験会当日。
「うみゃあ……」
「あの、会長?」
「にゃんにゃんがいっぱい……」
「精神年齢下がりすぎてないか?」
猫カフェで待ち構えていた様々な種類の猫達を前にして、北条詩乃の鉄仮面はすっかり剥がれ落ちてしまっていた。
「ホームズ伯爵、ごめんなさい……私はなんて浮気性な女なんでしょう」
「気にすんなって、存分に楽しめよ」
俺も結構猫好きだからワクワクしてるけどね。まぁ、俺より彼女の方が猫には人気みたいだが。
「で、ではいざ……おりゃりゃりゃりゃ~」
君は北条詩乃の可愛さを知っているか?
「きゃー♡」
今はまだ、俺だけのものにしておきたいな。