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名前を呼んで  作者: 源泉


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そして、不意にひとつのアイコンがゆりかの目に留まる。

それは優斗がよく使っていたメモアプリだった。


優斗のアカウントに紐づけられたそのメモアプリは、どの端末からでも書き込みや閲覧ができるようになっていた。

つまり、優斗が普段使っていたスマートフォンに残したメモが、このタブレットにも同期されているかもしれない。


ゆりかの胸がわずかに高鳴る。


ゆりかはそっとそのアイコンに触れる。

立ち上がった画面には、いくつものメモが並んでいたが、目を引いたのは一番上に表示された、最後に書かれた文章だった。


開かれたそのメモの更新日時は、あの日優斗が事故に遭った日の、会社を出たとされる時間帯と一致していた。

それはつまり、このタブレットに優斗の最期の言葉が残されていたということだ。


タブレットに表示されたメモ。

画面に浮かび上がったのは、打ち捨てられたような文字の連なりだった。

誰かに見せるためではなく、ただ感情の行き場を探して打ち込まれた言葉たち。

まるで心の底に沈んでいた澱をすくい上げたような、生々しくも静かな記録。


ゆりかは指先でスクロールしながら、一文字一文字を追っていく。

そこに綴られていたのは、笑顔の裏に隠されていた優斗の本音だった。


「ゆりかは俺を見てくれる。まっすぐに、無防備に。

でもそれが、時々苦しくなる。

兄さんたちみたいになれない自分を、あの子が気づかないふりをしてくれる度に、

自分が自分じゃないような気がして、嫌になる。

優しくする度に、まるで借り物の感情を与えているみたいだ。

だけどやめられなかった。

ゆりかが必要としてくれるから。

本当は、俺のほうが、ゆりかに依存してたんだと思う。

もう限界かもしれない。

別れを切り出さなきゃいけないと思ってる。

でも、あの子は、気づいているんじゃないか?」


ページをめくるように、次のメモが画面に浮かび上がる。

そこには、さらに言葉を選ぶような、そしてどこか痛みを滲ませる文章が続いていた。


「最近のゆりかは、前よりずっと俺に甘えるようになった。

それは、ただの甘えじゃない。

俺を離したくないっていう、不安の裏返しだ。

本当は、俺がそうさせてしまったんだ。

ずっと、何かを隠してる俺を、彼女は感じ取ってたんだと思う。

笑っていても、目が笑ってないって、きっと気づいてた。」


その瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶の扉が、軋むような音を立ててゆっくりと開き始めた。

ゆりかの瞳が、まるで空白の時間をたどるように静かに揺れる。


彼の様子が、少しずつ変わっていったあの頃。


優斗は相変わらず優しく微笑んでいた。けれど、その瞳はどこか遠くを見ていて、

言葉の端々に、ほんのわずかに戸惑いや躊躇いが混じっていた。

ゆりかは、それに気づいていた。気づいていながら、気づかないふりをした。


彼の背を押すように、逃げられぬように、

無邪気さを装って、いつも以上に甘えてみせた。


そうすれば、彼は自分のそばにい続けてくれると思っていた。

でもその甘えは、優斗を縛る鎖に変わっていたのかもしれない。


そしてゆりかは、自分がそのことをずっと前から知っていたこと、

それを必死に封じていたことに気づいてしまった。



彼が事故に遭ったあの夜。

最後に交わした会話は、ただの「お疲れさま」ではなかった。


「今から少し話せないか?」


その一言に、ゆりかは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

平日の夜にかかってきた沈んだ声。

楽しい話題ではないことくらい、すぐに分かった。


嫌だ、別れたくない。

その言葉が、咄嗟に喉からこぼれ落ちた。

優斗が何かを言い出す前に、ゆりかは泣きながら叫んだ。

「優斗がいなきゃ生きていけない」と、縋るように。


電話の向こうで、優斗は少しだけ沈黙してから答えた。


「分かった。今から会いに行くよ。だから……落ち着いて」


と、いつものように優しく、静かに宥めた。


そしてその声を最後に、通話はふっと途切れた。

ゆりかは安心したように微笑み、スマートフォンをそっと胸に抱きしめる。

自分の言葉が彼の心に何を残したのかも知らずに。


自分に従ってくれること、拒まずに受け入れてくれること。

優斗の優しさにすがる一方で、その反応にどこか満たされる自分がいた。

まるで、自分の不安をぶつけたことで彼を縛りつけたような、支配と安堵の混ざり合った感覚。


そして優斗は、不安定なゆりかを案じて急いで車を走らせたのだろう。

雨の降る、視界の悪い、あの夜の道路を。



ゆりかはあの夜の記憶を取り戻すことでようやく思い出した。

自分がなりたかった妹を演じることで、徐々に苦悩していく優斗の気持ちに、どこかで気づいていたことを。


微笑みながら、ゆりかの甘えを受け入れてくれていた優斗。

けれどその笑顔の奥には、静かに終わりを望む気配があった。

本当は、そのことに気がついていた。けれど気づかないふりをした。気づきたくなかった。


だからゆりかは、自分の記憶に蓋をしたのだろう。


姿のない優斗が、ゆりかを求めるように呼ぶ声。

そばにはいられないけれど、見守るように囁く声。

自分のもとへ来てほしいと誘う、執着の混じった声。

そして、ゆりかが他の兄たちに心を惹かれているのではないかと、嫉妬に染まる声。



その全てが、ゆりかの耳に届くたびに心を震わせた。

なぜならそれは彼女自身が、優斗から聞きたかった言葉だったからだ。



生きていた彼は決して口にしなかった、けれど心のどこかで望んでいた、そんな優しさと執着が形を変えて今になって響いてくる。

それが幻か、後悔が生んだ虚像か、ゆりかにはもう分からなかった。


ただ、あの声にすがっていたいという想いだけが、確かにそこにあった。


「それでね、今年は雨が少ないから、おばあちゃんの家の田んぼが大変みたいで――」


先ほどの母の電話の最後の言葉が、ふと耳の奥に蘇る。


ゆりかの住む街も、実家も、祖母の家も、県内にあってそれほど離れてはいない。

なのに、ゆりかの周りにはいつも雨が降っていた気がする。


優斗の声を聞いた時に窓を叩いていた雨も、もしかしたらすべて幻想だったのかもしれない。

心が作り出した優斗の存在と同じように。


そして今、その幻想が静かに崩れ去ろうとしている。

気づかないふりをしていた現実に、ようやく手が届きそうになる。


カーテンの隙間から差し込む光は、先程までの雨が幻だったかのように静かだった。


ゆりかは窓辺に立ち尽くしたまま、そっと目を閉じる。

もう優斗の声は聞こえなかった。

耳を澄ましても、胸に問いかけても、何も返ってこない。

それなのに、不思議と寂しくはなかった。


部屋の空気はどこか軽くなっていた。

置きっぱなしの香水の瓶も、棚の上に戻されていた。

タブレットの画面には、二人でふざけ合った写真が静かに映ったまま。

その笑顔の中にある優斗の目が、どこか遠くを見ていることに今なら気づける気がした。


ゆりかは深く息を吸い、そして、手すりにそっと触れながら窓を開けた。

朝の風が髪を揺らし、空には雲ひとつない澄んだ青が広がっていた。

雨の気配と、ゆりかのいる場所はどこにもなかった。





「お姉ちゃん、また連絡とれなかったの?」

「うん、既読もつかない。仕事が忙しいのかもね」

「今度、みんなで様子見に行こっか。ねえ、お母さん」

「そうね……少し心配だし。お菓子でも持っていこうかしら」



笑い声が混じるその空間には、まだ誰も知らない喪失の影が、静かに横たわっていた。

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