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そんな関係が二年続いたこの秋。
優斗は死んだ。
夏の名残がまだ残る時期、雨の降る夜だった。
その日は平日で会う予定もなく「今から仕事が終わって帰るところ」と、電話で他愛ない会話をしたのが最後だった。
ゆりかはいつも通りの時間を過ごし、外で激しく降る雨の音を聞きながらそろそろ眠ろうかと思っていた。
その時、電話の着信音が静寂を破った。
こんな時間に電話をかけてくるのは優斗くらいしかいないだろう。
そう思いながらスマートフォンを手に取ると、表示されたのは見知らぬ番号だった。
電話の向こうから何かが聞こえてくる。
けれど言葉は頭に入ってこなかった。
聞こえているのに、頭に入ってこない言葉。
それは優斗の事故を告げていた。
その直後、遠方に住む優斗の家族よりも先に駆けつけてくれたのは、彼の会社の上司だった。
ゆりかは優斗が最後に連絡を取っていた相手だったため、警察からの連絡を受けて現場に向かった。
優斗の上司は、取引先の人間としてゆりかの存在を知っていたに過ぎなかったが、二人の関係をその場で察したのだろう。
多くを語ることなく、しかしさりげなく配慮するようにして、ゆりかの勤務先にも何かしら事情を伝えてくれたのだと思う。
優斗の葬儀が行われるまで、会社には連絡もできずにいたが、何かを問いただされることも、電話が鳴ることすらなかった。
その間の記憶は曖昧だった。
粛々と進んでいく一人の人間の終わり。
家族ではない自分が中途半端な位置に浮かんでいるような、居心地の悪さ。
事故現場の写真。
他の人から聞いた話。
そして、自分の記憶。
それらが混じり合い、ゆりかはまるで、自分が事故現場にいたかのように想像することができた。
雨に奪われた視界と、滑りやすくなっていた路面。
カーブを曲がりきれなかった優斗の車はガードレールに衝突し、そのまま彼は車外へ投げ出された。
警察の話によれば、即死だったという。
けれど、ゆりかの頭に浮かぶ光景は、それとは違っていた。
道路に仰向けに倒れる優斗。
体から流れ出でた血は、雨に滲むように夜の闇へと吸い込まれていく。
虚ろに彷徨うその視線も、叩きつける雨に遮られてしまう。
そして、優斗は絞り出すような声で名前を呼んだ。
「……ゆりか」
激しい雨音の中、かすかな囁きのような声。それなのに不思議と耳に残る。
けして現実ではないのにゆりかの頭の中で再生されるその光景は、彼女にとって疑いようのない真実だった。
そして今、ゆりかを呼ぶ声が現実に聞こえたのだ。
職場に復帰してからというもの、彼女は会社と家を往復するだけの毎日を過ごしていた。
週末になるとまるで優斗との日々をなぞるように、アルバムをめくっては静かに時間を潰した。
この日もゆりかは朝からカーテンを開けることもなく、薄暗い部屋の中でただ雨の音を聞いていた。
雨上がりの道を歩くとき「水たまりに気をつけて」と微笑んだ優斗の姿がふと脳裏に浮かぶ。
けれど現実に響く雨音は、あの夜彼を連れ去った雨の音と重なり全てを塗りつぶしてしまう。
その雨音の隙間に、まるでそっと置かれたかのように優斗の声が聞こえた気がした。
「……ゆりか」
ゆりかは、ついに自分はおかしくなってしまったのだと思った。
優斗が死んでから誰にも呼ばれることのなかった彼女の名前。
それを求めるあまり、自分の心が作り出した幻聴なのだと思った。
けれどその声は、それから幾度となく、ゆりかの名を呼び続けた。
声が聞こえるのは決まって雨の日だった。
ゆりかの暮らすアパートの中で。
ひとりで歩く通勤中に。
あるいは、電車の中で窓の外に降る雨を眺めている時に。
喧騒の中でもはっきりと耳に入ってくるその声は、やはり現実のものではないのだとゆりかはどこか冷静に思った。
その声は日常に溶け込むにつれ、少しずつ輪郭を帯びてきた。
ある日、傘をさすか迷うほどの雨に濡れ歩く帰り道。
ぬかるんだ地面を踏みしめる水音にまぎれて、真横から声が聞こえた気がした。
思わず立ち止まり周囲を見渡す。
けれど誰もいない。
雨の中に残るのはただ彼の声だけだった。
「ゆりか……」
日を追うごとに声はますます強く、明確になっていった 。
夜、眠りに落ちる寸前耳元でふいに囁かれる。
「ゆりか」
まるで手を伸ばせば触れられる距離に、彼がいるかのような錯覚。
心臓が高鳴る。
目を見開くけれど、そこには誰もいない。
そして雷を伴ったある嵐の夜。
窓がガタガタと鳴り、部屋の灯りが一瞬だけ消えたその刹那。
耳の奥に、優斗の声が突き刺さるように響いた。
「ゆりか!」
それはもう幻聴とは思えなかった。
ゆりかの名前を呼ぶ声は次第に言葉を増やしていく。
「ゆりか、そろそろ起きないと」
その声は、アラームが鳴るよりも早く、ゆりかを目覚めさせた。
やはりその日も霧のような雨が降る朝だった。
優斗と泊まった翌日は、いつもゆりかより早く目を覚ました彼に起こされて一日が始まっていた。
実家にいた頃はなかなか起きない妹たちを起こすのがゆりかの役目だったからこそ、
「誰かに起こしてもらう朝」が特別に思え、優斗に「おはよう」と声をかけられるのが、嬉しくてたまらなかった。
その声は、会社にいるときにも聞こえた。
職場では個人的な会話を避けており、ましてや下の名前で呼び合うことなどなかった。
だからこそそれが過去の記憶の再生ではないことは明らかだった。
「ゆりか、この書類の数字間違ってるよ」
その声に促されるように書類を見直すと、確かに誤りがあった。
そしてふと窓の外に目をやると、先ほどまで晴れていた空が、いつの間にか曇天に変わり静かに雨が降り始めていた。