1
それは、雨の日だった。
「ゆりか」
誰かが、そう呼んだ気がした。
目を開けると、部屋の中は薄暗く、雨音が窓を叩いていた。
自分の名前を呼ぶ人なんて、いるわけがない。
そう思いながら、ゆりかは小さくため息をついた。
森優斗。
ゆりかの恋人だった彼は、半年前、雨の降る夜に交通事故でこの世を去った。
三人姉妹の長女として生まれたゆりかは、物心ついた頃にはすでに「お姉ちゃん」として扱われていた。
二人の妹にはもちろん、両親からも名前で呼ばれることはほとんどなかった。
幼い頃は誇らしかった「お姉ちゃん」という肩書きも、成長するにつれてそれが「役割」としての枷になっていった。
「お姉ちゃんなんだから」と言われるたびに、自分で選んで生まれたわけじゃない。
そう喉元まで出かかった言葉を、ゆりかはいつも飲み込んできた。
積もった澱のように、言えなかった思いは心の底に沈み、やがてゆりかの心そのものを重くしていった。
高校を卒業する頃には、家族と距離を取ることを決めていた。
実家から少し離れた地方都市の中小企業に就職し、ひとり暮らしを始める。
地方の中小企業とはいえ、高卒で正社員になる若者は少ないようで、同期入社した同僚たちはみな大卒で年上だった。
避けられているわけではない。
けれどどこかに、目に見えない境界線のようなものがある。
話すときの間合い、かけられる言葉の軽さ、ランチに誘われる頻度。
ほんの少しずつの“差”が、ゆりかを静かに孤立させていた。
高校までの友人たちも、皆そろって進学を選んだ。
社会人になったゆりかとは、自然と疎遠になっていった。
誰も、ゆりかを名前で呼ばない。
あまり親しくない人は、「三木」という苗字を名前だと勘違いしているかもしれない。
それでも、ゆりかは気にしなかった。
優斗が、いたからだ。
彼は、ゆりかの勤める会社に出入りする取引先の営業だった。
線が細く、特別印象に残るタイプではなかった。
ゆりかが二十歳を迎えた年のある日、「よかったら」とメモを差し出された。
そこには、連絡先が書かれていた。
相手は顔見知り。
完全に無下にするのもためらわれ、
何度かメッセージをやりとりするうちに、少しずつ、心の距離が縮まっていった。
それは思っていたよりも心地よく、知らぬ間に広がっていたゆりかの孤独を、少しずつ埋めてくれた。
五つ年上の優斗は、三人兄弟の末っ子だった。
「ゆりかとは正反対だな」
そんな風に笑い合った夜のことを、今も覚えている。
何度目かの食事のあと、優斗に告白され、二人は付き合い始めた。
そして二人は密やかな約束を交わした。
職場では変わらずお互いを苗字で呼ぶこと。
二人の関係が知られることを恥ずかしがるゆりかに、優斗は微笑みながら頷いた。
優斗の存在は、ゆりかに今までなかった安らぎを与えてくれた。
ゆりかが高校生の頃、友人と少し遅くまでファミレスで話し込んだことがある。
帰宅したのは、まだ夜の八時半だった。
けれど両親は、烈火のごとく怒った。
「女の子なんだから」
「お姉ちゃんなんだから」
「妹たちの悪い見本にならないで」
三重の理由で、ゆりかは責められた。
泣きながら何度も謝った、あの夜を。
今もふと、思い出すことがある。
それなのに数年後、妹のひとりが夜の十時を過ぎても帰ってこなかったとき、母は笑って言った。
「もう大人だもんね。心配ないわよ」
その言葉の柔らかさに、何度泣きたくなっただろう。
自分には、一度も向けられなかったのに。
それを「もう過ぎたこと」として、笑い話にして話すゆりかを、優斗は泣きそうな表情で見つめていた。
「……今は、笑って話せるんだろうけど。俺は、その時のゆりかの気持ちを思うと、笑えないよ」
その言葉を聞いた瞬間、ゆりかははっとした。
自分は、あのときの自分の気持ちに、まだちゃんと向き合えていなかったのだ。
笑ってしまえば、それは辛い思い出ではなくなる。そう信じたかっただけだった。
痛みは、笑いに変えたところで、消えはしないのだと優斗の目が教えてくれた。
優斗は話を続ける。
「……俺さ、三人兄弟の末っ子なんだ」
ぽつりと呟くように言った。
「兄貴たちはすごく優秀でさ。勉強も運動もできて、誰からも頼りにされるような、家族の自慢の兄貴で」
優斗の声が少し震えた。
ゆりかは、黙って相づちを打つ。
「それに比べて俺は平凡だった。うちの家族は、誰も俺を責めたりはしなかった。両親も兄たちも、『お前はお前でいいんだ』って、いつも言ってくれてたよ」
しかし、優斗の目がふっと遠くを見つめた。
「でも……一番きつかったのは、家族じゃなくて、周りの人たちだったんだ」
少し間を置いてから続ける。
「親戚、近所の人、同級生、先生……みんな、言葉にしないけど、暗に比べてくるんだ。『お兄さんたちは立派なのに』って。目がそう言ってるんだ。自分は、期待されていないって」
ゆりかはその言葉の最後が震える優斗の手にそっと自分の手を重ねる。
「正反対なのに、俺たち同じような理由でこの街に来たんだな」
そう言って、優斗は悲しげに微笑んだ。
ゆりかもまた、その笑顔を見て、自分が同じような笑みを浮かべていたことに気づいた。
ある時、ゆりかは約束の時間に遅れてきた優斗に、拗ねたふりをしてみせた。
それは、かつて妹たちが何か気に入らないことがあった時によくしていた仕草で、ゆりか自身は「お姉ちゃん」だから許されないと思い、ずっと避けてきた行動だった。
優斗はゆりかの機嫌を取ろうと、近くの店で三段重ねのアイスクリームを買って戻ってきた。
「こどもじゃないんだから」と笑いながらも、そんなふうに子ども扱いされることが、なぜか嬉しかった。