月色の誓い(フラール)
このお話は『月色の水晶』の続編のような番外編です。この話だけでも一つの小説として成り立つように工夫したつもりですが、興味のある方は『月色の水晶』を先に読んだ方がより楽しめると思います。
あの日、普段なら翌朝の訓練に備えてすぐに寝てしまう僕が湖へ向かったのは、本当に偶然でした。
いえ、そうではないのかもしれないですね。彼女の言葉を借りると〝人は、決められた分岐の可能性からはまず逃れられない〟らしいですから。
偶然にしろ、必然にしろ、彼女の清んだ瞳と目が合ったあの瞬間に、僕が囚われてしまったのは事実でした。
貴女との約束――勿忘草を持って必ず帰るという誓いを、今から果たしに行きます―――
◇ ◇ ◇
身体に、力が入らない。次第に失われていく体温に、もはや震える体力すら残っていなかった。
――これが……“死”というものなのでしょうか……?
穏やか過ぎるその感覚が、腹立たしくすら感じる。けれどその絶対感が、彼にとってそれが不可避であることを思い知らせていた。
このまま、創造神の統べる彼の世界に身を沈めるしかないのだと、エルピスが諦めかけたその時……。
〝――エルピス……っ!!〟
確かに聞こえた、彼女の声。その悲痛な慟哭は、意識を手放しかけていたエルピスに、あの約束を突き付ける。
そうだ、まだ自分は逝くわけにはいかない。そう思うと、霧散しそうだった感覚が、急激に戻ってくるのが分かった。
雪が降っていた。見慣れた丘はすっかり雪景色にかわり、そこにエルピスは立っている。吹雪いてさえいないものの、シンシンと降り続けるその白雪は、地上の全てを覆い尽くしてしまうかのようだった。
―――かちゃっ……
〈――っ!?〉
雪原に響く微かな金属音。振り返ったエルピスは、息を飲む。戦地に佇むのは、自国の王城に居るはずの彼女――フィオレンティーナだった。
――フィオレンティーナ……
視線の先の彼女は、少しの間に様変わりしていた。全身に浴びた返り血は不気味なまでに赤黒く変色し、元の服の色も判らない。その細い手に持つ剣もまた、彼女以上に血を吸っていた。何より、生気を失った瞳が焦点も合わないまま前を見据えている光景に、何も言えなくなる。
「お前は……誰だ?」
チェルイロを制圧した共和国軍の兵士が、突如現われた彼女に不審そうな視線を向ける。剣の柄に手をかけ、問う。しかし彼女は何も視界に入っていないようで、脇をそのまま通り過ぎようとした。
「おいっ!」
疑わしいこと極まりない格好で更に全く反応を返さない彼女を、兵士は完全な不審者と認識したらしい。不穏分子は始末するに限ると、素早く剣を抜きさり振り下ろしにかかる。しかし――
―――ばんッ!!
不可視の力に阻まれて、その兵士は呆気なく弾き飛ばされて絶命した。エルピスには、彼女が魔力を使い、目にも止まらないスピードで彼を斬り飛ばす気配が判った。ただ目の前にいる邪魔な存在を排除するという目的を遂行するためだけに起こされているその魔法は、躊躇いを生むための正常な意識が働いていない分容赦が無い。おそらく彼女はに誰が居たという認識すら無いのだろう。
その後も、フィオレンティーナは斬りかかってくる兵士たちを次々と斬り倒していく。もはや、正気を失った彼女を止められる者など、誰も居なかった。
向かってきた最後の兵士たちを吹き飛ばし、フィオレンティーナは立ち止まる。
「……」
不自然に空いた間に、エルピスが彼女の視線を追うと、そこには――自分が倒れていた。
〈……〉
奇妙な感覚に襲われながら、まじまじとそれを見つめてしまった。
「――」
気がつくと彼女の手が小刻みに震え、その度に血塗れた細剣が音を立てる。はっとして彼女の顔を見遣るが、呆然としたその瞳に涙はない。
フィオレンティーナと、そう呼びたいのに、その言葉が発せられることはついになかった。
◇ ◇ ◇
エルピスの目の前で、クレスツェント王国の宰相が、フィオレンティーナを説得しようとしていた。今回の騒乱の黒幕にはどうもこの人物が関わっているらしいという噂を聞いていたエルピスは、不信感の籠もった視線で宰相を見ていたが、フィオレンティーナに危害を加えるつもりはなさそうなので、黙視している。そもそも、身体を失っている今の彼には、現実に干渉できる値も限られている。
〈……っ!?〉
突然強い気配を感じて、エルピスは振り返る。視界を遮る木々の向こう側、確かな魔力は、おおよそ人間が持てるようなレベルのものではない。
フィオレンティーナを気にしつつも、彼は気配の在る方へと歩いていく。しばらくして、開けた視界の先に彼が見たモノは――死を司る神の使い、首のない天使たちだった。
〈なぜ……ここに!?〉
ここにいては危ない。本能的に覚ったエルピスは、天使たちを確認した次の瞬間には踵を返して駆け出していた。すぐに、、天使たちは彼を追ってくる。
昔、師匠に就いて魔法を学んでいた時、習った死の理。死を司る神が死した魂を捕らえ、首のない天使として使役している、確かそんな話だった。
天使に追いつかれれば、問答無用で彼の世界に連行されるだろう。ふらふらとした足取りで宰相について歩き出したフィオレンティーナを横目で確認し、エルピスは追い縋る天使たちから逃れるべく、チェルイロ地方から離れていった。
◇ ◇ ◇
数日かけて首のない天使たちを撒いたエルピスは、フィオレンティーナのいるクレスツェント王国へ向かおうとしていた。魂だけの存在というのは疲労を感じず、魔法剣士として長年訓練を受けてきたエルピスにとっては、それほど大変なことではなかった。
〈これでクレスツェントに――〉
そう呟きかけたエルピスは、再び言葉を切った。こちらに向かって、何かとんでもない気配が近付いて来る。先程まで相手にしていた天使の比ではない。
〈――!? この気配は――〉
警戒していたエルピスは、それが昔出会ったことのある人物のものとよく似ていることに気付いて混乱した。
〝――やあ、久しぶりだね、エルピス〟
彼の前に姿を現したのは、長い黒髪に黒い服を纏った、中性的な顔立ちの人物だった。
〈せ……師匠!?〉
エルピスが驚愕の声を上げる。そう、その人は、幼少時代のエルピスの、魔法の師だった。
〈なぜここに――?〉
事態が飲み込めずに呆然とするエルピスに、師匠であるその人は昔と変わらない表情で微笑いかける。
〝ん? キミが困ってると思ってね〟
ゆっくりと近付いて来るその人を見ながら、エルピスは知らず動悸が激しくなっていく自分に気が付いた。思考が止まりかけた頭の片隅で、なぜだろうと考える。確かに、今目の前にいるこの人は自分の師匠で間違いない。それは気配から断言できる。では、なぜ――?
〈――っ!!〉
窺うように見た師匠と目が合った瞬間、エルピスは全身に電流に神経を焼かれるような感覚に襲われる。
〝いやだな、逃げなくてもちゃんと掴まえてあげるのに――〟
その声を聞いた時には、もうエルピスは師匠から逃げ出していた。
気配は確かに昔の師匠と変わりはない。しかし、あの凄まじいまでの存在感は人間が持てるようなものではない。
そうなれば、真実は自ずと導き出される。
そう――創造神、その人だ。
◇ ◇ ◇
壊滅状態の自国の惨状を嘆く余裕もなく、エルピスは王城の一室に座り込んだ。
〈はあ……、はあ……〉
疲れないはずの身体が悲鳴を上げ、存在がこのままかき消されてしまうような錯覚に陥る。
彼を追ってきたのは、紛れもなく昔師事した人物――身分を偽っていた創造神その人だった。もっとも、その時は見事なまでに圧倒的な存在感を隠していたため、そうだと分からなかったのだが。
神自らが回収に来るとは、相当気に入られてしまったようだと、ようやく息を整えたエルピスは苦笑混じりに立ち上がる。さすがに創造神の追跡は厳しく、あちこちを逃げ回りながらどれだけの月日が経過したのかさえもう分からなくなっていた。
窓が割れ、雨曝しになった城内に、かつての壮麗な面影はない。静寂に満ちた廊下をエルピスはある場所を目指して歩いていた。かつて、一度だけ外から訪ねたことのある、彼女の自室。壊れてしまった扉の以外は不思議と他の場所のように荒れることもなく、ただ経過年数分の埃を被っただけの彼女の部屋の引き出しに、エルピスの探しているものがある。
彼が取り出したのは、以前彼女に贈った薄桃色のリボンだった。彼女の漏れ出した魔力を帯びたそれは、魂だけの存在となってしまったエルピスにも手に取ることができる。
リボンを仕舞うと、エルピスは雲一つ無い空を見上げた。近くに、あの創造神のいる気配はない。
やっとの思いで、彼女の待つクレスツェントを目指すことができる――。
◇ ◇ ◇
よくないとは思いつつも、エルピスは無断で部屋の中に入った。もはやこの世の法則に囚われていない彼は、扉を開ける必要もなく壁を通り抜ける。
それはつまり、彼女にも触れられないということ。逢いに行ってもどうしようもないことだと知っていても、エルピスは彼女の無事を確かめずにはいられなかった。
中に入ったものの、彼女は不在のようだった。少し落胆しながら、エルピスは辺りを見回す。
燭台一つ無い部屋を、冴えた月明かりがぼんやりと照らし出している。部屋にある調度品は、どれも質の良い物ばかりだ。やり手と評判のあの宰相は言葉の通り彼女を酷く扱ってはいないらしいと知れて、エルピスは胸を撫で下ろす。
……と。
―――こつ、こつ、こつ……
扉の外、遠くから微かな足音が近付いて来る。
―――キィ……
緩くウェーブのかかった亜麻色の髪、翡翠よりも深い碧緑の瞳。扉を開けて入って来たのは、間違いなく彼女――フィオレンティーナだった。
〈……!?〉
名前を呼ぼうとして声を詰まらせたエルピスの横を、彼女は何も見えていないかのように通り過ぎる。
―――とさっ……
ふらふらとした足取りで寝台の前まで歩いて行くと、彼女は身体を投げ出すように座り込んだ。虚空を見上げる瞳はどこか虚ろで、何を見ているのか、果たして見えているのかさえ判らない。
〈……〉
何も言えずに、エルピスはフィオレンティーナを見つめた。以前と同じような暗灰色の服に、漆黒のリボンを髪に結んだ彼女は、もともと小柄な身体が更にひと回り小さくなってしまったかのようで、痛々しいとさえ言えた。
―――つ……
月光に照らされたフィオレンティーナの横顔を、突然涙が伝う。
〈――っ!?〉
エルピスの視線の先で、顔を歪めるでもなく、彼女は唯ひたすらに透明な雫を流し続けた。
〈……フィオレンティーナ――〉
遠いいつかのように、エルピスの口から彼女の名前が零れる。
「ぇ――!?」
その瞬間、目を見張った彼女が、立ち上がりながら勢いよく振り返った。涙に濡れたその瞳は、確かにエルピスを映していた。
〈……〉
「……」
驚きに何も言えなくなった二人の間に、しばしの沈黙が流れる。少しして、未だ目の前の光景が信じられない様子のフィオレンティーナが、恐る恐る訊く。
「エ……エル、ピス……?」
その声で我に返ったエルピスは、小さく深呼吸すると、穏やかな微笑を浮かべて口を開く。
〈――はい〉
彼女はその言葉にまた少し目を見開き、何かを言おうとしたのか口を開きかけるが、声にはならなかった。そうしているうちに、今度は別の涙が零れ始める。
「どうして……――?」
搾り出すように呟き、フィオレンティーナは顔を覆う。同時に、力を失った膝から、その場に崩れ落ちそうになる。
〈フィオレンティーナっ!?〉
気付いたエルピスは、自分の今の状態も忘れて駆け寄った。この世の物には触れられないはずのその手が、倒れゆく彼女の身体を捉える。
――!?
フィオレンティーナは反射的に身体を硬張らせた。また、あり得ないことが起きた現実を飲み込めず、エルピスも動きを止める。不自然なその体勢のままでは支えきれず、そのまま二人して床に座り込んだ。
〈フィオレンティーナ……〉
確かめるように肩に置いた手に力を込めると、フィオレンティーナはまたぴくり、と身体を震わせる。けれど、それ以上離れる気配がないことが判ると、力を込め過ぎないよう気を配りながらエルピスはそっと彼女を抱き寄せた。
「……っ!?」
息を詰めてまた身体を硬張らせるフィオレンティーナの髪を、エルピスは宥めるように梳いていく。細くしなやかな髪は、彼の手に絡まることなく流れていった。
「……ねえ」
しばらくして、くぐもった声でフィオレンティーナは言う。
〈――はい、何ですか?〉
静かに答えたエルピスに、彼女はまた搾り出すような声で呟く。
「幻なら……お願い、早く嘘だと言って――」
――もう、真実はたくさんよ。言外にそう彼女の心が語っているように感じた。だからエルピスは、彼女に言い聞かせるように答える。
〈幻なんかではありませんよ。確かに、僕はもうこの世界の人間ではありませんが、今、あなたの前に在るのは、紛れもなく僕自身です〉
エルピスの言葉に、フィオレンティーナはハッとして顔を上げた。
「ほ……本当に?」
間近で目の合ったエルピスに顔を赤らめ、俯き加減でもう一度確認する。
〈――はい。遅くなってしまい、すみません。………帰って、来ました〉
遅くなったという話どころではない。彼が戻らなかったという事実が、今日までどれだけ彼女を傷付け、どれほど悲しませたことだろう。
「なにを今更……」
申し訳なさそうに言うエルピスに、フィオレンティーナは心底呆れた声で口走りかけ、そこで言葉を止める。不審に思ったエルピスが、彼女の顔を覗き込もうとする前に、フィオレンティーナは再び言葉を紡ぐ。
「心配、したんだから。もう、二度と――ッ」
とんっ、という軽い衝撃と共に、フィオレンティーナがエルピスにしがみついた。続くはずの言葉は、逢えないかと思った、だろうか。
「返事なんて、今度逢う時まで言ってあげないんだからっ!!」
勢いよくそう言い放つと、今度こそ俯いて肩を震わせるフィオレンティーナに、エルピスは何も言えなくなる。縋りつくように彼の衣服を握り締めたフィオレンティーナの白い指先に、彼女の想いの強さが見えるような気がした。
〈それは……困りましたね……〉
しばらくして、困りきったようにエルピスは苦笑を浮かべる。
「当たり前でしょう!? だいたい、勿忘草はどうしたのよ。持って来るって約束だったでしょう?」
散々泣いて少し落ち着いてきたフィオレンティーナは、いつもの口調に戻ってきていた。
〈これでも一応、ここに来る前に探したのですが、残念ながら時期が合わなくて咲いていなかったんですよ。本当に、迷惑ばかりかけて申し訳ありません〉
そのすまなさそうなエルピスの顔があまりにもいつも通りすぎて、フィオレンティーナは次第に腹が立ってきた。そしてその分、口調は自然とキツくなっていく。
「自覚があるなら、どうしてもっと早く、花が咲いている季節に来てくれなかったのよ。私……ずっと待ってたんだからっ!」
思わず零れ落ちた彼女の本音に、エルピスは黙り込んだ。その勢いのまま、彼女は余分なことまで言ってしまう。
「本当に今更……来てくれなくてもよかったのに――っ」
言った瞬間、フィオレンティーナの顔に酷い後悔の色が滲む。それを見れば、その言葉が彼女の本心から出たものではないことくらいすぐに解った。出会ったときから変わらない彼女の様子に、懐かしさと愛おしさばかりが込み上げてくる。
〈貴女に逢いたくて……逢って、無事を確かめたかったんです〉
彼女の後悔を押し流すように、エルピスはその碧緑の瞳を覗き込んで言う。
「――」
再び言葉を失くしたフィオレンティーナを抱き寄せると、その耳元で囁く。
〈無事で、本当によかった……〉
「――っ」
息を飲んだ彼女が、反射的に離れようとするのが分かった。きっと赤くなっているのだろう。けれど、そうはさせないと言うように、エルピスは腕に力を込める。
〈返事は、またいつか逢った時で構いません。僕はもう逝かなければなりませんけど、今も、そしてこれからもずっと、貴女のことを愛しています〉
「――ッ!?」
その科白に身を硬くしたフィオレンティーナが、更に赤面したのは言うまでもない。そして同時に、その言葉に引っかかりを覚えた彼女が、傷ついた表情をしたのも事実だった。
〈貴女との約束を何一つ守れなかった僕が言っても信用できないでしょうけど、今度巡り逢った時は、僕が必ず貴女を護ります〉
そう言うと、エルピスはフィオレンティーナの左手を取り、座ったままその甲に口付けた。
「――っ……本当に、自分勝手なんだから……また、守れないかもしれない約束なんかして――嫌い、大っ嫌いよっ!」
半分は照れ隠しで、フィオレンティーナはまた心に無いことを言う。
〈……〉
エルピスは黙って、それを聞いていた。
「ぜったい……絶対に――好きなんて言わないんだからっ!!」
そう叫んで再び啜り泣き始めたフィオレンティーナには、自分が返事を言ってしまっているという自覚は無い。虚を衝かれ、一瞬全ての思考が止まったエルピスだったが、すぐに気が付くと、彼女が落ち着くまで髪を梳き続けていた。
◇ ◇ ◇
泣き疲れて眠ってしまったフィオレンティーナを抱き上げて、エルピスは立ち上がる。十六歳で成長が止まってしまった彼女は、そのことを考えても華奢すぎるくらい細く、驚くくらい軽い。寒さの厳しいこの国では、毛足の長い絨毯が敷いてあるとはいえしばらく座り込んでいた身体は冷えきっていた。
―――とさ……っ
眠っているフィオレンティーナを起こしてしまわないように、細心の注意を払いながら寝台に下ろした。
かちゃり、と同時に金属のぶつかり合う音が不自然に混ざる。その金属音の意味を、エルピスは知っていた。装身具――「魔力封じ」だ。
彼女自身は知られていないと思っているのだろうが、あの初秋から、彼女の足音はわずかに違っている。自分の過去でさえ、傷を隠すように嘲笑いながら語った彼女が、どのような気持ちでそうしたのか。考えれば胸が詰まりそうな思いがした。 寒くないように毛布をしっかりとかけ、離れようとしたエルピスは、くいっと引かれて動きを止める。眠ったままのフィオレンティーナが、行かないでとでも言うかのように、彼の服の端をしっかりと握り締めていた。
〈……〉
苦笑して、それでもその手を外すことなく、エルピスは寝台の脇に腰掛ける。
穏やかな表情で眠るフィオレンティーナの目許は、先程まで泣いていたせいで少し赤い。
〈――すみません……〉
うっすらと残っていた涙を指で拭って、エルピスは呟いた。更にエルピスは、来る前に取ってきたリボンを取り出す。薄桃色のそれは、彼が以前フィオレンティーナに贈ったものだった。彼女の着けている漆黒のリボンを外し、慣れた様子で結び直していく。
それが分かったのか、フィオレンティーナは幸福そうな微笑みを浮かべていた。
―――かたっ
そうして、明け方近くまでフィオレンティーナを見ていたエルピスは、窓の揺れた小さい音にはっとした様子で顔を上げた。
――ついに、来ましたか……
紛れることのない気配が、すぐそこまで迫っていた。
―――ぱさっ……
視線を戻すと、彼女の手が空を掴んだように外れていた。見れば、末端から徐々に自身の存在が薄れつつある。もう、時間もあまり残されていない。
〈――先に逝って、待っています〉
覚悟を決め、立ち上がったエルピスは、フィオレンティーナの額に口付けを落とすと、そのまま部屋を出て行く。
月明かりの射し込む部屋には、穏やかに眠ったままの少女だけが残された。
◇ ◇ ◇
昇り始めた太陽光に、暗かった部屋は次第に照らされていく。
「――う……ん……?」
身動ぎしたフィオレンティーナが、うっすらと目を開ける。そのままぼんやりと天蓋を見遣ること数瞬。
「――ッ!?」
眠ってしまう前の出来事を思い出し、勢いよく身体を起こした。同時に、衣服の下で魔術封じのぶつかる金属音がする。薄桃色のリボンが、髪と共に揺れていた。
「……エルピス?」
心細く呟いた呼び声が、空しく部屋に溶けた。徐々に沁み渡る絶望の気配が、彼女の瞳から再び光を奪っていった。
「…………」
しばらくして、透明度を失った瞳から、再び涙が流れ始めた。つかの間戻った意識を失ってしまったかのように、その表情は一切の感情を欠いている。フィオレンティーナは、いつまでも透明な雫を零し続けていた。
◇ ◇ ◇
王国、クレスツェントの国外れ。見渡す限りの草原に、エルピスは立っていた。昇り始めた朝日に目を細めながら、しかしその表情は険しい。
―――ざっ
背後に、“何か”が降臨り立つ。
〈……〉
無言のまま、エルピスは振り返った。
圧倒的な存在感。十数歩離れた場所に在るのは、彼のよく見知った師匠――死を司る創造神だった。
師匠、とエルピスは心の中で呼びかける。逃げようとは、もう思っていなかった。
無慈悲な神が、放たれる魔力を隠そうともせずに、一歩、また一歩と近付いて来る。凄まじい程の存在感に、意識が飛びそうになりながら、エルピスはそれでも視線を外さない。
―――ひたっ……
長い黒髪を風に靡かせて、創造神が目の前に立つ。涼やかな顔に微笑みすら浮かべて、頭一つ大きいエルピスの肩に手をかけた。
〝――見つけたよ、エルピス〟
その瞬間、急速に身体から力が抜けていく。
〈――必ず〉
意識が闇に溶け込む最期の瞬間のエルピスの呟きを、創造神だけが聞いていた。
―fin―
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
このお話は「月色」シリーズ第三弾と言うことで、『月色の水晶』に関連した小説となりました。
『水晶』があまりにも救いようのない終わり方となってしまったため、二人を少しでもハッピーエンドに近付けようと頑張ってみたのですが、結果は見ての通り撃沈でした……。もう一つの「月色」シリーズである『約束』のバカ夫婦を目指したはずが、ツンデレヒロインとヘタレな某乳酸飲料に似た名前の人により阻まれました(笑)
今思うと、そもそもがバッドエンドを迎える物語で幸せにと考えたこと事態が間違っていたような気がします。
さてさて、裏事情はこの辺りにしまして、お知らせを一つ。
冒頭、いきなり死ぬ場面からスタートしていますが、この後、もう少し恋愛要素を追加するべく、まだ二人がセレネア王国に居た頃のエピソードを追加予定です。
マイペースすぎる私が書くのでいつ頃という保証は出来ないのが申し訳ないです。活動報告等でお知らせしますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。