巻き戻し令嬢、運命と戦ってみる
フロレンティアの耳に響いた報告は、まるで世界が崩れ落ちるような衝撃を与えた。
「レオンハルト殿下が、戦場で……」
その言葉を受けた瞬間、彼女の心は真っ白になり、広間の喧騒が遠ざかるように感じた。絨毯を踏む足元すら頼りなく、倒れそうになるのを必死に堪えながら、フロレンティアはその場を取り繕う。
ここは王宮だ。誰にも不甲斐ない姿は見せられない。第三王子が出兵する少し前、隣国との関係がきな臭くなってきたあたりから、フロレンティアはここに泊まり込みで殿下の穴を埋めるための政務を行っていた。
高く掲げた顎。周囲に感情を見せない、侯爵令嬢として、第三王子の婚約者としての完璧な姿。いつでもそれを意識して生きてきた。
それでも心の奥では、誰にも知られることのない後悔と絶望が彼女を飲み込んでいた。
王宮で与えられた自室に戻ると、フロレンティアは重厚な扉にもたれかかるように体を預けた。震える手で胸元を抑えながら、乱れた息を整えようとする。
「どうして……」
言葉は涙にかき消され、絞り出すような声が漏れるだけだった。彼を見送った朝の景色が、脳裏をよぎる。陽の光に照らされたレオンハルトの姿――まっすぐ前を見据える、あの毅然とした表情。
「絶対に帰ってくると言いましたのに……殿下」
そのとき、静かにノックが鳴った。開けると侍女のリリアナ・ハーヴェルが現れる。控えめな彼女の顔は心配の色に満ちていた。
「フロレンティア様、少しお休みになってくださいませ」
リリアナはそっと部屋に入り、震えるフロレンティアに近づく。彼女の手は冷たく、静かに触れるその感触が、フロレンティアを現実に引き戻した。
「あなたがご自分を責める必要はありません。殿下も、きっとフロレンティア様のことを誇りに思っていらっしゃったはずです」
励ましの言葉に、フロレンティアは小さく頷く。しかし、リリアナの瞳に浮かぶ切なげな光に、フロレンティアはほんの一瞬、言葉にできない違和感を覚えた。
「ありがとう、リリアナ。でも……少し一人になりたいの」
リリアナは一瞬躊躇したが、礼儀正しく頭を下げて退室する。
その背中を見送りながら、フロレンティアは拳を握りしめた。
夜更け、宮殿の奥深くにある秘宝の間。そこには、王家に代々伝わる「時間を巻き戻す宝珠」が厳重に保管されている。
月明かりに照らされる部屋の中央で、宝珠は幽玄な光を放っていた。それは柔らかな輝きでありながら、どこか底知れない力を感じさせる。
「どうか……彼を助ける機会をください」
フロレンティアは宝珠の前で跪き、その表面に手を触れた。瞬間、宝珠は彼女の願いに応えるように眩い光を放ち、部屋全体を包み込んだ。
時計の針が逆回りするような音が響き、フロレンティアの視界が歪む。目の前には、過去の記憶が次々とフラッシュバックのように現れた。
レオンハルトを見送る自分、彼に続く兵士たち、戦争のために動く宮廷の人々――。
やがて光が収まり、再び目を開けると、そこは王宮の庭だった。
噴水の近くでは、レオンハルトが騎士たちと真剣な顔で話している。
それを遠くから眺めながら、フロレンティアは胸を抑えた。
「フロレンティア様?」
立ち尽くすフロレンティアに、リリアナが不思議そうに名前を呼んだ。
「生きている……」
「え?」
この光景には見覚えがある。レオンハルトはこの後王に呼び出され、出征を命じられることになる。彼が戦場に行く三日前だ。
「今度こそ……」
夜明け前の空は薄墨を流したような色をしていた。東の地平線にわずかに差し込む光が、大地の闇を剥がし始めている。それでも、冷たい風が吹きつける庭園の空気はどこか寂しく、広がる静けさが心に重くのしかかる。
フロレンティアは、石畳の庭園を歩いていた。その足取りには迷いが混じり、普段の毅然とした姿からは程遠い。夜露に濡れた草の香りが、冷たい空気に混ざりながら鼻先をかすめる。
横を歩いていたレオンハルトが、不意に立ち止まった。
その表情は真剣で、フロレンティアは思わず手を握りこんだ。
「フロレンティア、俺がいない間の政務は頼んだ」「……かしこまりました、殿下」
何度この場面を繰り返しただろう。
フロレンティアは胸の奥が締め付けられる感覚を覚えたが、無理にそれを飲み込んだ。
一度目、フロレンティアは過去の巻き戻しで、自国の軍備を増強する提案を第二王子に行わせることで、彼に指揮を取らせようとした。しかし、第二王子が出征を拒んだ結果、レオンハルトが代わりに戦場へ赴くことになってしまった。
二度目、彼女は隣国の飢餓問題を解決するために別の国へ支援を求めるが、連合軍の結成により、レオンハルトがその指揮を取ることになり、彼は戦場へ。
三度目、隣国への安価な食料供給を提案。だが、その結果、自国の民が怒りの矛先を政府に向け、内乱が勃発。混乱の中、レオンハルトが戦争へ向かわざるを得なくなった。
「どうして……私は間違っていたの?」
巻き戻しを繰り返し始めてから、心はずっと揺れていた。何もかもが変わるはずだと信じていたが、幾度やり直してもレオンハルトは戦場へ行く。
そして、フロレンティアは彼の訃報を聞く。
それだけではない――この三度のやり直しから、リリアナとレオンハルトの間にある、隠しきれない絆を目の当たりにして、フロレンティアは気付かないふりを続けることができなくなっていた。
そっと振り返ると、リリアナは侍女らしい澄ました顔で側に控えている。
フロレンティアが一番に信頼している侍女。
彼女の瞳は、普段表情を崩さないフロレンティアの悲しい顔を捉えた瞬間に驚きと困惑を映した。
「リリアナ、お願いがあるの」
フロレンティアは声をかけながら、気丈に振る舞おうと努めた。しかし、自分の声がわずかに震えているのが分かった。
「はい、何でしょうか。フロレンティア様」
その瞳の中にある純粋な輝きが、フロレンティアの言葉をさらに重くした。
「殿下が戦場に行かないよう、止めてほしいの」
言葉を口にした瞬間、フロレンティアの心臓が締め付けられるような痛みを覚えた。それは、自分の敗北を認めた瞬間でもあった。
彼の心を動かすのはきっと、自分ではなく彼女――リリアナしかいないのだ。
リリアナは息を呑む。瞳が大きく揺れ、その場で固まったように見えた。
「わ、私がですか……?」
彼女の声は震え、信じられないという感情が滲み出ていた。
「ええ、あなたがお願いすれば、殿下もきっと考え直してくれるはずよ」
フロレンティアは自分の手を握りしめ、ぎこちない微笑みを作った。その笑顔は、どこか諦めを帯びたものだった。
「でも、私なんかでは……そのような……」
リリアナは後ずさりながら、小さく首を振る。その反応が、彼女自身の心の揺れを物語っていた。
「リリアナ、分かっているの。あなたがどれほど殿下のことを想っているか……」
フロレンティアの言葉に、リリアナははっと顔を上げた。その瞳には恐怖と驚き、そして隠しきれない恋心が混じっている。
フロレンティアはリリアナに歩み寄り、肩に手を置いた。静かな風が二人の間を通り抜ける。
「私は構わないわ。あなたが殿下を救えるなら、それでいい。彼を守るために、あなたの力が必要なの」
涙がこぼれそうになるのをこらえながら、フロレンティアは言葉を絞り出す。その声は、ひどくかすれていた。
リリアナは迷いながらも、小さく頷いた。
「分かりました……フロレンティア様。できる限りのことをいたします」
その言葉に、フロレンティアは初めて肩の力を抜いた。どこか、全てを手放してしまったような気分だった。
しかし、結果はまたしても変わらなかった。リリアナがどれほど涙ながらに訴えても、レオンハルトの意思は変わらなかった。
「僕が行かなくては、この国を守れない。どうか、ここで僕の帰りを待っていてほしい」
レオンハルトはリリアナの肩にそっと手を置き、優しく微笑んだ。その目は、彼女への愛情で、満ちていた。
その場面を遠くから見ていたフロレンティアは、静かに目を伏せた。遠く噴水の音だけが、空虚に響いている。
フロレンティアは、またしても失敗した現実を受け入れるしかなかった。そして、この世界でもレオンハルトは戦場へ向かう。
いままで、フロレンティアは何度もレオンハルトから留守の間の王宮を頼まれてきた。
でも、彼は一度も「待っていてほしい」と言ったことはなかった。
庭園を歩きながら、フロレンティアは微かな涙を拭い去った。
自室に戻ると、フロレンティアは思わず絨毯の上に座り込んだ。
もう全身に力が入らない。辛い。苦しい。もうすべてやめてしまいたい。
「また失敗か?」
自分しかいないはずの部屋から聞こえた声に、フロレンティアははっと顔を上げた。
窓枠に寄りかかって、不機嫌そうな顔をしている男が目に入った。紫紺のローブをまとい、手にはどこか不安定な光を放つ杖を持っている。
彼の灰色の瞳は夕暮れの光を受けて鈍く輝き、どこか疲れたような表情をしていた。
思わず悲鳴を上げようとしたが、それよりも早くフロレンティアの耳元で低い声が届く。
「まだ諦めていないのか?」
一瞬でフロレンティアの隣に立った男。きっと魔術師だと悟る。
「何が目的ですか」
「未来のお妃様に危害を加えるつもりはないよ。どうしても二人っきりで話をしたくてね。強引な手段を取ったことは謝るよ」
「不法侵入の時点で、危害を加えるつもりはない、というのは当てになりませんわ」
「でも君は助けを呼んでいない。いま、俺と話すべきなのではないかと思っているんじゃないの?」
彼は部屋の中央に立ち、あたりを見回しながら肩をすくめた。
「俺は魔術塔の研究者、ルカ・ヴァレンティア」
「ヴァレンティア…」
その名はフロレンティアも聞いたことがある。
魔術塔で数々の研究成果を出している、天才魔術師。
表彰や叙爵の話もある中、それを断り続け、ひたすら塔で研究している変わり者という噂もある。
ルカは肩をすくめた。
「君が時間を巻き戻し続けてくれるおかげで、僕の研究が全部台無しになってるんだ。文句を言いに来たんだよ」
彼の言葉には淡々とした冷たさがあったが、その瞳の奥には、何かを諭そうとする真剣な光が宿っている。
「あなた……どうして、記憶が?」
「たまたま幻影術の研究をしていてね。そこに時間に関する魔術式も組み込んでいるからかなあ。記憶を持ったまま過去に戻っているのは、どうも俺と発動者である君だけみたいだね」
険しい表情で彼を睨んだ。
「それで、何が目的?」
「さっき言ったじゃないか。巻き戻しをやめてほしいんだ」
「私は……彼を救わなければならないのよ。何度失敗しても、彼が戦場に行かない未来になるまで諦めるわけにはいかない」
その言葉にルカは深いため息をつき、持っていた杖を机の上に投げるように置いた。
「本気でそう思っているのか?」
彼は静かにフロレンティアを見つめ、少しだけ声を低くした。
「君が何度巻き戻しても、結果は変わらないどころか、どんどん悪化している。それに、君の選択が他人の運命を振り回していることに気付いているのか?」
フロレンティアはその言葉にカッとなり、彼に詰め寄った。
「振り回している? 何を言っているの。私は、彼を救うために……」
「一人を救うために、他の人の命を何度も繰り返させているのか」
彼の静かな声が、まるであの噴水の水音のようにフロレンティアの胸に染み込む。反論しようとした言葉が喉に詰まり、彼女は何も言えなくなった。
「まあいい」
ルカは再び肩をすくめ、彼女に近づいた。
「君が諦めないのは分かった。仕方がないから、協力してやるよ」
「協力?」
フロレンティアは彼を疑わしげに見上げた。彼の真意が分からない。
「ただし、次で終わりにしろ。それが条件だ」
彼はフロレンティアに手を差し出す。その手は冷たく、どこか乾いた感触を持っていたが、差し伸べる仕草には確かな優しさがあった。
「……分かったわ」
フロレンティアは迷いながらも、その手を握った。冷たい指先が触れると、不思議な安堵感が心に広がるのを感じた。
「巻き戻したら、俺に会いに来て」
まばゆい光が収束していき、フロレンティアは目を開けた。
噴水の近くでは、レオンハルトが騎士たちと真剣な顔で話している。
彼女はそれを遠くから眺めている。
「フロレンティア様?」
立ち尽くすフロレンティアに、リリアナが不思議そうに名前を呼んだ。
フロレンティアは微笑んだ。
「リリアナ。馬車を用意してくれる?出かけるわ」
冷たい朝の空気が魔術塔の入り口に立つフロレンティアの頬を刺していた。石造りの高い塔は、まるで空を突き刺す槍のようにそびえ立っている。
その表面には古びた模様が刻まれ、長い年月を耐え抜いてきたことを物語っていた。
渋るリリアナを馬車に置いてきたため、フロレンティアは生まれて初めてともいえる一人の心細さを味わっている。
フロレンティアはゆっくりと階段を登り、やがて一つの部屋にたどり着いた。
彼女が大きな扉を叩くと、しばらくして鈍い音を立てながら扉が開いた。
現れたのは、紫紺のローブをまとい、眠たげな目をしたルカだった。
「よく来たね。巻き戻し魔女さん」
彼は半ば呆れたような声で言った。
「あなたが協力するって言ったんでしょう?」
フロレンティアは眉をひそめながら返した。
「まあな。おかげで今度は少しは面白い研究ができそうだ」
彼は口元に微笑を浮かべたが、それはどこか底意地の悪さを伴うものだった。
塔の内部は薄暗く、至るところに古びた本や魔道具が散らばっていた。魔法の光がランプから淡い輝きを放ち、周囲を幽玄な雰囲気で包み込んでいる。
ルカに案内されて中に足を踏み入れた。
外から見ただけでも重厚な塔だったが、内側に入ると、それ以上に圧倒される空間が広がっていた。
壁一面にはぎっしりと本や巻物が詰め込まれ、それが積み上げられた床や机の上にも無数の資料が散らばっている。
「まあ、これでも研究者の中では整理している方だ」
ルカがぶっきらぼうに言いながら、資料の山を少しどけて椅子を引き出す。
その動きは慣れたもので、まるで混沌の中でも秩序を見つけられる人間だけが持つ独特の余裕を感じさせた。
フロレンティアは遠慮がちに椅子に腰を下ろし、目の前の机に広げられた魔法陣や数式、未完の論文に目を奪われた。
それらの文字は彼女には理解できないものだったが、その一つ一つから、長い時間をかけて積み上げられた研究の深さが伝わってくる。
「ここが俺の研究室だ。資料は多いが、どれも必要なものだ」
ルカは資料を手に取りながら言う。彼の目は真剣そのもので、まるでその場で資料と会話をしているかのようだった。
「さて、戦争を回避するための方法を考える前に、一つ言っておく」
彼は資料の束を机に叩きつけるように置くと、フロレンティアをじっと見つめた。
「君は、誰か一人の行動を変えれば解決すると思い込んでいる。でも、現実はもっと複雑だ。どんな選択にも影響を受ける人間がいるんだ」
「……分かってるわ。それでも……」
「分かってないよ」
彼は溜息をつきながら小さな魔法の球を宙に浮かべた。球はぼんやりと輝き、フロレンティアの過去の行動を模倣したように光と影を投影した。
そこに、一人の騎士が映し出された。レオンハルトの側近。つい先ほども庭園で彼ら話しているのを遠くから見つめていた。
「この人は一度目と三度目は戦争から生きて帰ってきたよ。二度目は帰ってこなかった。四度目はそこまで見ていないから分からないな。今回はどうなのかな」
「……」
フロレンティアは言葉を失った。
自分の行動が周囲の人々の運命に影響を与えているのか分かっていたつもりで、これほどまでに鮮明に意識するのは初めてだった。
「私の巻き戻しが、彼らの運命を何度も変えている……」
彼女の中に、今まで押し込めてきた後悔と疑念が一気に広がっていく。
ふと、幼少期の記憶が、まるで何かが壊れるように彼女の脳裏に浮かぶ。
「あなたは王子の婚約者として、ただその役割を全うすればよいのです」
そう繰り返された言葉。貴族たちの冷たい視線、父母からの厳しい教育、そして婚約者である王子にふさわしい存在であるべきという重圧――それがフロレンティアの人生のすべてだった。
フロレンティアにとって「婚約者としての役割」を果たすことだけが、人生だった。それ以外に自分の価値を見いだすことなど、一度も許されなかった。
「そんな……彼を見捨てる……?」
フロレンティアは呆然と呟き、ふらつく足で立ち上がった。視界が歪む。冷たい石造りの床が足元に迫るように見えた。
「おい、フロレンティア……?」
ルカが声をかけるが、彼女の耳には届いていなかった。
「そんなこと、できない……助けなければ……」
心の中で何度も繰り返されるその言葉。胸の奥が締め付けられ、次第に息苦しさが彼女を支配していく。
視界が暗転する直前、フロレンティアはふと気付いた。自分が巻き戻しの中で戦ってきたのは、本当に王子を守るためだったのだろうか。それとも――。
「フロレンティア!」
その声を最後に、彼女の体は崩れるように床へ倒れ込んだ。
フロレンティアが目を開けると、冷たそうな、石の天井が見えた。
「おい。大丈夫か?」
男性の声に驚いて起き上がる。
フロレンティアは呆然とした。長椅子に横たわり気を失っていたようだった。
やがて、ルカは机の端から一つの小さな棚を開け、そこからティーポットとカップを取り出した。
「少しは落ち着ついたか?」
そう言いながら、彼は簡単な魔法で湯を沸かし、棚から取り出したハチミツをティーポットに垂らした。
レモンを薄く切る手際も無駄がなく、まるで何度も繰り返してきたような動きだった。
フロレンティアは、その光景をぼんやりと眺めていた。彼が手際よくティーカップに注ぐ姿は、今まで見てきたどんな場面とも違って見えた。
「ほら、飲め」
彼はカップをフロレンティアの前に置く。その中には、湯気の立つ黄金色のハチミツレモンティーが注がれていた。柔らかな甘い香りと、ほのかな柑橘の酸味が部屋いっぱいに広がる。
「……おいしい」
フロレンティアはカップを手に取り、一口含んだ。その瞬間、口の中に広がる優しい甘さと酸味が、疲れ切った心をほぐしていくのを感じた。
「それは亡くなった母さんがよく作ってくれたものだ」
ルカがぼそりと呟く。その言葉に、フロレンティアは思わず顔を上げた。彼の目はどこか遠くを見つめていた。
「風邪の時とか弱っている時にな。いつもそれを出してくれた」
フロレンティアは言葉を失った。普段ぶっきらぼうな彼が、こうして自身の過去を語るのは初めてだった。彼の声には、微かに滲む寂しさがあった。
「だから、君にもこれを出してやる。別に深い意味はないけどな」
フロレンティアはカップを置き、そっとルカを見つめた。彼の表情はいつも通りそっけなかったが、その奥には優しさが感じられた。しばらく黙った後、彼女は静かに口を開いた。
「……ねえ、ルカ」「なんだ?」「あなたは……時間を巻き戻したいと思ったことはないの?」
彼女の声は微かに震えていた。今まで誰にも言えなかった、自分の心に潜む問いをようやく口に出せたという感覚だった。
ルカはその言葉に少し驚いたように目を細めたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「時間を巻き戻して何になる。過去をやり直せたところで、それで得られるものなんてたかが知れてる」
「でも……もし大切な人を救えるなら?」
フロレンティアはそう言って彼を見つめた。その目には、過去を救いたいという切実な願いが込められていた。
ルカは短く息を吐くと、ティーポットに残った紅茶をカップに注ぎながら答えた。
「過去は変えられない。でも、それを受け入れて前に進むことならできる」
彼の言葉は静かで、しかし確かな響きを持っていた。フロレンティアは、その言葉の重みを感じ取りながら俯いた。
「私……今まで、王子の婚約者でいることだけが私の役割だって思ってたの」
フロレンティアはぽつりと呟いた。その言葉に、ルカは少し眉を上げた。
「婚約者として彼を支える。時には盾にだってなる覚悟を持つ。それが私の生きる意味だった。でも、こうして時間を巻き戻すたびに、それさえも私にはできないって思い知らされる」
彼女の言葉は、今にも消え入りそうなほど弱々しかった。
レオンハルトの隣にいることを誇りに思う反面、いつもどこか息苦しかった。責任と重圧が常に肩を押して、少しでも気を抜くとフロレンティアを地面に引き倒そうとするのだ。
ルカはカップを置き、フロレンティアの目をじっと見つめた。
「君の役割が婚約者だけだなんて、誰が決めたんだ?」
「それは……生まれた時からもう決められていたことだし……」
「そんな期待に縛られて自分を壊すくらいなら、そんな役割なんて捨てちまえ」
ルカの強い言葉に、フロレンティアは思わず目を見開いた。彼の灰色の瞳には、迷いのない光が宿っていた。
「過去に縛られるな。君は、君自身のために生きろ」
その言葉に、フロレンティアの中で何かが音を立てて崩れるような感覚があった。
少し前のフロレンティアなら、到底その感覚は受け入れられなかっただろう。
彼女は再びハチミツレモンティーを口に含んだ。その優しい甘さが、彼女の胸に染み渡るようだった。
その日の夕方、空は深い茜色に染まり、雲が細い筆で描いたような線を浮かべていた。王宮の庭園には静かな風が吹き、草木の間を抜けるたびに、ささやくような音を立てている。フロレンティアは庭の中央にある噴水のそばで立ち止まり、彼を待っていた。
レオンハルトがやってくる足音は静かだったが、彼女の心には妙に大きく響いた。振り返ると、彼はまっすぐに彼女を見つめていた。
その青い瞳はいつも通り誠実で、しかしどこか遠いもののように感じられた。
「フロレンティア、政務は頼んだよ」
彼の声は低く、落ち着いていた。彼女が頷くと、レオンハルトは噴水の縁に腰を下ろし、短く息をついた。
「君には感謝している。僕の婚約者として、君が果たしてくれた役割は本当に大きなものだった」
フロレンティアはその言葉を聞いて、どこかでやり切ったような気持ちになった。大きなお茶会の主催が終わった後のような、そんな気持ち。
「君を大切にしたいと思っている。その僕の気持ちに嘘偽りはない」
レオンハルトの言葉は真摯だった。しかし、その目はほんの一瞬、遠くを見ていた――フロレンティアではない、彼の胸の中に宿る別の誰かを思っているような視線。
彼の仕草の一つ一つが、フロレンティアには痛いほど分かってしまった。
控えめで優しく、彼の心を最も深い場所で温める存在。彼女を想う気持ちは隠しているつもりかもしれないが、巻き戻しを何度も繰り返す中で見てきたフロレンティアには、もう隠しきれるものではなかった。
フロレンティアは穏やかな表情を保ちながら、小さく頷いた。
「……ええ、分かっておりますわ。殿下」
彼女の声は静かで、風に溶けて消えそうだった。それでも、心の中では嵐のような感情が渦巻いていた。
次の日の朝、曇り空の下でフロレンティアはレオンハルトを見送った。出発の準備を整えた彼は、鎧に身を包み、戦場に向かう騎士たちを率いていた。彼の顔には迷いのない決意が宿っている。
「フロレンティア、頼んだよ」
彼がそう言ったとき、フロレンティアは小さく微笑み、ただ短く答えた。
「必ず帰ってきてください。待っています」
それは一番最初にレオンハルトの出征を見送る時にかけた言葉と同じだった。
レオンハルトの表情が一瞬だけ揺らいだ。しかし彼は何も言わず、深く頷くと、馬にまたがり騎士団を率いて門をくぐり抜けていった。
彼が見えなくなった後、フロレンティアは静かに目を閉じた。風が髪を撫で、冷たい空気が彼女の頬に触れる。
彼の本当の幸せがリリアナとの未来にあることを、ようやく認められる自分がいた。
この出征で、レオンハルトは命を落とす。彼は帰ってこない。帰ってこないのだ。
フロレンティアの頬を涙が一つ伝って落ちていく。
「もう二度と巻き戻さない。これ以上、自分の弱さで誰かを傷つけたくないわ」
彼女の声は小さかったが、その言葉には揺るぎない決意が込められていた。
一週間後、王宮に知らせが届いた。
身を固くしたフロレンティアは、呆然としてその場に立ち尽くした。
レオンハルトは無事だった。そして彼の軍は、戦場で一人も命を失わずに勝利を収めたという。
「どうして……?」
「殿下。よくぞご無事で」
帰還の知らせを聞いて淑女らしくなく慌てて走ったフロレンティアは、馬から降りてきたレオンハルトに声をかけた。
レオンハルトははっと振り返り、その後ろにリリアナがいないことを見て、落胆の色を浮かべた。
走ったせいで、彼女はまだ追いついていないのだ。
フロレンティアは気づかないふりをして微笑むと、彼に尋ねた。
「戦場で何があったのですか?聞いた話では、ほとんど戦闘が行われなかったと……」
レオンハルトは頷いた。
「ああ、実際、戦闘は避けられた。隣国の軍は、こちらの大軍を見て撤退を決めたんだ」
「でも、大軍だなんて……そんな準備があったの?」
フロレンティアは首を傾げた。
レオンハルトはその質問に少し苦笑しながら答えた。
「実は、塔の魔術師にもらった魔道具のおかげだ。幻影魔法を使って、実際にはいない兵をあたかも何千もの大軍のように見せかけたんだ」
フロレンティアは驚きと共に目を見開いた。
「幻影魔法の魔道具……? そんなものを誰が?」
「たしか、ヴァレンティアって名前だったな」
その名前に、フロレンティアの胸が少しだけ熱くなるのを感じた。
「ルカ……そうだったのね」
「正直、最初は信用していいのか分からなかったけど、結果はこれ以上ないほど完璧だったよ。彼の魔道具のおかげで、誰も傷つかずに済んだ」
レオンハルトの表情には、感謝とともにどこか誇らしげな光があった。
フロレンティアはしばらく黙ったまま彼の話を聞いていた。
「機会があれば、直接礼を言いに行きたいものだ」
レオンハルトは再び穏やかな笑みを浮かべた。
しかしそのとき、やっと追いついたリリアナが近づいてきた。
彼女はレオンハルトを見てはっと瞳を潤ませた。
レオンハルトは堪らずといった様子で走っていくと、ついに彼女を抱きしめた。
その光景を見たフロレンティアは、静かに息を吐いた。胸の奥にわずかな痛みが走ったが、それはどこか清々しいものでもあった。
レオンハルトとリリアナ――彼らがこれから歩む未来が幸せなものであることを確信していたからだ。
「本当に、おかえりなさい」
そう言葉を残して、フロレンティアはそっとその場を後にした。
魔術塔の扉を押し開けると、フロレンティアを迎えたのはいつもと変わらない景色だった。
薄暗い石造りの部屋、壁を埋め尽くす本棚、乱雑に置かれた魔道具――そして、その中心に座るルカの姿。彼は机に向かい、何やら小さな魔法陣を描いている。
「……戻ったか」
彼は顔を上げずに言った。そのそっけない態度に、フロレンティアは思わず小さく笑みを漏らした。
「ええ。ただ、少し聞きたいことがあって」
彼女の声にルカはようやく顔を上げた。灰色の瞳が彼女を捉える。
「聞きたいこと?」
フロレンティアは部屋の中央に進み、机の上に散らばった魔法陣のスケッチや複雑な数式に目をやった。
「いつの間に幻影魔法の魔道具なんて作ったの?」
ルカは肩をすくめ、ペンを机に置いた。
「俺には五度、改良の時間があったからな」
その言葉に、フロレンティアの目が見開かれる。
「五度……?」
「お前が巻き戻すたびに、俺の研究もやり直しだったんだ。それなら、どうせ無駄になる時間を使って、最高のものを作ってやろうと思っただけだ」
彼は手元にあった小さな魔道具――戦場で使われた幻影魔法の道具――を軽く指で弾いた。それは精緻な作りをしており、表面には幾何学的な模様が彫り込まれている。
「運命を変えることを良しとは思わないが、変えられる未来なら誰も傷つかない未来のほうがいいだろ」
ルカの声は静かだが、どこか遠い響きを帯びていた。
「まあ、それもこの国の民である俺の自己満足に過ぎないけどな」
彼の言葉には淡々とした響きがありながら、その裏に彼なりの優しさが感じられた。フロレンティアはしばらく彼を見つめ、そしてふっと笑った。
「……ありがとう、ルカ」
ルカは少し驚いたように眉を上げたが、すぐにそっけなく言葉を返した。
「次は巻き戻すなよ。俺の研究をこれ以上邪魔されたくないからな」
その言葉に、フロレンティアは微笑んで答えた。
「安心して。もう巻き戻しなんて必要ないわ」
その答えに、ルカはほんの少しだけ表情を柔らかくしたが、すぐに照れくさそうに顔を背けた。そして、視線を机の上の資料に戻しながら、ぼそりと呟いた。
「じゃあ……次は新しい時間を研究してやるよ」
その言葉に、フロレンティアは心が温かくなるのを感じた。彼のそっけない態度の奥にある不器用な優しさが、今の彼女には心地よかった。
「きっと、いい研究になるわね」
フロレンティアはそう言い、魔術塔の窓から覗く夜空を見上げた。星が一つ、また一つと瞬いている。
過去を振り返る必要がない、未来へ進むための時間――それが、今の彼女にはあるのだと感じていた。