アルテミスの弓
「全員、逃げろ!退却だ!止まると死ぬぞ!」
黒いローブを着た男が大きな声で叫ぶ。ローブを着た数人の者達が必死に路地裏を駆けていく。ここは真夜中の東京。全てを飲み込もうとする真夜中の静けさに吸い込まれないよう、後ろから自分たちを殺そうとする影に捕まらぬよう男は叫んだ。
「ち、ちくしょう……」
男は歯噛みをする。はめられたのだ。あの狡猾かつ最悪の敵、“アルテミスの弓”に。
どんどんと路地裏の奥へと走り、またそのわき道へと、道が続く限り延々と走り続ける。
「がはぁっ!」
奴らに追いつかれた後ろの男が血を吐き、倒れる。また一人、そのまた一人。
じわじわと仲間は減っていき、倒れ悲鳴を上げる仲間達を、歯を食いしばって見捨てながら男は懸命に走った。今仲間達に気をかけてはならない。一度立ち止まってしまったらそこが己の墓所となる。仲間達の分まで自分が逃げなければならない。
走って、走って、走って……
「しまった……」
男は悔しそうに舌打ちをする。行き止まりだ。絶体絶命、逃げ道はもう無い。男は行き止まりまで走り、せめてもの抵抗をしようと振り返って、自分達を追っている“狩人”の姿を見極める。ここまで来れた仲間は0。もうここには自分しか残っていない。
「全員持ってかれたか……」
亡くなった彼らのことを思い、憎々しげに狩人を見つめる。彼我の距離は7メートルほど。薄暗い路地裏では敵の顔も姿もよくわからない。
「もう打つ手は無いですね、“オリオン”さん」
狩人は男とも女とも取れる中性的な声だった。彼(彼女?)はゆっくりと一歩ずつ男の元に歩み寄る。
コツコツと静まり返った路地裏に靴の音のみが反響する。緊迫した空気があたりに張り詰める。一歩、二歩、三歩。
「ストーンバレッド!」
「ウォータースピア」
詠唱はほぼ同時だった。ガシャーンと派手な音を最後に、水の槍と岩石の弾丸は互いにぶつかり合って共に消えた。
「お前、やるじゃねぇか。詠唱短縮なんて小賢しい真似しやがって」
「貴方こそ、中々熟練した魔導士のようで」
「半端な小僧め、大人を舐めやがってよ!」
男と狩人は同じタイミングで地面を蹴り、術を発動させる。
「ストーンウォール!」
「ウォーターアロー」
男の詠唱で地面から岩の壁がぐっと隆起し、狩人の華奢な身体に目掛けて伸びていく。
「……っと危ない」
「……!」
狩人は曲芸のように身軽に空中で身体を捻らせ、岩の壁をいとも簡単に避けた。
「うっ……」
狩人は避けた体勢のまま、術で作った水の矢を男の体目掛けて投げつける。鋭く、圧縮された鋭利な水の矢は簡単に男の四肢に刺さり、男はたまらず地面に膝をついた。
「はぁ……俺も、ここまでか」
矢の刺さった脇腹からボタボタと血を流し、荒い息をする男の前に狩人は降りたつ。狩人は詠唱で水の弓を生み出し、矢を男の方に構える。
「大丈夫、殺しはしません。ただ無力化して身柄を引き渡すだけです。貴方の仲間も同様に」
「だからそれが!」
男は狩人を糾弾するかのように声を荒げる。だが怪訝そうな顔をする狩人を見て、男はどこか悲しそうな目で俯きがちに呟いた。
「いや……お前らは何も知らされちゃいないのか」
男は悟ってしまったのだ。彼らは身柄を確保されて者達がどうなるのかを知らないのだ。だって知ってしまったら、こんなに純粋な目ではいられないのだから。これ
以上“狩り”を続けられないのだから。
「終わりです」
少年は弓を振り絞る。矢は男の体を貫き、男は地面に倒れ込んだ。あっけない最後だった。狩人はとても美しかった。男か女かわからないような中性的で整った顔立ち、さらさらで短い黒髪に透き通るかのような純朴な瞳。月光が彼の顔を優しく照らし、弓を振り絞った姿はどこか神秘的でもあった。
「お前の……名前は……」
「……冬馬。来栖冬馬です」
「全く……とんだ悲劇だな、俺も……お前、も」
そう言ったきり男は動かなくなった。死んではいない。重傷を負って気を失っただけだ。だが男の言葉に妙にリアリティがあり、彼は男の言葉を忘れることができなかった。
ー数ヶ月後、彼は男の言葉を再び思い出すこととなる。だがそれは少し先の話である。
……
「これより、魔獣被害特別対策委員会定例会を始める。一同、起立!」
バッと黒いスーツを着こなした役員達が椅子から立ち上がり、ピリリとした空気があたりを支配する。
「着席!」
役員達は神妙な面持ちのまま、椅子にかける。今年で43歳になる委員長の石川はこの雰囲気が好きであった。冗談もユーモアも通じない頭の固く、そして生真面目な彼はこの会議の引き締まった雰囲気が誰よりも心地よいと感じていた。
ー勿論、この男が居なければの話ではあるが。
「八木副委員長、ここは公の会議の場です。しかも本日は杉原防衛大臣までご出席されています。場にあった相応しい振る舞いを心がけてはどうですか」
「まぁまぁそんなに固くなる必要ぁないでしょ、石川さん?みんな生真面目すぎて、にらめっこしてるみたいな顔じゃぁないですか」
机に両足を乗せ、気だるそうに椅子にもたれかかっている男の名は八木 樒
白髪で長身、だが和風な顔立ちで糸目、さらにどう見ても20代としか見えないハンサムな容姿を持った彼だが、履歴書によると38歳というのだから驚きだ。
そして石川にとっては場の空気をかき乱し、風紀を貶める相容れない相手であった。
「八木副委員長、ふざけているのか!公務員として相応しい振る舞いができないというのならご退席願いたい!」
あまりの態度を見かねて立ち上がった石川を宥める形で防衛大臣、杉原優作は口を開いた。
「まぁ石川君、ここは私の顔に免じて彼を赦してやってくれ。彼だって君を怒らせたくてあのような態度をとっているわけでは無いのだから。」
「しかし、場には相応しい振る舞いというのがございまして……」
「今この場で重要なのは立ち振る舞いより会議の進行だと私は思うがね。君だって八木君へのマナーチェックのために私をここに呼んだわけではないだろう?」
若干45歳にして防衛大臣へと上り詰めた若き天才、杉原優作。石川は彼が苦手であった。いや、嫌いと言っても良い。上から目線の口調と、何か裏のありそうな顔、そして同期としての嫉妬から石川は彼を嫌っていた。
「流石、ゆうちゃん。話がわかるぅ!デキるおっとなぁ!」
八木は両足を机の上に乗せたままグッドマークを作る。
「君もあまりふざけているようだと、副部門長の座を剥奪されるかもしれないぞ」
「ひー、怖い怖い、冗談もこれぐらいにして、本題に入りましょうかぁ。“アルテミスの弓”計画についてのことです」
その瞬間、杉原の顔色が変わり、手が顎に触れるのを石川は見過ごさなかった。杉原には片手で顎に触れるという癖がある。そしてその行動をする時はいつも何か裏の思惑がある時だ。石川は杉原との長い付き合いからこの事を学んでいた。
「みーんな知ってるけど一応解説!15年前に発生した小北高校2年B組転移事件。この事件を境に日本には別世界とこの世界を結ぶ“穴”が各地で発見されるようになりました!不思議なことにこの穴は向こうからこっちの世界に来る事ができても、この世界からあちらの世界には何も送ることができないんです!ようは一方通行の穴。
そっして、そのワープホールみたいな穴から主に二つの害がこの世界に入り込んできました!一つ、魔力。この世には存在しない物質である魔力。この魔力くん、ちゃんの方がいいかな?じゃぁ魔力さんがこの世界に入り込んできたことによって人々は魔力を体に取りこんでしまうようになりました。
しかーし、我々には魔力を体に取り込み、分解するための組織がありません!なので、穴のできた地域、つまり魔力濃度の濃い地域では魔力を吸い込みすぎて、体の組織がおかしくなる病気“魔力過剰摂食障害”通称OMED(over magic eating disorder)が流行ってしまいましたー。そして治療法はまだ見つかっていません。いとやばし!
そしてふたーつ!ここが一番大事。魔獣による被害!魔獣の生態は未だ研究中だけど、どうやら魔力の濃いところに誕生すること、魔力に寄せられて移動すること、積極的に他動物や人間を攻撃することとかがわかってます。研究者って凄い、おじちゃん感動しちゃう!そして魔獣によって多くの犠牲者がでてしまいました。年々増え続ける魔獣を駆逐するため、内閣は防衛省傘下に魔獣被害特別対策委員会を設置しました。自衛隊を派遣したり、民間の狩人に駆除を委託したりしたけど全然効果がない!何ならS級の魔獣には返り討ちにされる!
そ・こ・で、この状況を打破する為に、僕からはアルテミスの弓計画を提案します!」
「八木副委員長、無駄に長い説明の割に“アルテミスの弓”計画について全く説明がないように感じたのだが」
「まぁそんなむきにならずに。時は遡ること14年前、ごく一部の者達によって極秘に行われた“アルテミスの弓”計画。魔力が使えないなら、移植すればいいじゃない。その理念を基に、生捕にした魔獣達の細胞から魔力を分解・そして変換する為のDNAを搾取し、そのDNAを有志の親達の子に移植する計画。
彼らは魔力を分解し、そしてエネルギーへと変換する事ができる。つまり、彼らは“魔法”を使う事ができちゃう⭐︎」
「くどいぞ八木副委員長、つまりは今年で14歳になった彼らを集め、魔獣と戦う特別部隊を作るということだな」
「そゆこと、話が早いじゃん」
「私は断固反対する!」
石川は立ち上がり、物凄い剣幕で八木を怒鳴りつける。
「お前はまだ成人すら迎えていない子供達を、命を落とすかもしれない戦場に連れて行くというのか!お前には倫理観というものがないのか!」
「しかし、魔獣には魔法で対抗するのが一番効果的ってのはもう証明済みで……」
「ふざけるな!大人として不甲斐ないとは思わないのか!日本の未来を、国防を15歳にも満たない子供に押し付けるつもりか!大体、移植ができるというのなら自衛官に移植すればいい話じゃないか!私は絶対に反対だ」
石川は嫉妬深く、怒りやすい人間だが誰よりも生真面目でそして正義感と倫理観の強い人であった。
「落ち着きたまえ、石川くん。確かに君の言うことに一理はある。しかし魔獣被害が大幅に拡大している今、早急な対策は必須であると私は思う。その点ではこの“アルテミスの弓”計画は非常に有効だと私は思うね」
「ですが杉原防衛大臣、そのために国の子供を犠牲にするつもりですか!?そもそも大人の我々に移植をすれば……」
「それはできないっすよ、石川さん。まだ体が未発達の新生児じゃないと移植は成功しないんですよ」
「それに犠牲ではないと私は思うよ、石川君。彼らには魔法という武器と高い戦闘力がある。きちんと訓練させればS級だって倒せるようになると思う」
「馬鹿馬鹿しい!本当に馬鹿馬鹿しい!安全性、効果以前の問題だ。子供を戦いに出すこと自体がおかしいんだ!彼らが死んだら責任が取れるのか!大人として恥ずかしいと思わないのか!もういい、私はここで退出させてもらう」
石川は立ち上がり、コツコツ床を靴で強く踏みしめながら会議室から退出していった。あたりには気まずい沈黙が流れ、それを打ち破るかのように一人の青年が口を開いた。
「僕も退出願います。石川さんの言う通りだ、子供を戦わせるなんてどうかしている!」
そう言い残し彼も会議室から退出していった。
「僕も」
「私も」
「私もだ」
次々と委員達は退出していき、残ったのは八木らを含め7人だけになってしまった。
「おっかしいな、完璧な計画だと思ったんだけどな……」
一気に伽藍とした会議室の中、八木が不思議そうに口を開いた。
「まぁ多くの反対の声が上がるのは想定済みだろう、八木君」
「まぁそうっすけど……」
「少なくとも私は賛成だよ。明日あたり岸川総理大臣に直談判しにいこうか。きっと内閣は了承してくれるはずだ」
そう言って杉原は椅子から勢い良く立ち上がる。
「15年前から我が国は魔獣被害によって苛まされてきた。魔獣被害によって多くの産業が打撃を受け、治安が悪化した。人々の生活は貧しくなり、日々魔獣の被害に怯えながら生活しなければならなくなった。その15年の歴史に終止符を打つ時だ。
八木君、“アルテミスの弓”計画、期待しているよ」
「勿論っす、杉原さん」
「ところで、“アルテミスの弓”の名前の由来は何なのかな?」
「ゆうちゃんは、“アルテミス”について知っていますか?」
「いや、知らないな。名前だけなら聞いたことはあるが」
「アルテミスってのはギリシア神話の神様で、狩猟を司る女神様なんっすよ。そこからあやかったって感じです。少年少女達は狩人として、魔獣をその手で狩る。そう、確実に」
八木は会議室の窓から外を眺めた。多くの反対があったが、問題なく始まる筈だ。八木樒の全てを賭けた最大の計画、“アルテミスの弓”計画が。
……
「うーん、今日も授業疲れたぁ。6時間目に古典とか僕たちを眠らせたいのかなぁ」
そんな独り言を呟きながら僕は学校からの帰り道を歩く。どうしてこの学校の木曜日は4時間目体育、5時間目歴史、そして6時間目古典という犯罪級の時間割をしているんだろう、もうちょっと上手い組み合わせあったんじゃないかなぁ……
「おい、あの娘マジで可愛くね?俺ちょっと告って来ようかな」
「バカいえ、あいつは3年3組の来栖。れっきとした男だぞ」
「え、あの見た目で男なのか!?」
「しかも噂によると全国模試2位の超天才児らしいぞ。高校は天下の開聖高校に行くつもりらしいぜ、お前なんかが近づける相手じゃないないだろう。大体中3にもなって何であいつのこと知らないんだよ。」
「いや、俺転校生だし。まだ友達はお前ぐらいしかいないからさぁ。いやー、でも、男だとしてもあの見た目ならやっぱりいいかもな」
「お前モテなさすぎるからって頭オカシクなったんじゃないのか?」
後ろの同級生達の話を聞き、僕ははぁとため息をつく。僕はいつも女の子と間違えられる。髪もショートで服装も女の子っぽくはないのに何故か女の子だと思われてしまう。僕の顔つきと体つきのせいなのはわかってるけど、容姿なんか変えられっこない。僕のコンプレックスは女の子と間違えられることだ。
「てか知ってるか、最近ここいらで魔獣が出てきたらしいぜ」
「ひえーおっかねぇ、でも見てみたいかもな魔獣」
「バカいえ、魔獣と鉢合わせたが最後、お前なんてすぐ死んじまうよ。そういえば、今日俺ん家でゲームしない?父さんが新しいゲーム機買ってくれたんだ」
「良いな、遊ぼうぜ。高校受験も半年後だけど、関係ないな!」
はははと笑いあう同級生達が羨ましい。だって僕には自分の家も、親も居ないのだから。僕は俯いたまま踏切を渡った。
……
「ただいま、柳川さん」
「おかえり、冬馬くん」
僕は職員の柳川さんに挨拶をして、自分の“家”へと帰る。温かみのある木で作られたモダンでおしゃれな建物。ここが僕の家、“デメテル子どもの家“だ。僕には身内が誰も居ない。両親は僕が赤ん坊の頃に交通事故で死んでしまったらしい。だから、この孤児院が僕の育った場所で、かけがえのない大切な場所だ。
ここでは23人の6歳から17歳までの男女が皆で協力して暮らしている。小学生まではみんなで共同生活をして、中学生になってからは個室を与えられる。やっぱり自分の部屋を持つのは最高だ。勉強にも集中できるし、何よりプライベートで自由な感覚がいい。
自分の部屋で宿題をささっと済ませ、僕は日課のランニングに赴く。華奢で中性的な見た目だけど、せめて体つきぐらいは男らしくしようと日々トレーニングに励んでいる。でも、まだ全然効果がない。
「柳田さん、桜田さん行ってきます!」
「あぁいつものランニングか。くれぐれも事故のないようにね」
家から飛び出し、夏の夕日をいっぱいに浴びながら、僕は柵で隔てられた線路沿いのランニングコースを走る。風を切る音、家々からふわっと漂う美味しそうな夕飯の匂い、夕焼けで真っ赤に染まる街並、一足早い、物哀しいようなひぐらしの鳴き声、走ることで今まで気づかなかった光景を感じる事ができる。だから僕は走るのが好きだ。
「はぁぁ、休憩。疲れたぁ」
丁度コースの半分ほど走り終え、立ち止まって休む。夕日はゆっくりと沈み始め、横の路線を電車がビュウと通過して、僕の前髪が風でなびく。
「よいしょっ」
僕は集中力を高め、手に意識を集中させる。そして手のひらの上に小さな水の玉がぷかぷかと浮かびその水球をごくりと飲み干す。
「はぁ、生き返る〜」
近くのベンチに座って休憩し、ランニングを再開しようとしたその時だった。
「緊急速報!緊急速報!S級と思われる魔獣が発生しました。緑町北部にお住まいの方は周囲の安全確認の後、速やかに避難し周りの安全を確保してください。繰り返します、S級と思われる……」
「ま、魔獣か!?」
町中のスピーカーからけたましくサイレンが鳴り響き、魔獣への警戒を呼びかける警報が繰り返される。
「緑町北部って……こ、この公園あたりは緑町北部だ!」
まずい。やばい。本当にまずい。僕は急いでベンチから立ち上がり、家に向かってがむしゃらに走り出した。魔獣なんて生で会ったこともない上に、S級だという。自衛隊の特別部隊を返り討ちにしたこともあるS級の魔獣と鉢合わせたら間違いなく僕は死ぬだろう。
ドクドクと心臓が早鐘のように脈打ち、白濁とした思考の中僕は家へと走り続ける。息が荒い、心臓が痛い、でも大丈夫、大丈夫だ。問題ない。魔獣はこの辺に居ない。落ち着け。大丈夫。だから、
「グルガァァァァッ!」
「嘘、でしょ……」
足から力が抜けて、僕はその場にへたりと座り込んだ。二つ目の曲がり角を曲がりきった先に奴はいた。僕は慌てて角へと隠れ、顔だけを角から出して魔獣の存在を確かめる。全長は4から6メートルほど、全身は灰色で、盛り上がった動物的な筋肉に覆われ、獰猛な頭を三つ持ったケルベロス。そのケルベロスが住宅地のど真ん中で咆哮をしていたのだ。
そして奴の後ろには次元の境目の“穴”があった。
「に、逃げなきゃ……は、はやく!」
しかし、幸いにもまだケルベロスはこちらの存在に気がついていない。今のうちに早く逃げるべきだ。でも、膝が笑ってしまって走るどころか立ち上がる事すらままならない。初めて見た“魔獣”。何故か日本にのみ発生し、毎年多くの犠牲者を生み出す化け物。そしてその存在は想像していた以上だった。圧倒的な存在感、破壊者としての威圧感、知性の宿っていない目に映る狂気、あたりに漂う鼻をつくような獣臭さ。
全てが僕という矮小な存在を呑み込み、簡単に壊してしまうようにも感じられた。僕はやっとのことで立ち上がり、混乱する頭を押さえ逃げようとした。早く逃げなきゃとはやる気持ちを抑え、音の出ないよう僕は一歩一歩離れようとする。その時、
「た、助けてくれぇ……」
魔獣の下から若い男性の呻き声が聞こえ、僕は慌てて角から魔獣の様子を覗いた。見れば、同級生あたりの若い男の子が魔獣の太く鋭い爪で地面に抑えられ、苦しそうに呻き声をあげていた。
「下校中の子だ……」
魔獣と会ってみたいと言っていたあの子だ。助けたい。助けてあげたい。だけど、もし助けに行ったら僕が生きていられる保証はない。それに僕が駆けつけたところであの子を助けられるわけじゃない。最悪犬死にで終わる可能性だってある。
それに相手はS級だ。自衛隊を返り討ちにすることもあるS級だ。勝てない可能性の方が高い。
だけど、見捨てられない。それに赤の他人じゃない。同じ学校の同級生で、彼には友も親もいる。ここで彼が死んだら皆が悲しむ。
心臓の鼓動は尋常じゃないくらいに早く脈打ち、息もゼイゼイと荒くなる。頭が妙にフワフワして、真っ白になる。魔獣と戦うのは怖い。でも、
それ以上に、助けたい。
「あぁぁぁぁ!」
僕は雄叫びを上げながら魔獣に向かって走り出す。彼我の距離は15メートル程。魔獣がこちらの存在に気がつき、グルガァァと興奮したように天に向かって吠えた。
「喰らえ!」
挨拶代わりに固め、圧縮した水の固体を生み出し魔獣に向かって投げつける。水の塊はケルベロスの足を傷つけ、血が足から吹き出した。だが、足を浅く傷つけただけで何のダメージも通っていない。
ケルベロスは怒ったように捉えていた男の子を投げ飛ばし、ターゲットを僕に切り替える。3つの頭にそれぞれある口から炎を吐き出し、僕を骨の髄まで焼き尽くさんとする。僕は意識を集中して、目の前に巨大な水の壁を張り炎のブレスを防ぐ。
「くっ……」
全身全霊でブレスを防ぎきり、怯んだケルベロスの首を狙って水の弾丸を連射する。何発もの水弾が首を貫き、ケルベロスは苦しそうに雄叫びを上げた。その隙を見逃さず、水のカッターをケルベロスの首へと飛ばした。
「やった!」
水の斬撃はケルベロスの首を貫通し、血を吹き出しながら頭が地面に転がる。いける。残りの頭は2個。今より弱体化したのなら次も確実に切り落とせる。勝てる。
やれる!
刹那、ぐにゃぐにゃと肉が分裂したような音と共に一瞬でケルベロスの頭が再生した。見れば足に与えた傷も全て全快している。魔獣の傷が再生するなんて聞いたことがない。一体どうすれば倒せるんだ。どうすれば……
「嘘……」
あまりのことに呆然とした僕の隙を見逃すはずもなく、ケルベロスはその頑強な前足で僕を地面に押し潰した。
「あ、あぁぁぁ!」
息が詰まって呼吸ができない。苦しい。痛い。メキメキと言いながら僕の骨が、全身にひびが入っていく。もう内臓も限界だ。トマトのように潰れてしまう。もう駄目だ。死ぬ。彼を助けられないまま僕はここで死んでいく……白いモヤがかかり、苦しさと痛み以外一切が感じられない思考の中、僕は“ボク”の声を聞いた。
「ねぇ、壊したいんでしょ。あの魔獣を」
驚くほど穏やかな声で、聞き覚えのある声だ。
「君は……誰?」
君を何処かで僕は見た気がする。
「誰って、ボクはトウマ、ボクは僕だよ。君自身。もう一人の君。でもそんなのはどうでもいいでしょ。さぁ質問に答えてよ、君は魔獣を壊したい?」
違うよ、君の容姿のことじゃない。君の存在を何処かで見たはずなんだ。だけど、今はどうでもいいか。
「壊したい……いや、ボクはあの子を守りたい」
「壊すも守るもここでは同義でしょ。この魔獣を殺さない限り、君は守ることができない」
「確かにそうだね、僕があの魔獣を倒さない限り、あの子を守ることはできない」
「ここで提案だ。ボクに体を開け渡してくれないか?、もう一人のボク」
「君は彼を守って、助けられるの?」
「さぁね。でも、あの魔獣を殺すことはできる。ボクも飢えてたしね。win-winでしょ」
「なら、譲るよ。どうかあの魔獣を倒して…」
もう起きているのか寝ているのか、僕が体を動かしているのか彼が体を動かしているのかわからないフワフワとして現実味のない感覚。
そうだ僕は、ボクは……
「守りたい」
「壊したい」
ボクは魔獣の鼻先へと向かって跳躍した。誰よりも高く、ただ鮮血と破壊を求めて。
……
「はぁ、はぁ、はぁ……」
目が、覚めた。あれからどれほどの時間が経ったのか。空は完全に暗くなり、夜空には幾千もの星が煌めいている。気づけば、僕は荒い息を吐きながらその場に突っ立っていた。全身で魔獣の返り血を浴び、手には水で生成したナイフが握られていた。
そして地面に横たわっている屈強なケルベロスの胴体と、切り落とされ道路に転がっている三つの頭。お腹からは腑が乱雑に引きずり出され、ズタズタに切り裂かれている。舗装されて道路は見る影もなくボロボロにされ、幾つかの家は倒壊している。電柱は根こそぎ引き抜かれ、切れた電線が頭上で火花を散らす。
まさにボロボロの光景だった。
「これ全部、僕と魔獣がやったのか……」
酷い。周りへの被害を何も考えていない無茶な行動だ。もしかしたら、あの子も戦いに巻き込まれてしまったのかもしれないと肝が冷えた時、後ろから呻き声のような声が聞こえた。
「あ、はぁぁぁ」
振り返れば、そこには怪我を負った彼が地面に苦しそうに横たわっていた。よかった、ちゃんと生きていた。それに見たところ酷い怪我というわけでは無い。
「大丈夫!?」
僕はほっと安堵のため息を吐きながら、彼の怪我の具合を確かめようと彼に駆け寄る。
「近づくな!」
彼は必死に、腹の奥からそう叫んだ。
混乱した。え、どうして?もう魔獣は居ないのに?そんな言葉が僕の頭をよぎった。魔獣と遭遇してパニックになっているのかなとも思った。でも、違った。彼の目に映っているのは恐怖だ。そしてその目は魔獣を見ていない。僕だ。僕を見て、そして怖がっている。
「どう、して……」
本音が漏れた。どうして僕は怖がられているんだ。君を助けたのに、恐ろしい魔獣を倒したのに。
怖がる必要なんてない、そう言おうとして僕は彼に手を差し伸べた。手の甲を伝って血の滴が地面を赤く染めた。
「君は……何者だ」
彼は目に恐怖を浮かべながら、全身を恐怖でこわばらせながら、やっとのことで口を開いた。
「た、助けてくれたことは感謝してる……君は俺の命の恩人だ……で、でもそれ以上に怖いんだ。だから、悪い。これ以上近づかないでくれ」
「怖いって……」
「君はあの魔獣を殺した。いとも簡単に殺した。楽しそうに、本当に楽しそうに殺してたんだ!いたぶって、腑を引っこ抜いて弄んでいた。怖い……怖いんだ、君が、君のその楽しそうな笑みが!だから、怖いんだよ……」
「……!」
僕はその時気がついてしまった。目に恐怖を浮かべる、彼の黒瞳に映り込んだ僕の表情に。
僕は慌てて自分の口元に触れる。その口角は、歪んだほど高く上がっていた。
……
「ねぇ、これ本当に一人の人間がやったの?ちょっと信じられないんだけど」
満月が美しく光る夜。草木も眠る丑三つ時。だがこの時間が狩人の活動時間だ。
そんな中、月光で照らされる巨大な死骸を見てアルテミスの弓のメンバー、世波夏那は思わずそう呟いた。
狼型魔獣の中では他の追随を許さない別格の強さを誇るS級魔獣のケルベロス。
そのケルベロスが三つの首を落とされ、見るも無惨な姿で惨殺されていた。
「それにしてもひっどい有様やな……」
警察がきたのか血痕は掃除され、魔獣の大きな死体はブルーシートで一応は隠されている。しかし、ブルーシートからはみ出した魔獣の腑が、魔獣がいたぶられて殺されたことを示していた。
「この魔獣を殺したのって、八木さんの言ってる“オリオン”?」
「いやー、どうやら違うっぽいよ、僕もコネに頼って情報集めてみたんだけど、この魔獣を殺したのはここ緑町の永鋼中学校に通う学生、来栖冬馬らしい。現場付近に居た少年の証言によるとね」
八木は感情の読めない飄々とした笑顔で話を続ける。
「まぁ間違いなくその子は君らと同じ“異能者”だろう。そこで、僕はその子を“アルテミスの弓”の新メンバーとして迎え入れたいって思ってるんだけど、世波ちゃんはどうかな?」
「私は絶対に反対」
夏那はきっぱりとした口調で断言した。
「この現場から見るに、その来栖って子は魔獣をいたぶって殺してたって簡単にわかる。そんな異常者のサイコパス、私は受け入れられない」
「厳しいねぇ、別に人を殺したわけでも無いのに……それに実力は折り紙付きじゃないか」
「八木さんはバカなんですか?サイコパスをチームに入れたらそれだけで士気が下がりますよ。実力以前の問題です」
「うひゃー口が悪いねぇ、もしかして機嫌悪い?」
「別に見たい深夜アニメが始まっているのに、無理矢理外に連れ出されて、グロい光景を見せられている事には何の不満なんてありませんよ。あぁ、早くクーラーガンガンの部屋でBL読んで純愛イチャイチャ成分で脳を回復させよーっと」
ぷりぷりとしたまま家へと帰ろうとする夏那を八木は慌てて引き止める。
「待って待って、話はまだあるから。僕は君に任務を与えたいんだよ」
「任務……?」
「そう、勿論僕だって無条件でその子をメンバーに引き入れるわけじゃ無い。そこで君に偵察をお願いしたいんだ」
「偵察って、具体的に何をするんですか?」
「君には来栖冬馬の通う中学、永鋼中学校に転校して調査をして欲しいんだ。メンバーとして抜擢するに足る人物かどうか調べるために」
「嫌です」
「うーん、また即答。別にいいだろ、君は僕の家に住んでるし君の通ってる中学校から車で10分ぐらいの位置だよ。面倒臭い手続きは僕が何とかするからさ……」
「嫌です。めんどくさいじゃないですか。なら私はもう帰りますね。さようなら」
また問答無用で帰ろうとする夏那の肩を掴み、八木は耳元でこう囁く。
「何だっけ、君の好きなアニメ、”ラスト・アドベンチャー”だっけ?」
「はい、因みに私の推しはラスアド最強キャラの神崎優様です。さらさらした黒髪とキリッとした目つきに筋肉質で色気溢れる身体、そしてあの甘いボイスがホントに堪らなくて、もう優様の声を聞くだけでもう耳が孕みそうなんですよ〜。それになんと言っても優様の性格。普段はツンツンしたクールキャラで孤高の存在なのに、ヒロインの事となったらすーぐに取り乱してめっちゃ可愛いんですよ。挙げ句の果てにヒロインが他の男と話しているのに嫉妬した優様が何をすると思いますか?お姫様抱っこして“お前は俺の女だ”って照れながら顔を赤くして言うんですよ?もう最高すぎて叫びそう!母性本能がくすぐられるというか、ちょっと強引でメンヘラ気質のところもいじらしいというか、本当にかっこよくて……私いつも妄想してるんですよ、顔を赤くした優様が強引に私の唇を奪って恥ずかしそうにはにかんで……」
「……話を戻そうか。ようは夏那ちゃんの好きなキャラ、神崎優だっけ?そのフィギュア、10個買ってあげるよ」
「っしゃ、やってるでオラァ!てやんでい!転校も転移も転生もどんと来いやぁ!」
「オタクって怖いなぁ……」
腕をまくりながら、キャラ崩壊を起こして家へと帰る世波を見て八木はぼそっとそう呟いた。
……
あれから1週間後
キーンコーンカーンコーン
「ね、眠い……」
僕はチャイムの音を聴きながら、欠伸を噛み殺して眠い目を擦る。昨日はあんまり眠れなかった。と言うより今週はあまり眠れていない。どうしても先週の魔獣騒動の事を思い出し、なかなか寝付けない。あの日僕はそのまま家に帰る訳にも行かず、一応は警察を呼んで取り調べを受けたもののまさか自分が魔獣をやったとは言えず終始警察を困惑させるだけになってしまった。その後家に帰り、色々と誤魔化したものの今でも警察からは取り調べを受ける。
それにしても今日はなんだか教室ががやがやと騒がしいな。何かあるんだろうか。そんな事を考えながら眠気を必死に殺していると、教室の扉がガラガラと開き担任の若い先生が入ってきた。
「起立、礼、おはようございます」
「おはようございます」
着席して僕らの顔を見渡して、先生は笑顔で口を開いた。
「実は、今日は転校生がやってきました。新しいクラスの一員として皆さん温かく向かい入れましょう」
ざわざわとクラスが今までにないくらいに騒がしくなる。
「転校生?美少女確定コース?」
「いや、でも前の転校生は男だったじゃん」
「なら次は女だろ。転校生は美少女って相場が決まってるんだぜ、俺の愛読するラブコメによるとな」
「間違ってもお前は主人公にはなれねぇよ」
などと色めき立つ教室に少しも怖気つくこともなく、教室の扉が勢いよく開いた。
「おぉぉぉ」
教室の男子たちが思わず息を呑む。栗色で少しカールしたセミロングの髪に細身な身体、ジト目。服装やおしゃれには無頓着に見えるが、顔立ちは整っていて男子たちが騒ぎ出すのも無理は無いな、と僕は思った。
彼女はコツコツと教団へと歩き、そして大きく息を吸った。
「こんにちは、転校生の世波夏那です。かなって呼んでください。推しはラスアドの優様です。アニメ、漫画、ラノベ、サブカルの類は全部好きなのでオタクの人、特にラスアドが好きな人は是非私に話しかけてください!これから半年間よろしくお願いします!」
そう言い切り、彼女はぺこりとお辞儀をした。
「世波さん、これからよろしくお願いします。それでは来栖さんの横の席が空いているので世波さんはそこに座ってください」
「おいおい、オタクに優しいオタクかよ、これは俺たちにもチャンスあるんじゃ無いのか?」
「何だよそのオタクに優しいギャルみたいなのは、少なくともお前の顔じゃダメだ。あと痩せろ」
沸き立つ男たちの歓声の中、彼女は僕の席の隣へ颯爽と歩き、ゆっくりと席に着く。
「よろしくね、来栖ちゃん」
彼女はニコッと僕に微笑みかけた。
「よ、よろしく世波さん」
しかし、彼女は笑みを浮かべたまま硬直する。そしてハッと何かに気が付いたように顔を歪めて、素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「来栖……来栖ぅ!?貴方が八木さんの言ってた……」
「え、以前世波さんと会ったっけ?だとしたらごめん、僕覚えてないよ」
「いや、何でも無い……」
世波さんがあまりに大きな声で叫んだせいで、教室中の視線と注目が僕ら一点に集中する。世波さんは小さく深呼吸をして、もう一度僕に話しかけた。
「ごめん……人違いだったみたい……とにかく、これからよろしく来栖ちゃん。ボクっ娘っていいね。君は萌えヒロインになれる!」
「僕は男だよ……」
「えぇぇ!嘘!?」
彼女は先程よりも大きな声で叫んだ。今度はクラス全員の視線が僕らに集まった。僕は視線に耐えきれずに顔を赤らめて下を向く。本当に恥ずかしいよ……
……
世波さんが転校して二週間が経った。一学期の期末試験を経てあと2日で夏休みが始まる。世波さんは凄い人だ。何よりコミュニケーション能力が凄い。誰とでも分け隔てなく関わることができて、男女共に人気が高い。
しかも他人と合わせるために猫を被ったり、自分を演じたりすることなく堂々と自分を曝け出している。それなのに、人と関わるのが上手い。
「ねぇ、世波さん。朝礼の前何の本読んでたの?」
下校中、僕はいつも通り世波さんに話しかける。隣の席だからか、ここ二週間で世波さんとの仲はかなり深まった。それに、誰とでも分け隔てなく話す彼女だけど、僕には人一倍話しかけてくるのでお互いのことをよく知ることができた。
「あぁ、これ?『転生したら◯ロゲーの主人公だったけど、ヒロインなんて無視して親友役といちゃいちゃします』だよ。来栖君も読む?最高級のBLいちゃいちゃ純愛成分が摂取できるよ?」
「い、いや……遠慮するよ……」
「ちなみに、来栖君はどんな本が好きなの?」
「そうだな……」
「『よくわかる人の殺し方』とか?」
世波さんは至って真剣な顔で質問する。
「そんなの読まないよ!僕を何だと思ってるの!」
「じゃぁ何が好きなの?」
「ミステリーとか伝記とかも好きだけど……やっぱり神話かな」
「厨二病かぁ、まぁ男の子だもんね。しょうがないか。その気持ち私も凄くわかるし」
うんうんと頷く世波さんに僕は慌てて反論する。
「違っ、厨二病なんかじゃ!」
「慌てて反論するのもいじらしいなぁ。具体的にどんな神話が好きなの?」
僕を見ながらジト目でニヤニヤする彼女に何も言えず、僕は渋々話し始めた。
「特にギリシア神話だよ。僕の家の”デメテル子供の家も“ギリシア神話の大地の神様から取られてるんだ。一番好きな話はアルゴ座の神話かな」
僕の一番好きな話。幼稚園の頃よく桜田さんに読み聞かせをせがんだギリシア神話。その中で一番好きなのはアルゴ座の物語。英雄ヘラクレスやイアソンたちがコルキスの黄金の羊の毛皮を目掛けて冒険をする物語。ワクワクする物語で、僕はこの物語を読むのが一番好きだった。
「ふーん、じゃぁ一番嫌いな神話は?」
「そ、それは……オリオン座の神話かな」
「サソリに脛を刺されてオリオンは毒で死んじゃいましたっていう有名な奴?」
「こっちの神話の方が有名だけど、実はオリオン座にまつわる神話は二つあるんだ。そして僕が一番好きじゃ無い神話は二つ目の方」
「へぇ、二つあるんだ。知らなかった、詳しく教えて欲しいな」
「わかった。昔あるところに……」
僕は要点をかいつまんで、ざっくりとした物語を話し始めた。
昔、あるところにオリオンという青年がいました。彼は大変狩りが上手く狩りの名人として名を馳せていました。そんなある日、オリオンは月と狩猟の女神、アルテミスとクレタ島で出会います。二人とも狩りの名人。二人はすぐに恋に落ち、穏やかな日々を過ごしました。しかし、アルテミスの兄、アポロンはオリオンのことを良く思っていませんでした。そこでアポロンはオリオンとアルテミスを引き離す為にオリオンを殺害する計画を立てました。
アポロンは狩りをしているオリオンの元に巨大なサソリを送り込み、オリオンを亡き者にしようとしました。しかし、それに気が付いたオリオンは命からがら海へと逃げ出し、泳いで水平線の彼方へと向かいました。
それを見たアポロンは妹のアルテミスを海辺に呼び出し、水平線の彼方にあるオリオンの頭を指差しました。
それを見せ、アポロンはアルテミスにこう言いました。
「いくら狩りの名人であるお前でも、あの水平線の彼方にある岩を撃ち抜くことはできないだろう」と。
これを聞いてアルテミスは負けじと弓を取り出し、オリオンの頭を一撃で射止めてしまいました。翌日、浜辺には頭に矢が刺さったオリオンが打ち上げられ、アルテミスは己の過ちを知りました。
そこでアルテミスはゼウスにオリオンを星座にしてもらい、月である自分が銀の馬車に乗ってオリオンに会いにいくことを許してもらいました。
冬の夜にオリオン座のすぐ近くを月が通るのはこのような訳があったからです。
と言った話。僕はこの話が一番嫌いだ。
「本当に救いのない話なんだ、殺されたオリオンは勿論、愛する人を自らの手で殺めてしまったアルテミスも……」
ふーんと世波さんはうなずき、でも、とはなし始める。
「私はサソリに殺された話よりもこっちの方が好きかな。サソリの方はオリオンが死んでおしまいだけど、こっちのお話はオリオンが死んだ後もアルテミスに慕われて愛されていたことがわかるし、オリオンも見知らぬサソリに毒殺されるよりかは愛する人の手で逝けたほうがマシだったって思うな」
「そうかな、確かにそういう見方もあるかも。こっちの捉え方の方が前向きでいいかもね」
「でしょ、私ポジティブシンキングが取り柄なんだよね、まぁアニメ鑑賞を邪魔する奴にはネガティブな考えしか浮かばないけど。それに来栖君が厨二病って事がわかったから、改めて君には『ラスト・アドベンチャー』をオススメするよ」
「毎回布教してこない?」
「気のせいだよ」
と、その時。えーんえーんと小さな女の子の泣き声が聞こえ、僕は考えるよりも早く、急いで鳴き声のする方向へ駆けて行った。
「ちょ、待ってよ来栖君!」
後ろから世波さんも追いかけてくる。5歳くらいの女の子は数個の曲がり角を曲がった、通りに面した所にいた。家の目の前に立ちつくし、家の前の門をただ茫然と眺めながら泣きじゃくっている。その目の前を何人かの人が通り過ぎるもバツの悪そうな顔をして女の子を無視していた。
「大丈夫、何かあった?」
しゃがんでおさげの女の子に話しかけるも泣きじゃくるだけでうんともすんとも言ってくれない。
「困ったなぁ」
僕はうーんと頭を掻く。まずは動転している女の子を落ち着かせなければいけない。でもどうやって?何か気を紛らわせるような物があればいいけど……
「世波さん、何かこの子の気を紛らわせるような物って持ってる?」
「えっと……一応さっき言った『転生したら◯ロゲーの……」
「もういいよ。黙ってて」
「酷い……」
涙目になっていじける世波さんを無視して僕は考えを巡らせる。気を紛らわせられる物、女の子が喜んでくれる物、僕ができること……
「あっ」
「何か思いついたの」
世波さんがひょいと僕の顔を覗き込む。確かにいい案だ。でも世波さんに見られてしまう。もしこの姿を言いふらされたりしたらきっと僕はただでは済まないだろう。もしかしたら国に捕まって非道な人体実験をされる可能性だってある。
怖い。だけど、世波さんは普段はふざけているけど根は意外としっかりしていることは知っている。それに、
女の子1人を笑顔にする奇跡も起こせないで、何が“魔法”だ。
「世波さん、周りに人居ないよね?」
「居ないけど……」
「じゃぁ、僕が今からちょっと凄いマジックをするんだけど、そのマジックを見てもその事を誰にも言わずに黙っててくれるかな?」
「何かはわからないけど、来栖君がそう言うなら。違法行為と犯罪行為でなければ勿論」
グッドマークを作る世波さんにうんと頷いて僕は手に意識を集中させる。あの魔獣戦のように傷つけ、殺すための魔法ではなく、女の子を笑顔にさせるような“奇跡”の魔法を。
「ほら、イルカさんだよ」
僕は掌の上に水でできた小さなイルカを生んだ。飴細工のように繊細で小さなイルカは僕の掌の上を泳ぎ、やがて掌から飛び出して泣いている女の子の周りをグルグルと優雅に泳いだ。
「凄い!お兄ちゃん凄い!イルカさんだ!可愛い!」
泣きじゃくっていた女の子はイルカを見てゆっくりと泣き止み、そして笑顔で嬉しそうにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。その女の子に合わせるかのように水のイルカは女の子の周りをくるくると回る。
イルカはやがて徐々に力尽き、僕の掌の中に戻るがいなや、ピシャッと音を立ててただの水になった。
「お兄ちゃん凄いね!どうやったの!」
目をキラキラとさせる女の子に僕はニコッと微笑みかける。
「タネも仕掛けもない、“魔法”だよ」
少し尻切れトンボになってしまいましたが申し訳ありません。今後個人アカウントのほうでこの作品の続き(連載バージョン)を投稿する予定ですので少しでも興味を持っていただけたら是非そちらも覗いてくださると幸いです。
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