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 道が悪いので、震動が激しい。

 暗いいなかみちを走るバスのなかで、わたしはひとりきり、カメラをそっと抱きしめている。腕の中の、祖父が死にわたしが拾うまでのあいだずっと忘れられていたこの黒いカメラは、久しぶりにひとというものをきりとった。夕方の、くらがりの教室、そのなかにぽつりとうかぶしろ。黒いフォルムを、そっとゆびでなぞる。このなかに、彼女が、いる。とうとい幸福。わたしがなによりもほしがったもの。この中で彼女がどんなかおをしているのか、わたしはさっぱりわからない。シャッターを押したとき、わたしは、自分じゃなかった。ただ、このこい、がわたしといれかわって、シャッターをきった。その瞬間の彼女のかおを、わたしは見ることができなかった。それはとても残念でならないけれど、でも、このなかに、彼女がいる。あのこが、あの、うつくしいあのこが。

 ――ああ、

 胸のあたりが、すうっとして、きゅうきゅうとなにかにしばりつけられているような、くるしくて、けれど甘くて、からだじゅうが震えるような――そんな感覚が、あたまからゆびさきまで、あますところなく走っていく、そして子宮のあたりが甘くしびれるみたいになって、わたしはその感覚の満たされるのにひどく快感をおぼえる。くるおしいくらいに満ち足りていくのにこわくなって、ひざこぞうをあわせて、スカートのすそをきゅっとにぎった。けれどそれはなんて心地のいい感覚だろうか。わたしは、この感覚を、あいしている。息がつまって、とてもくるしいけれど、このこい、というものの走る感覚は、なんて心地よくて、そしてうれしいのだろうか。いとおしいのだろうか。あのこがわたしのカメラのなかに、いる、それだけの事実で、からだじゅうが満たされる。

 窓のむこうがわは闇をおびた、輪郭をうしないかけているいなかみちがあり、そのおかげで明るいバスのなかからみる窓ガラスは明かりのてりかえしで鏡になっている。そのガラスにわたしが映っている。そこにはなんの変哲もないわたしの顔ではなく、そのむこうがわのあのこの顔が重なって見える。たまごのようにつるりとした輪郭と、うすい茶色の少し細いひとみに、通った鼻筋、あかいくちびる、染まることを知らぬ黒の髪、とても素敵な白雪姫の容貌が、おとぎばなしからそっとぬけだし、目の前にひかえめな微笑みをうかべている。ゆびさきでそっとなぞると、そのほほえみははにかみに代わって、口元をわずかに引き締め、ほんのすこし困ったようにしている。クーラーで冷えてしまっているガラスが、ゆびさきの熱にすこしぬるみを帯びた。あのこに触れたら、あのこはこんな顔をするのかしら。こんな風に、すこしだけ困ったようにしながら、けれどもきっと嫌がらないんだわ。うれしそうに、きっとはにかんで、そしておそるおそる上目遣いでこちらを見るの。ふれたゆびさきが、なにを望んでいるのかわからなくて、ただひたすらに言葉を待って――その顔はどの女の子よりもかわいくて、そしてうつくしいの。そうしたら、今度わたしはなにをしてしまうのだろう。わたしのこい、は、どうなってしまうのかしら。おもいのままにくちびるに触れて、あのこを食らいつくそうとして、そうなったら彼女はどんな顔をするのだろう。わたしはそんな想像をしながら、ガラスにくちづける。いつもの、タイルごしのくちづけのように。

 気づけばバスは目的の場所に停車していて、聞きなれた地名をくりかえしている。その瞬間、魔法のように彼女のかおはガラス窓から消え去っていて、わたしは名残惜しくその窓ガラスをそっとなでた。―――さようなら。息をするのと同じくらいに言ったら、音にもならなかった。


***


 どきどきした。おそろしくなった。

 わたしが彼女をきりとったことを、彼女は怒っているのかと思ったから。古びたカメラにおさめるには彼女はあまりにもきれいすぎて、似つかわしくなんかないのに、わたしはそんなあやまちを犯してしまったから。彼女が怒り、そしてわたしにばつがくだっても、それはなんら不思議なことでも、不当なことでもない。うつくしいもの、それをうすよごれたレンズごしに見るだなんて、きっとかみさまはお許しにならないだろうから。

 けれど彼女は純粋な微笑みをうかべた。なんのまじりけもないそのほほえみは、彼女のしろいセーラー服みたいだった。

 ―――よかったら今度、わたしのうちにきてね。とってもきれいなお花がさいているの。

(しろや、きいろ、あか、むらさき……)

 彼女はそのとうめいな声で、いくつもの色をならべていった。あお、みどり、ももいろにうすいあか……いくつもくりかえされるその色のなまえは、まるでひとつのうたのようだった。たのしげにくりかえされ、わたしの顔にも自然と笑みがあふれる。そのとき、彼女はふとやわらかに、うつくしく、笑って、

(……わらった……)


 ―――ともだちに、なってくれる?


 うすくらがりの教室で、心細げに、けれどどこかうれしそうな彼女が、ホワイトボードをひかえめにわたしてきた。



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