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 はなのにおいがする。

 甘さをもったそれは、けして、人口甘味料のようなびたびたとしたかんじではなく、ふうわりと、まさに香ってくるようなかんじだ。すいこむと、鼻の中でゆったりと流れ、まるで麻酔のようにからだじゅうのちからがぬける。ほかならぬ、彼女のものだ。

 夕方の教室は、静かだ。

 まいにちの習慣の、ひとりきりの夕方の撮影会で、カメラを手に、わたしは教室の前でたちつくしている。

 レンズのピントはあるひとりの少女にあてられ、ひとというものをこのカメラではじめてきりとった。その少女は、まるでちいさなこどものように机に腰掛けていたが、フィルムのまわるかすかな音に気づいて、こちらを見ている。わたしはそれを人事のように見ている。

 ああ、ああ、ああ……!

(、)

 彼女のとうめいのこえが、そのちいさなのどにつまった。

 みつかってしまった、わたしはとうとう、みつかってしまった。ああ、ああ、ああ……! わたしのこころの、こいが、暴れまわる、そのせいで、心臓は、どくどくと鼓動をはやくさせて、夏の気温に、かすかにだけしっとりしていただけの背中には、汗がつうとつたった。その軌跡をわたしの感覚が追う、汗はつるつると下へおりていったが、スカートのベルトあたりでにわかにきえさってしまった。息が、わたしの呼吸が、肺が呼吸をしなくなる。くらくらして、くるしくて、つらくて、かなしくて、あんなに望んでいた彼女の双眸の、そのくろを、そらしてしまえたら。ちが、う、ちがう、ちがう、こんなかたちで、彼女の目をのぞんでいたわけでは、ないのに。

 カメラが重い、そのせいで、わたしは、身動きができずにいる。

(……、)

 彼女は、机から降りた。すとんと軽やかに着地した。手近においてあったいつもの、こぶりのホワイトボードを腕に、わたしに近づいてくる。

 ―――だめ、だ。

「―――窓、」

 ……窓が、あいていたから、しめに、きたんだけど……わたしのこえ、だけれど頭の中の冷静な部分の、誰かが呟いた。「如月さん、はやく帰ったほうがいいですよ」ついでにこんなせりふも、うまいぐあいに。

 彼女はホワイトボードを腕に、ぴたりととまった。まだすわっていた机から、三歩も歩いていないところで。夏の夕方にもかかわらず、くらがりで、彼女の顔は見えない。どんな表情をしているのか、怒っているのか、かなしんでいるのか? わらっているのか、ないているのか? しかし、それを知りたいこころとは逆に、わたしは近づかれるのが、こわい、こわくてたまらない。こころのなかのこいが、彼女に近づきすぎたことで、ひどくあばれまわっていたから。

 だって、……このこいは、すこしきずにもにている。触れたらきっといたみで泣き叫んでしまう。はれあがって、これ以上、触れてしまっては、見てしまっては。いたいのは、きらい。そして、このこいがなくなってしまうことも、いや。

 わたしはゆっくりと、気づかれないように、右足をひっそり後ろに後退させた。ついで、左足も。リノリウムの床と、木材のいちまつ模様の床をへだてる、ドア枠のうえにあった両足は、いまやもう逃げようとリノリウムの床のうえにある。このへだたりは、なんだろう。けれど、わたしはいちまつ模様のうえに、たってはいけない気がする。

(……、あの、)

 じり、と足をゆっくり動かすわたしに、こえがかかる。このとうめいは、彼女のものだ。わたしは、うつむきかけていた顔をあげる、いつの間に彼女はつくえから散歩以上もすすんでいて、わたしに近づきつつあった。しろい全身が、くらがりのなかではなんだかういてみえた。ひかりをまとっているような、そんなかじんさえする。

 ちょうどうまいぐあいに、かすかなあかりが彼女の顔を見やすくしている。影のかかったうつくしい顔は、それでも、くらがりで、いつもの教室での顔とはすこしちがう。ひかえめな表情が、うかんでいるのが、かろうじて分かるほど。しかし、くらがりでも彼女のうつくしさは増すばかりだった。

 彼女は、腕のホワイトボードに勢いよくなにか書き込む。彼女のうつくしい白い手が、マジックで文字をひっぱるたび、ちいさくきゅきゅ、と音がした。書き込み終わったのち、彼女は不安そうにホワイトボードを裏返す。そういえば、彼女の文字を見るのははじめてかもしれない。わたしは、不安げにさしだされたホワイトボードを受け取り、しろにうかぶくろを頭でよみあげた。

 ―――カメラ、かっこいいですね。

「……カメラ、……」

 そっと首にさげられたカメラを見やる。彼女は一生懸命、こく、こくとうなずいた。

(ほんとうに……、……すてき、……)

 白い手が、胸の前でにぎられている。ほう、ととろけるような、どろどろのとけたチョコレートみたいな、そんなぬるい視線がわたしの首にさげられたカメラにあてられている。わたしはとっさにカメラに嫉妬しかけて、それでも、はじめて身近に見る彼女の表情に、すいこまれそうになり、ああ、どうしよう、心臓が、いまにもこぼれおちそうに危うい。

 彼女はわかっているのだろうか、そのとうめいのこえがわたしに聞こえていることを、自分のうつくしさを、わたしという人間との距離感を。……いいやきっと、何も、何も知りえはしないのだろう。彼女はひとびとにこえがでないと洗脳されていることもしらず、自らのうつくしさもしらず、わたしという人間にただ話しかけているだけなのだ。その無知は、いっそ無垢で、けがれなくて、うつくしい。なにもしらない彼女のその純粋さに、わたしはただたちつくし、そのうつくしさに、ただただ感嘆する。

「ありが、とう」

 ―――……カメラ、……ほめてくれて……、わたしの声がぼそぼそ言うのへ、彼女はほっこりと、やわらかな、見たことも無いような笑みをうかべた。彼女は、なんなのだろう、たとえるなら、うつくしく澄み渡った、あけわたされた、明け方の、あのくらがりの空のようなあたたかなかんじがする。だれの肺にも未だはいったことのない、浄化されきよらかになった酸素の透明感とか……しらみはじめた空の、きれいなグラデーションとか……その空にまだある、よるの名残の星々とか……そんなものの、かたまりのようなひと。

 いいのかしらいいのかしら―――、彼女と、わたしが、こんな。おはなしをして、言葉をかけあった、それはひとつのことばのはしですら、わたしにとっては奇跡のよう。

 彼女は、わたしの感動をよそに、あたらしくボードに文字を書き連ねている。年頃の少女にしてはすこしだけ、大人びたような細い字が、またわたしに差し出される。―――わたし、写真とかすきなんです。だから、うらやましいな。古そうだけど、誰かにもらったの?

 どことなく違和感をおぼえたのは、おそらく、あまりこえではうまく話せない彼女が、文字をすべらせているからなのだろう。文字では、ひどく舌のまわるかんじがする。彼女は、いつから、そして、いつも、こうやってひとびととコミュニケーションをとっているのだろうか。なんとなく、かなしくなる。彼女が、やわらかく、ひかえめに、静謐なことばをぽつりと落とすあのかんじが、わたしはたまらなく好きだったので。

「ええ。……祖父がむかし持っていたもので……」

 わたしのすこしの落胆に彼女は気づくべくもなく、またにこりと笑う。それがわたしのこころのこいに、ちいさな水をあたえて、その落胆すらも忘れさせる。

 ―――いつもここで写真を撮ってるの?

 どきり、と、すこしまえにおさまったはげしい鼓動が、ふたたび繰り返すきざしをみせる。……彼女は、自分を撮られたことを分かっているのだろうか。だとするなら……だと、するなら、この問いかけは尋問のつもりなのだろうか。

 わたしの咽喉は、かわきすぎて、はりついてしまって、声がうまくでない。





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