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 彼女は、転校生だった。

 群青色のなかにたったひとつのイレギュラー、彼女のセーラー服は群青ではなくしろだったので。その浮いた白は転校生、という価値もついて、それはそれはたいそうな高値であるうえに、彼女はひどくうつくしい顔をしていた。たまごのようにつるりとした輪郭と、うすい茶色の少し細いひとみに、通った鼻筋、あかいくちびる、染まることを知らぬ黒の髪、そう、まるで、まるで白雪姫のよう。彼女が壇上にあがったら、彼らは一斉に顔をあげたし、彼女たちもまた、その反応につられて彼女を見た。そうして、そのうつくしさに、ただ感嘆するのだ。ひがみや、ねたみや、そんなきたないものは、どこかにおきわすれたふりをして。

 彼女は、透き通るような、とうめいの声をしていた。だから、とうめいだから、誰の耳にもとどかなかった。鼓膜をうつそのとうめいは、あまりにもとうめいになりすぎて、鼓膜をすりぬけてしまったのだろう。転校初日のあいさつで、口を開け閉めするだけの彼女は、誰にも其の声をすくわれず、教師にまで、そう、教師にまで、こえのでない病気なのだと言われてしまっていた。

 しかし、わたしはたしかに、其の声をきいたのだ。


(如月、です、きさらぎ、きさらぎなみです、……)


***


 そのあまりのうつくしさに、転校生という価値も、きれいなこ、という価値も、夏休みを目前にひかえたいまでさえついてまわっているようで、……もちろん、こえのでないこ、というものも。

 そのせいか、彼女にはなしかけるやからはおらず、たまに学級委員が連絡事項をつたえる以外は、彼女の席のまわりにはぽっかりと空白ができていた。ふつうなら、おそらく、彼女を、おおくのひとがかこっているものだろう。真ん中には彼女がいて、楽しそうに笑い、あのうつくしい顔は笑みでみちたり、そのうつくしさに、まわりが微笑むという、そんなしあわせな図式があるはずだ。それに、彼女のこえはうつくしくすきとおっているのだから、きっとみんながそのこえをきけば、耳をすませて、彼女のうたをきくはずだろう。しかし、彼女の笑みはひろがりをみせず、こえはでず、誰にもこえが聞こえないために、彼女はいつもこぶりのホワイトボードを手にしているのだった。

 わたしはそんな、彼女の境遇を、ひどく、もったいないと思い、且つ、ひどく残念に思うのだった。だって、彼女のこえは、あんなにもきれいで、そして、まだ見たことは無いけれど、きっと笑うときれいなんだろうと思うから。それに気がついたらきっと、この狭い二年一組という空間にいるみんなは、ただひとつのしろの、そのうつくしさにこころがやすらぐだろうと―――だって、人間は、うつくしいものがすき、なのであるから、そう、思うのだ。狭いなかで、ぎしぎしとひしめきあって、知能が格好がと、他人を蹴落とすことばかりをかんがえなくてもよくなるだろう。人間は、うつくしいものを、ただうつくしいだけで愛してしまうのだから。

 わたしは、いつも、そんなことを思いながら―――彼女が転校してきてから、だが、そんなことを思いながら、まいにちを過ごしている。

 あの狭い空間で、ぎしぎしとひしめきあうなか、彼女はわたしのゆいいつのすくいなのだ。たとえば、たまに彼女がとうめいのこえでうたう、はなうただとか……クラスメイトの誰かが冗談をいいあっているのを、ほほえましげに見るあのやわらかなまなざしだとか……ああ、きれいだなあ、と、単純にわたしはそう思って、ふせられた長いまつげが影を落とすうすい微笑みに、何度もこころのなかでシャッターを切る、または録音するのだ。おかげで、わたしのなかにある彼女のコレクションはかなりのものになっていて、それがもし、この世界に物質化するとするなら、本棚半分は余裕でうまると思う。

 そのコレクションを、わたしは昼休みに、トイレの中で過ごしながら、あたまのなかで何度もながめる。これは、習慣といっていい。あの空間にいると息が詰まるから、わたしは彼女が転校してくる前から、ずっと休み時間はトイレで過ごすことにしている。ひとの声が、顔が、音が、ひしめきあっているあの空間で過ごすことは、わたしにとって非常な苦痛であり、彼女のコレクションをながめるには、聊かそぐわないからだった。

 そして、今日も今日とて、わたしは紙パックのカフェオレと、やきそばパンを手に、人気のない、ひっそりとした職員玄関近くの一階のトイレにしのびこんだ。時間をやりすごすのは、いつも、いちばん奥にある洋式の、すこしひろい個室で、便器のふたをおいたあと、そのうえに座って、まずカフェオレのストローをぶっさす、それからパンを口に運ぶ。食べおわったら、いや、食べながらも、彼女の今日の様子をふりかえり、何度もそのうつくしさにうっとりとする。

 今日は、彼女は、いや今日もとてもうつくしく、あまり笑うことは無いのだが、三時間目の国語の授業のとき、教師のなにげない脱線話に、ひとつ笑ったのがいちばんのできごとだろう。あかいくちびるが、ゆるやかにのび、目が細められ、頬がすこし赤らんで、そのまま笑っていればいいのにと思ったときにはもう彼女はひかえめに表情を消していた。そのひかえめな感じも、彼女らしく、彼女らしい愛らしさだった。

 ほう、といつのまにかためいきがでていて、わたしは、そっと壁にしきつめられたタイルに手をのばす。案の定タイルはつめたく、ピンク色の、きれいにみがきあげられたそれに映る自分の顔を、彼女の顔にみたて、すこしだけ、くちづけを落とす。ああ、あのこは、なんて。

 タイルに映るのはたしかに自分なのだけれど、あのこはきっと、おそらく、こうやってくちづけたら、真っ白い頬にすこし、赤みをさすのだろう。そして、ひかえめにくちびるをかみしめて、頬に手をやって、きっと、小さく笑う。それはきっと、きっと……、世界中の、誰よりもうつくしい、少女なのだろう。

 そんなうそっぱちのくちづけを、何度もおかしては、まいにち、わたしはその顔に焦がれ、タイルにへばりつく。冷たいタイルは温度をうつしてすこしぬるくなり、わたしはそれを何度も経験している。

 だって、彼女がうつくしいのだ、うつくしくて、いとしくてたまらない。これを、こいとひとは呼ぶらしく、わたしは、そう、彼女にこいをしている。それもまるで、ちいさなこどもの、ひとみしりみたいな、幼稚でつたないちいさなこいだ。彼女がわたしのことだけを見る、なんてことまでは想像しない。ただ、ただ。ただ……彼女の、笑顔が、偶然にも―――そう、偶然、こちらに向けられるだけで、それだけで―――、わたしは、それだけでこころがやすらかに、そして、ひどく恋焦がれ、うちのめされ、きっとおそらくはあまりのこいに、しんでしまうんじゃないかしら、とひそかに恐れているのだった。


***


 夕方の教室はひどく静かだ。

 ひとときの喧騒もささやきも、すべてがしずまりかえり、音が無く、うすくらいのばかりが広がって、影が伸び、やがて影ばかりになってしまう。わたしは、明け方に似たそれがすきで、あのうすくらいのが広がり、けれどもちいさなひかりが見え隠れているのがすきで、ついついおそい時間まで学校で過ごしてしまう。たいていは図書館で時間をつぶしたのちに、教室を見に行くのだけれど。そしてたいていは、わたしは、カメラをぶらさげているのだった。

 そのカメラは、だいぶまえになくなった祖父の、若いころのカメラで、もうずいぶん古びているし、旧式でわざわざ写真屋さんまで現像しなくてはいけないのだけれど、わたしはこのカメラをひどく気に入っていた。祖父がなくなったときに、わざわざ親戚にいってこのカメラをもらったほどだ。黒いフォルムに細かな傷、その傷のあいだにこびりついた汚れ、くたくたになったケース、これらすべては、ふるくからのなにがしかを伝えてきて、それがとても気に入っているのだ。祖父は若いころ満州にいた。その時代のにおいも、気に入っている。

 そして、わたしはそのカメラで、よく夕方の教室の雰囲気を切り取っていた。いちまつ模様にくみこまれた木材の床に、うすく長くのびる、机のかげや……、もうほとんどくらくなった空の下らへん、むこうのむこうにみえる街燈のひかりや……、黒から橙のグラデーション……、など、夕方の、そのにおいが、なによりもうつくしいと思えるからだった。

 リノリウムの階段をのぼり、ひたひたとわたしの靴音だけが聞こえる。しずかに、しずかに……だれにいわれたわけではないのに、ひそやかに、わたしは教室への道をゆく。たまに、そとから運動部のおわりのあいさつなんかが聞こえるの以外、音はほんとうになくって、それがさらにわたしの足をひそやかにさせるのだった。

 がらりとした教室をいくつもすぎさると、三階のすみにある二年一組のプレートが見えた。その前に立つ、うすくらいのが、影がひろがるうつくしい景色が広がっている、しかし、わたしの手はシャッターを切らない。いや、きれない。

 あれは。

 わたしは、いま、教室の開け放たれたドアの前で、カメラを手に、ただぼうぜんとたちつくす。

 ―――あれは、あれ、は。

 あいする景色の、そこには、しろいセーラー服。

 ―――彼女だ。

 くらやみのなかに、ぽつんとうかぶそのしろ。それは、正反対の色合い、しかししろはくらやみにすこしだけ負けて、ほんのりくらみをおびている。

 腰までとどくかという黒い髪は、かすかなひかりにつややかに輝いている。細いからだはそのままくらいのにのみこまれそう。つくえの上、窓のほうに向いて座った彼女は、なにをみているのか、うしろのわたしに気づくべくもない。

 だから、わたしは。


 ―――わたし、は。


 ……気づいたら、わたしはもうすでにその風景を切り取ってしまっていた。いつものように、こころのなかにしまっていた彼女のしろを、―――ただ、撮りたくて。あたまのなかでは、もう、……ものたりなくて。

 音の無い空間、シャッターのまわる大きな音がいま、わたしの頭の中をぐるぐると旋回している(じいい、かしゃ、じいい、かしゃ、じいい、かしゃ……)。

 彼女の黒い髪がゆったりと揺れた。それから、肩が、しろ、が。

 あのひとみしりのちいさなこどものこいが、いま、わたしのこころをひどく不安定に歩いている。




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