検察審査会の人々7
「そういえば、直純君、旅行に行きたいって?」
有馬さんの家に来た本題をやっと聞く事が出来た。
「そうだ、どこに行くか決めたか? プランは高山君に考えてもらう事になったから、二人で相談して報告してくれるか?」
「ん? なんで高山さん?」
直純君の頭の上に『?』が出ている。
「俺、あちこち旅をするのが趣味で、穴場とかけっこう知ってるんだ。就職も有馬さんがいる会社って決めていてね。で、今日知り合った君のお父さんが部長だって聞いて就職試験を兼ねて旅行プランを作成することになったんだ」
「へー。そうなんだ。……えーとォ」
直純君の目が輝く。
「海外はムリだから」
有馬さんが先手を打った。
「え、なんで?」
出鼻をくじかれて不満な目つきになった。
「年末年始でそんな時間はない」
「現実的な答えですね」
「行ってみたかったな……」
「どこ?」
「ラスベガス」
「行けたとしても、何するの?」
「もちろんカジノ」
当たり前の様に入ってくれているけど、彼は本当に天然なのかも?
「あー、一応言っておくけど。調べて知っているなら構わないんだけどさ? 直純君はカジノできないよ? 年齢制限があって、二十一歳にならないとそもそも入場もできないし」
「……え? あれ? そうなの? 知らなかった!」
ああ、天然な人か。
本当に、素直にびっくりしているね。
「普通は調べるだろう? 何故自分が行きたいと思っている場所を調べない? よく九条高校に入れたな……」
父親の有馬さんが項垂れている。
おお、人事部長が落ち込む姿なんて、俺が見ても良いものなのだろうか……?
「高校生がカジノなんてやっていいと本気で思っているのか?」
有馬さんが顔をしかめる。
「まぁ、確かに面白かったよ。賑やかだったし、初めてやってみたら資金が四倍になったけど。
酔っ払った知り合いのお姉さんに連れていかれて「チップ一枚あげるからどこに置く?」って渡されて適当に置いたら当たっただけで、当てようなんて思ってもなくて。
ビギナーズラックは誰にでもあるわけではないし、俺の金でもないし実力でもなかったと思っているから賭け事にのめり込むことにはならなくて済んでてさ。
だからと言って俺も高校生に賭博をさせるわけにはいかないからラスベガスは反対だ。
他に行きたいところは?
国内でも良い所はいくらでもあるよ」
「うーん。日本で? 考えてなかったから……時間くれますか?」
直純君はカジノが出来ないと分かってくれて諦めてくれたようだ。
「それは構わないよ」
ラスベガスを諦めてくれただけでホッとした。
「冬休みに行きたいんだけど、てっきり外に行けるんだって思ってたから、それならカジノで大儲けだって考えたんだけど……。来週までの宿題にしても良いですか?」
「うん、良いよ。でも、決まったらいつでも連絡して良いからね」
これで有馬さんの家での用件は終わりだな。
いつまでもお邪魔しては悪いと思って、俺は腰を上げる。
「それじゃ、俺はこれで失礼します」
一週間後、裁判所内の検察審査会では、出席者は二郡三郡合わせて十三名だった。
時間通りに始まって、手順通りに進められていく。
会長の向井さんの手元に薄い冊子があって、赤いマル秘のハンコが捺されているマニュアルを基にしていた。
今日の議決の内容は傷害事件とのこと。
「申し立て、第二百十号、傷害事件の審査会を開きます。まず始めに除斥事由の有無を確認します。事務局から被疑者の住所・職業・氏名・生年月日を朗読してください」
「はい。被疑者、大阪府松栄町二丁目三の五・会社員・鈴木正治・昭和五十年十月七日生まれです」
今日は女性職員が担当してくれる。
「今、読み上げてもらった被疑者との間に身分的関係のある方はいませんか?」
向井会長が審査員たちに問いかけるが誰も返事がない。
関係者はいないので次に進む。
「除斥事由のある方もいないようですので、臨時審査員の選定をします。事務局お願いします」
事務局が本日欠席している審査員の代わりに審査する補充員を選出する。
「それでは、審査申し立てに至るまでの経過の説明と、本件の罪名と罰状の解説をお願いします」
事務局の職員から不起訴処分の裁定主文の説明・被疑事実の要旨・不起訴処分の理由・不起訴処分を不当だと考えた理由を事件記録で朗読してもらう。
配布してくれた記録のコピーを見ながら女性職員の波野さんから調書・図面・略図・資料の読み方をかみ砕いて教えてもらった。
簡単にいえば今回の事件は、ほろ酔いでの帰宅途中で飲み屋で意気投合した二人の男が口論になり、手が出た出てないのもみ合いから転倒したという事案。
「事務局、最後に本件事件関係人の供述調書を朗読してください」
一通りの事件全体の説明を聞き終わると、審査員たちの混乱しそうになっている頭の中を整理するために、二十分の休憩を取る事になった。
気分転換に裁判所の外に出る人もいたし(喫煙できないからね)、飲み物を貰ったり、トイレに行ったり、それぞれで気分を落ち着かせている。
俺も大きなため息をつきながら椅子の背もたれに取り掛かりリラックスできそうな態勢を探す。
肩が凝りそうだ。
第一回目の審査会だから緊張している。
これで人の人生が変わるかもしれないのだから仕方ないのか。
俺の隣の副会長席の有馬さんは黙々と調書のコピーを睨み付けていた。
俺の視線に気が付いたのか、有馬さんは顔を上げて「なにか?」と目だけで尋ねてきた。
「変な調子でもありましたか?」
すると、ふっと真剣な顔を緩めた彼は、どこか昔を思い出すような表情になった。
「いえ、久しぶりに記録を目に通してみると懐かしくなってね。本物の記録はどこにあるのかな」
「えーと……。今は会長と副会長が二人仲良く読んでますね」
「……二人仲良く?」
「はい。あそこ」
職員用の末席に置かれている記録は審査員も補充員も自由にみられるようになっている。
「あの二人、ここが縁で付き合ってたりして……なんて思ったんで」
こっそりと、先週のエレベーターホールでの話し方や今の雰囲気を小声で有馬さんに報告すると、有馬さんも釣られて小さな声で「そういわれるとそうなのかも?」と同意した。
「本物の記録は後で見せてもらおうかな」
「そうですね。その時は俺も…、僕も一緒に見せてもらっても良いですか?」
「もちろんだよ。それと、いつも『俺』って言っている人が、『僕』なんて言い慣れないんだから、もう俺でいいんじゃないか?」
やっぱりそうだよな、言い慣れてないの分かるよな……。
「あはは。そう言ってくれると有難いです……」
俺は破顔一笑していた。
「じゃあ気を遣わずにいつも喋っているようにしていこう」
「了解です」
そっと有馬さんに寄って審査員に選ばれてから思っていたことを打ち明けることにした。
「俺、興味があるんですよね。こんなことでもない限り、絶対に見られない書類でしょ? 不謹慎だけど、説明会の時からずっと思ってて」
「私も以前はそう思っていたんですよ。でも注意しておかないと、潰れた車や殴られた顔を見る事になるよ」
「え?」
「最悪だったのは死体の検分写真があってね……。カラー写真だと被害者のご遺体とご親族には申し訳ないけど気持ち悪くなってしまって、その日一日が落ち込んでしまったり夢に出てきてしまったよ。それからは必要な時以外は写真は見ないように気を付けていた」
フィクションなので被疑者の住所氏名は架空のものです。
実際の調書には、元号が記載されるし取り調べした警察官や検察官の名前も記録されます。
供述調書の最後には被疑者や証人の名前とハンコが捺され、ハンコを所持していない(だいたい用事がなければ持ち歩かない物です)から拇印が捺されていました。
今はどうなのかは分かりませんが、当時は警察から上がってくる供述調書は手書きがほとんどで、汚い文字(失礼)で読み取るのに時間がかかってイラッとしてました。
活字は稀でしたね。(今は警察官も書類作成はパソコンが主流ですかね)
縦書きの書類があれば横書きのものもあり、書類のサイズも一冊の記録でバラバラでしたが、今は横書きのA4サイズに揃えられてスッキリとなっていたと思います。
A4サイズ統一は海外からの影響だとか聞いたことがあります。