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一劫分の百年のひととき

作者: 大西洋子

「ああ! その布は、わたくしの物です」

展望台から海を眺める我が子の歓声を聞きながら、湧き上がるガスをカーテンを開けるように動かした腕に巻き付いたその布に、駆け寄るその女は、

「また、奪われなくてよかったです」

飛鳥時代の絵から抜け出たその姿に、ロープウェイに乗る前に見かけたイベントの参加者だろうと思った。

女は受け取った布を首に両腕にかけて、風もないのに布がふわりと膨らみ、その身体ごと空に浮かんだ。

「……天女……」

空から降りてきた天女が、水浴中に羽衣を奪われ、それを隠した者と夫婦、もしくは養女となったという伝承。その伝承のクライマックスを、目の当たりにするとは……

「あの、わたくし、以前ここを訪れた時とずいぶん様変わりしてしまって」

伝承では、羽衣を取り戻した天女は天に帰っていくのだが、この天女は地面に降り立ち話を続ける。

「ここにある温泉を愉しみに降りてきたのですが……」

「お姉ちゃん、これ、足湯っていうんだよ」

「こうやって温まるのよ」

息子と娘が足湯の仕方を教え、天女を真ん中に足湯を愉しみだした。

――袖振り合うも多生の縁――という言葉があるのだが、この場合、天女の羽衣と振り合うのも多少の縁。というべきだろうか。

「お姉ちゃん、前にここに来たことがあるって言っていたけれど、それはいつのことかわかる?」

「……そうですね」天女は険しい山を指差す。

「若い娘さん達が、あの峠を越えて、湖の側の大きな建物に向かっていく様を見ました」

明治の初めから大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工場へ、峠を越えて出稼ぎしに行った少女達のことを言っているに違いない。

「およそ百年前ですね。一劫の言葉の意味そのままだ」

「いっこう?」息子がたずねる。

「天女が百年に一度空から降りてきて、羽衣で巨岩を撫でる。それを繰り返し、岩がすり減ってなくなるまでを一劫というのだよ」

「まあ。わたくし達の休暇のひとときが、そのような言葉として語られていたのですね」

天女は足湯の中で足を静かに揺らしながら、息子の脱いだ靴下を手にした。

「その百年の間に、地上はかなり変わってしまっているようですね。お召し物一つとっても、それがわかります」

教師の目で見ても、この百年の世の中の変化は目まぐるしく感じる。

「あの、わたくし、天から与えられたこの休暇を、地上の見聞に費やすことにします。そのために、あなた達の知恵をお貸し願えますか?」



「とりあえず、あなたの服を着替えましょう。この服装だと目立ってしまいますからね」妻は自分の替えの服を彼女に着せることにした。

「お姉ちゃん、あれが車だよ。車に乗って遠くまで行くことができるんだよ」息子がはりきって車へ案内し、その車に乗る方法を教えたのだが、

「あの、どうもそれには乗れないみたいです」と、車の使用が不可能となり、

「レンタル自転車なら、乗れそう?」二輪は無理だったが、三輪仕様なら乗れて、

「一万円札、五千円札、千円札、五百円玉、百円玉十枚……」と、娘が支払いを受け持ち、天女にお金の種類と使い方をやって見せ、

「地図だよ。道がどう通っていて、どこにどんな建物があるか書いてあるんだよ。ねぇ、どこを見に行きたい?」地図を購入し、息子がうきうきしながらそれを広げる。

予定していた家族旅行の行程とは違う展開になっていくが、なあに、旅は道連れ世は情けだ。

「自転車は一列に並んで、基本的に左側走行だぞっ!」と、後ろを走る息子や娘に言い聞かせるように叫び、

「あれが小学校。六歳になると、小学校に通って勉強するんだ。お姉ちゃん、字、読めたり書いたりできる?」

「公衆電話だよ。パパ、使い方教えて!」

「パパ、学校宛にハガキを出すという宿題、今やっていい?」郵便局前で娘が思い出すようにいい、みんなでハガキを書き投函。気がつくと、陽はずいぶん西へ傾いていた。

「最後はこの町の図書館に行こう。図書館には古今東西、様々な書が集まる。その書で様々なことを学ぶといい」

もっと彼女に教えたい事がある。けれど、私達の休暇はあまりにも限られている。

「――旅行中、私達一家はふらり歩くあなたと会った。この辺りの出身のようだが、記憶を失っているようだ。――そういう筋で、図書館から自治体へとあなたの保護を願う。私の住所と電話番号を渡しておこう。それでよいかね?」

「はい、いろいろとありがとうございます」

こうして私達は天女と別れた。


そうして、子ども達の夏休みが終わろうとする頃、天女から近況を知らせる分厚い手紙が届いた。

どうやら、天女伝承が残るあの地で、一劫分の百年のひとときを、まだまだ続けているそうだ。



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