5 アレキサンダー
アレキサンダーはバスローブを着て、髪をタオルで乾かしている。
その正面で、ゼロは体をこわばらせて、椅子に座っている。
「そんなに固くならないで。俺、全然怒ってないよ」
シャンパンを呷ると、瞳を紫色に輝かせている。
「ねぇ、もっと見せてよ、さっきの力」
「え……」
ゼロは泥棒して逃げようとしていた現場を押さえられ、絶体絶命の気持ちでいたが、アレキサンダーは上機嫌だった。
ゼロが戸惑っていると、アレキサンダーは室内に設置された金庫にナンバーを入れて開けて、貴金属や金の棒、札束をドッサリと、持ってきた。
「うわ!?」
見たことのないお宝の山に、ゼロはガタッと椅子から落ちる。
「さぁ。これ全部、仕舞ってみてよ」
手を広げているアレキサンダーを、ゼロは唖然として見上げる。
「で、でも……」
「面倒なんだよね、ホテルの金庫って。街を移動するたびに、札束は銀行に預けないといけないしさ。財産を持ち歩くのは、ほんとメンドいんだ」
目を白黒させるゼロに、アレキサンダーは気づいた。
「あげるんじゃないよ? ゼロ君に、預けるんだよ?」
アレキサンダーはシャンパンをもうひとグラス、注ぐ。
「あのさ、俺たちコンビを組もうよ」
「コ、コンビ?」
「俺が詐欺師で、君が泥棒のコンビさ。俺の能力を見たでしょ? 俺の目は青から赤に変わって、人を洗脳する事ができるんだ」
ゼロは地下室で、自分の顔にハンカチが掛けられた理由を理解した。
「あの時、目が赤くなっていた?」
「君まで洗脳しちゃわないように、目を隠させてもらったよ」
ゼロは改めて状況を思い出して、ゾッとしていた。
女の汗と、飛び出しそうな眼球。震える瞳孔と奇妙な呼吸。追跡ができようが、人体を切断できようが、あんな風に眼力で操られたら、何もできない。しかも……。
「命令は全部、守られるの?」
「明日の朝、街を見てごらん。頭を丸めたマフィア達が、清掃をしているだろうね。俺の命令は絶対だ」
ゼロは滑稽な景色に恐怖が相まって、引きつり笑いをする。
「じゃあ、あの人達は能力も……」
「ああ。二度と使えない。俺の意思の強さと声の大きさは、洗脳期間に比例する。きっと一生、無理だろうね」
「えぇぇ……」
アレキサンダーの気分一つで、自分の能力も簡単に消されてしまうのだという恐怖で、ゼロはますます体が強張っていた。
「ああ、そんなに緊張しないで」
アレキサンダーはシャンパングラスをゼロに渡した。
「俺には自分に課してるルールがあってね。相手の運命を変えてしまうような洗脳は、クズみたいな悪党にしか使わないと、決めているんだ。現に、君にこうして力を使わずに交渉しているだろう?」
確かに、容易に済むはずの交渉を手間隙かけて口頭でしてくれている事に、ゼロは気づいていた。
「君はどうだい?」
「え?」
「善悪関係無く、物を盗んでいるね。君が盗みを働いた相手は、もしかしたらとても善人だったかもしれないし、盗んだ物はその人にとって大切な物だったかもしれないよ?」
ゼロはハッとした。考えないようにしていた部分を、明らかにされていた。
「そ、それは……確かに……でも……」
「これまで生きるのに精一杯だったんだよね? わかるよ。だけどこれからは、俺と組んで悪党だけをターゲットにするんだ。悪党から財産を巻き上げて、弱者を救う。君のような、泣いちゃいそうな子をね」
ゼロは衝撃を受けていた。人を操る恐ろしい力を持っていながら、あくまで自分の信条と正義に則って使う真摯な姿勢は、自分には思いもよらない考えだった。
ゼロは自分の力を自分の為だけに使い、多くの人々を傷つけたであろう事に、恥を感じていた。なんて自分勝手で、なんて残酷なんだろう。あの地下にいた猛獣達と、何が違うというんだろう。
ゼロは情けなさで、涙が滲んでいた。
「俺の全財産を君に預ける。コンビを組んで、気に入らなかったら、それを全て持って逃げていいよ。俺は君を洗脳しないし、どんな時も必ず助けると、約束する」
アレキサンダーが差し出すシャンパングラスを、ゼロは受け取った。
紫色の瞳は赤に近く輝いて、不思議な魅力を放っていた。命令ではないのに、どうしようもなく惹かれる引力を持っている。
「俺と君のコンビの誕生に、乾杯」
カチン、とグラスを合わせて、アレキサンダーはシャンパンを呷る。
ゼロは呆然としたままそれを真似て、頭が酔いでフワフワになった。あまりに自分に有利な条件で、抵抗する理由が見つからず、流れるようにコンビを組んでしまった。
「俺の事はアレキと呼んでよ。それから、君の名前だけど……」
アレキはジッとゼロの顔を見つめている。
「レオ。レオにしよう」
「レオ?」
「君の夜空のような黒髪は、ライオンの立髪だよ。世界のどこかに、黒くて美しいライオンがいるんだって。いつか見に行こうよ」
ゼロは素敵な名付けに、瞳が輝いた。あの自由になった夜に、星空の下で見た広場のライオン像を思い出していた。勇ましく、美しい姿だった。
「貴族のふりをする時は、ライオネルとでも名乗るといい」
「ライオネル……」
立派な響きに、ゼロは気圧される。
「でも僕、貴族じゃないのに」
「詐欺っていうのはね、上手に嘘を吐く事なんだ。俺の名前アレキサンダーも、自分で付けた名前だよ」
「そ、そうなんだ」
「家出して、俺は生まれ変わった。君も今夜、生まれ変わるんだ。一流の詐欺泥棒コンビ、レオとしてね」
アレキは楽しそうにハッピーバースデイと歌いながら、クルクルと踊っている。ゼロは酔いも回っておかしくなり、笑いがこみ上げた。「レオ」と名前を回想するたびに、勇ましくて美しい黒ライオンが夜空を駆けて、心がときめいていた。
「レオ。今日はもう遅い。ゆっくり眠るんだ。寝る子は育つからね」
キングサイズベッドは大きくて、アレキとレオが離れて寝ても、充分な広さがある。灯りを消すと、スイートルームは青い月光に照らされて、怪しげなムードになった。
さっきまで笑っていたレオだったが、また妙な緊張をしていた。
アレキサンダーは良い人だ。だけど本当に、下心は無いのだろうか?話が出来すぎていて、レオはどうしても、疑心暗鬼が拭えない。
だが、アレキは離れた場所で姿勢良く仰向けになって、穏やかに眠っているようだった。
レオは少しホッとして、アレキに背中を向けた。
シンとした夜の部屋でそっと目を瞑ると、いつものように悪夢の前兆が現れる。レオは眠るのが苦手だった。いつも悪夢にうなされて、恐怖や悲しみを感じて目覚める事が多いからだ。これまでの人生の殆どが悲惨で、夢が履修する記憶には、苦痛しかなかった。
いつものように静かに涙を流していると、眠っていたはずのアレキが近づいて、レオの背中にぴったりと、体を寄せていた。レオのお腹に手を回して、頭に顔を埋めている。
「……」
レオは心臓がバクバクとしていたが、アレキはそれ以上何もせず、静かに呼吸をしているだけだった。背中にアレキの体温と鼓動を感じて、不思議と安らかな気持ちになる。地下から助けてもらった時に感じた金色の雲のように、高貴な香りにほんのりと包まれていた。レオはこんなに人と密着して眠るのは初めてだったが、安心感から自然と心地よい眠気がやって来ていた。眠りに落ちる直前に、レオは無意識のうちに寝返りをうってアレキの胸に顔を埋め、そのまま夢の世界に堕ちていった。
フワフワのベッドに、温かな人肌に、良い香り。優しい太陽の光を瞼に感じて、レオは人生で初めて、幸福に包まれた朝を迎えていた。悪夢は覚えていない。一晩中、夜空をライオンになって駆けていた気がする。
そっと目を開けると、肩肘を付いてこちらを優しく見下ろしているアレキがいた。胸に手を回してしがみ付いているのは自分で、まるでコアラの赤ちゃんのようだ。レオは驚いて飛び退いた。
「おはよう、レオ」
「お……おはよう……ございます」
「ぐっすり眠れたようだね」
「……」
朝食のルームサービスがやって来て、豪華な皿が並んでいた。
スープにサラダとオムレツ、ベーコン、パンケーキに果物。
コアラの赤ちゃんが恥ずかしくて沈黙になっていたレオだったが、見た事の無い眩しい朝食に、また瞳が輝いていた。包帯を巻いていない左手でオムレツを手掴みしようとしたその時、アレキがそっと左手を掴んだ。
「ダメだよ。フォークを使うんだ」
レオは我に返って左手でフォークを持つと、オムレツに刺してかじり付いた。アレキはうんうん、と満足そうに頷いている。
「右手の怪我が治ったら、ナイフとフォークを使ったテーブルマナーを教えるからね。今日から、会話と文字の勉強も始めるよ」
レオは驚いて、オムレツから顔を上げた。
「勉強?」
「最低限の丁寧な会話と、手紙を書けるレベルの筆記力は必要だ。それを習得したら、歴史、地理、数学と科目を増やす」
「そ、そんなに!?」
レオは孤児院に生まれ育って、勉強という物をしたことがなかった。勿論、文字も書けないし、本も読めない。勉強と聞いただけで、何だか空恐ろしいような、難しいような抵抗感があった。
「俺とコンビを組むなら、最低条件だ。やりたくないかい?」
「や、やるけど……」
「やります、でしょ?」
「や、やります……」
レオに有利すぎると感じたコンビの条件は、今朝になって間違いだったと判明する。確かにアレキの言う通り、貴族のふりをして詐欺泥棒をするには、貴族らしい知性と品格が必要なはずなのだ。レオは急に自信が無くなっていた。
「でも……僕なんかが無理なんじゃ……孤児でバカなのに」
「孤児だけど、バカじゃないよ。君は利口だし、素質がある」
「本当に?」
「俺の目が信じられない?」
「し、信じるけど」
「信じます、でしょ?」
「信じます」
どんどん丸め込まれるのを感じていたが、レオは逆らう気になれなかった。アレキの優しくも強引な手口と、不思議な瞳の引力のせいもあるが、アレキの言う通り、自分の可能性を試してみたくなっていた。
夜空を駆けるライオンは朝日を浴びて、大きな希望に飛び込んでいた。