4 金色の雲
「ボスがいらっしゃいました!」
ドアの外で、早足のノック音と緊張した声が聞こえた。
金髪の男も、白髪の男も、悪魔のような女も、そして部屋にいる男たち全員が、一斉にドアの方向を見た。
ゼロだけがテーブルに張り付いたまま、宙に目を泳がせている。
圧迫して血流を止められた上で出血を続け、右手は完全に感覚を失っていた。一番衝撃を受けた中指の状態は、怖くて見れないほど熱く、脈を打っている。
全員が急いで振り返るほどのボスは、余程に恐ろしい奴なんだろう。これから自分はもっと酷い拷問を受けるのかもしれない。「死なんて生温い」と感じるほどの恐怖がこの世界にある現実を、ゼロは嫌と言うほど思い知らされていた。
盗んだ物を返せば済むという甘い考えが、または絶対にバレないという慢心が、どう後悔しても取り戻せない、最悪の結末を呼んでいた。
バーン!
とドアが開かれた後の、金髪男の第一声は、予想外の物だった。
「誰だ!?」
その直後に、大きく毅然とした声が室内に響いた。
「動くな」
その瞬間に、時が止まったように全員が動きを止めていた。
ゼロの指を締め上げていた白髪も、締め上げた状態のまま停止していた。
は、はぁ、は、はぁ。
と全員が息を荒く吐いて、静かな部屋は異様な空気になっていた。
バタン、とドアが閉まる音がして、ガチャリ。鍵がかかる音。
ゼロは何とか後ろを振り向こうと、頭を上げた。
正面にいる女が見えたが、異常な汗をかいて、目玉が飛び出すほどに見開いている。眼球が揺れて、ヒュウ、ヒュウ、と風船のような息をしている。
体を思い切り捻って後ろを向くが、こちらに向かって歩いてくる男の顔は見えない。だがその服には、見覚えがあった。金色の刺繍のジャケットに、宝石のブローチ。高価な指輪。そしてやっぱり、シャンパングラスを持っている。
カジノでぶつかった、貴族の仮面男だ。
ゼロの真後ろに立つと、男は「あぁ」と溜息を吐いた。
「拘束を解け」
シュルン!と布が擦れる音がして、ゼロを拘束していた指の、腕の、腹の白髪が一気に解かれた。ガタッとゼロは横に倒れて、そのまま体を支えられていた。男の顔を見上げようとすると、そっと優しく、ゼロの顔にハンカチが掛けられた。何も見えない中で、再び男の声が響く。
「全員、手を上げて壁に手を付けろ」
ザッと軍隊が一斉に動くような足音がして、バン、と手を着く音が聞こえる。
ゼロは混乱していた。
(この男は客ではなく、ボスでも無い? 何故、全員が命令を聞いて、何故、僕を助けるんだ?)
訳がわからなかった。
突然に、フワッと体が宙に浮いて、男に抱き上げられていた。ゼロは目を隠されたまま、「ハァ」ともう一度、男の溜息を聞く。上等なジャケットは肌触りが良くて、男の胸は高貴な良い香りがした。まるで金色の雲に乗っているように、ゼロは安らかな気持ちになっていた。
全員が壁に手を着く中、靴音を立てて進むと、ドアの鍵を開けて振り返る。
男はより大きな声を張り上げていた。
「お前ら、2度と子供をいじめるな! 全員頭を丸めて、毎朝街を清掃しろ!」
まるで教師みたいな命令をして、ドアに手を掛ける。それでも気が収まらないのか、もう一度、振り返る。
「今後能力の使用を、禁止する。悪魔共め」
バン、とドアを開けると、バーン!と乱暴に閉める音がして、ゼロはハンカチの下で息を潜めたまま、どこかへ運ばれていく。階段を登り、ヒヤリとした風が頬に当たり、馬車に乗ったかと思うと、すぐに車は走り出していた。
そこでようやく、ゼロはハンカチを顔から外してもらった。
自分は優しく抱えられたまま、男はこちらを見下ろしていた。豪華な馬車の中は薄暗いが、仮面をしていない男の、鮮やかなブルーグレーの髪が見える。そしてその瞳は、紫の宝石のように輝いていた。見た事のない美しい色の瞳にゼロは魅入って、言葉が出なかった。しかもその瞳は不思議なことに、紫から青色に移ろいでいる。
「もう大丈夫だよ」
優しい眼差しも労りの言葉も、生まれて初めて貰ったゼロは、無言のまま泣きじゃくった。
馬車は暫く走った後に、高級ホテルの入り口に着けた。男はゼロを抱いたまま、ホテルに入っていく。すぐにホテルの従業員が駆けつけてゼロを受け取ると、見たことの無いゴンドラのような物に乗って、上階へと上がっていった。
豪華な廊下を歩いて立派な扉を開くと、おそらくスイートルームであろう、広々とした部屋が現れた。ゼロはそのまま中央にあるキングサイズのベッドに寝かされた。
ホテルマンは男と何か会話をすると、颯爽と部屋から出て、扉が閉まった。
簡易的にハンカチで止血されたゼロの指は痛むが、流血は止まっていた。訳のわからない展開に戸惑って、安堵から再び妙な緊張が走っていた。
男は血の付いたジャケットを脱ぐと、無言のままブローチやリングを外して、こちらに近づいて来た。その瞳は真っ青で、紫色の欠片もない。ゼロは上半身を起こして、仰け反った。男がこちらに手を伸ばしていたからだ。
「可哀想に。痛かったね」
優しく頬を撫でて、肩を撫でて、更に近づくと、抱えるように頭を撫でる。その行動があまりに愛に満ちていたので、ゼロはどう受け止めていいのかわからずに、焦っていた。
ゼロは知っている。大人の男が、子供の男を愛でる性癖が存在すると。金で子供を買って遊ぶ金持ち……所謂、変態嗜好の貴族だ。
「ひっ……」
ゼロは新たな危機の中にいた。猛獣去って、また猛獣。しかも、優しいふりをした獣だ。
ゼロは咄嗟に左手からナイフを取り出して、男に向けていた。
「ち、近づくな! この変態貴族が!」
「えっ、あぶないよ~!」
男は予想外にビックリして後ろに飛び退くと、ナイフから目を逸らした。
「ちょっとちょっと、先端向けないで。俺、刃物とか苦手だから!」
手をバイバイするように振っている。
毅然とした迫力のある貴公子に見えたが、喋ってみると、女々しく子供っぽい。ゼロは拍子抜けして、ナイフを下ろした。
「お前、何の目的で僕を助けたんだ? 体が目的なのか?」
「体って……俺は女の子しか興味ないよ! だいたい、ロリコンでもないからね!?」
侮辱されたと言い張るように、ムキになっている。
「じゃあ、何か目的なんだよ!」
男はブスッと、いじけた顔をする。
「だって君、俺とぶつかった時に、助けてって、目で訴えてたじゃない。あんな顔見たら助けるでしょ、普通」
ゼロはカジノ部屋で男とぶつかった時の自分を思い出していた。
「あの時は……」
「泣いちゃいそうだったよ?」
「……」
ゼロは赤面して黙った。本当は素直に礼を言うべきなのはわかっていたが、あまりに普通でない出来事に、頭がパニックになっている。
「ふ、普通じゃない。あんな危険な場所で、あんな……命令して」
「君だって、普通じゃないよ。子供の癖にマフィアを相手に泥棒なんてさ。命知らずなの?」
「……」
沈黙の中、ノックが鳴った。
「あ、医者が来た。指をちゃんと診てもらいなさい」
男は扉を開けて医者を通すと、白衣を来た医者と看護師が入り、ゼロの指の診察が始まった。
治療を終えると、医者達は帰り、扉が閉じられた。
「良かったね、神経は無事だって。安静にしてれば元に戻るからね」
再び優しい言葉を掛けられて、ゼロは涙ぐんで頷いていた。指が2度と動かないのではないかという恐怖が、払拭されていた。
「あ、ありがとう……ございました」
男は嬉しそうにうんうん、と頷く。
「俺の名前はアレキサンダー。格好いいだろ?」
突然の、しかも自慢的な自己紹介に、ゼロは面食らう。
「少年君の名前は?」
「ぼ、僕は、ゼロ……」
「ゼロ? 変わった名前だね」
ゼロは自分の名前を忌み嫌っており、しかも他人に自己紹介するのは初めてだったので、気分が悪くなっていた。自嘲して続ける。
「空虚で、何にも無くなってしまう……孤児院のアル中に、そういう意味で付けられたんだ」
「そっか……」
アレキサンダーも凹んで俯く。
またノックが鳴っていた。
「ルームサービスが、来た!」
アレキサンダーは瞳を輝かせて、扉に走って行った。
まるで子供のような喜怒哀楽にゼロは着いて行けずに呆れるが、カートに積まれて入ってきたご馳走は、見た事の無い豪華絢爛さだった。ゼロの瞳も同じくらい輝いて、室内の陰鬱な空気が吹き飛んでいた。
ガツガツと、一心不乱にご馳走をかき込むゼロを、アレキサンダーは楽しそうに眺めている。
右手は包帯でグルグルなので、左手で肉を掴み、ケーキを毟り取り、葡萄酒を流し込み、それは豪快で、野生的な食事風景だった。
アレキサンダーはシャンパンを飲みながら、微笑む。
「いいねぇ、いい食べっぷりだねぇ。いっぱいお食べ」
その眼差しは愛に溢れていて、ゼロは手を止めた。まるで家族や恋人に向けるような愛だと、愛を知らないゼロにも伝わる。
ゴクリ、とご馳走を飲み込んだ。やっぱりそういう変態的な愛なのだと疑いがもたげて、それ以外に理由が考えられなかった。
「あの、食べないの?」
「俺はもう食べたの。これは全部、ゼロ君のだよ?」
アレキサンダーは立ち上がると、シャツのボタンを外した。
「俺はシャワーを浴びてくるから、ゆっくり食べててね」
ウィンクして、行ってしまった。
サァ、とゼロの血の気が下がる。
治療して、腹を満たした後に、やっぱり食う気なんだ。自分を……。
アレキサンダーがお育ちの良い優しい人なのはわかったが、その変態性を受け入れることは、ゼロにはどうしてもできなかった。
「やばい。ずらからないと……」
どんな童話も、黄泉の世界の飯を食ったら帰れないと、相場は決まっている。
ゼロは慌ててナプキンで口を拭って扉に向かおうとするが、ふと豪華な室内と、アレキサンダーの宝石や、高級な服が目に止まる。
「頂いていくか」
ゼロはすっかり泥棒の思考が身について、まるで習慣のように、踵を返してお宝に飛びついた。幸い、シャワーの音は長々と続いている。
宝石のブローチ、金のリング、高価な懐中時計……。
ひとつずつ、夢中で異次元の扉に仕舞っていくうちに、真後ろで声がした。
「へえ~、面白い能力だな!」
ギョッとして振り返ると、アレキサンダーがびしょ濡れの素裸のまま、感心した顔で覗き込んでいた。隠しもしない下半身を見たゼロは、叫び声を上げた。
「ふぎゃーー!」
「あははは、猫みたいな鳴き声!」
噛み合わないテンションだった。