3 打撃と突撃
「お前だ、来い!」
緊張が走る小部屋の中から、男は女の子の手を掴んで引きずり出していた。
「きゃあ!」
自分の頭を撫でてくれていた女の子は、地面を擦りながら外に連れて行かれる。
「待って!」
ロランは思わず泣きながら女の子にしがみ付いて、男は振り返った。
「あ? 何だ坊主。お前はまだここにいろ!」
「ま、待ってください、この子をどこに連れていくの?」
女の子は驚いてロランを見つめた。
男も唖然として、ロランの泣き顔を見下ろしている。
「買い手が見つかったからに決まってんだろ」
「か、買い手って……誰?」
男は面倒そうに小部屋の中に一歩進むと、ロランの頭を蹴り倒した。
「ぎゃっ……」
「うるせぇ! てめえは身代金の心配でもしてろ!!」
男は苛立っている。
「てめえの家にカラス便で身代金を要求したが、返って来やしねぇ。おめえは貴族の野郎どもに見捨てられたんだよ!」
ロランは驚きで目を見開いた。
無視……両親が自分の危機を無視するとは思いもよらず、ショックを受けていた。
(父様は今、出張なさっているから……きっとこれから用意して……)
父の厳しい顔が浮かぶ。
(いや、本当に呆れて、見捨てたのかも……)
愕然と肩を落とすロランから女の子を引き剥がして、男は乱暴に鉄の扉を閉めた。扉の向こうで女の子の泣き声が聞こえて、小部屋の中の子供たちも震えてすすり泣いていた。
ロランは頭から血を流しながらフラリと立ち上がって、鉄格子の窓から向こうを覗いた。
女の子はロープで縛られている。筋肉質な男と小太りの男が、2人で外出の用意をしているのが見える。
「ねぇ、待ってよ」
ロランの呟きは無視されて、女の子は小太りの男に連れられて、地上に出る階段を登っていった。
「待ってってば。ねえ!!」
鉄格子にしがみ付いて叫ぶロランを、コートを羽織った筋肉質の男が覗いた。間近でケタケタと、いやらしく笑っている。
「貴族の餓鬼が一丁前に、ヒーロー気取りか?」
おちょくる男は楽しそうにロランの顔を眺めていたが、まるで青い瞳に引き込まれるように、ジッと見つめて動かなくなった。
ロランの瞳は青色が移ろいで、紫色に変わっていった。
それは何とも美しく不思議な変化で、男は無言のまま魅入っていた。
「おい?」
階段を登り始めていた小太りの男は、仲間が鉄の扉の前から微動だにしない様子を訝しがり、女の子を連れたまま、こちらを振り向いた。
ロランはかすれた声で呟く。
「ここを開けて」
鉄格子の向こうの筋肉質の男は何も答えずに、ベルトに下がった鍵の束を手に取ると、ガチャリと音をたてて、扉の鍵を開けた。
ギィ、と軋む扉の向こうから血だらけのロランが出て来るが、男はやはり無言のまま、呆然と立ち尽くしていた。
ロランの瞳は紫色から赤色に、さらに色を変えていた。
真っ赤な瞳で男を見上げて、毅然とした声で命令を下した。
「自分を殴れ」
言葉の直後にゴシャッ、と衝撃音が鳴って、男は自分の拳で自分の顔面の真ん中を殴っていた。
「もっとだ。僕にしたみたいに……沢山殴れよ!」
ロランに怒鳴られて、男は2発、3発と、左右の頬を激しく殴った。
「おい、何やってんだ!?」
階段上にいた小太りの男は意味がわからない光景に慌てて、女の子を投げ捨ててこちらに走って来た。
「やめろ!いったい何を……」
仲間の手を止めようと必死で抑えるが、筋肉質な男は渾身の力で己の顔面を殴り続けた。異様な光景に小太りの男も、地面にへたり込んだ女の子も、小部屋から外に顔を出した子供たちも、全員が蒼白になっていた。
ゴシャ!グシャ!ドガ!
衝撃音は連続で鳴って、壁や床に血飛沫が飛んでいく。男の顔はめり込んだように形が変わって、血を噴き出していた。
「キャーーッ!!」
あまりの恐怖に女の子は叫び出し、一向に止まらない自己破壊に、止めていた男も体を震わせて、ロランを振り返った。
「お、お前か? お前が?」
ロランを凝視する小太りの男は、赤い瞳に吸い込まれるようにロランに近寄り、首を締めようと突進した。
「止まれ」
ロランの言葉に男は金縛りにあったように脚を止めると、息を荒く吐いて、大量の脂汗をかいていた。瞳孔が小刻みに揺れている。
ロランは壁を指差す。
「壁に突進しろ。ぶっ壊れるまで、突撃しろ!」
小太りの男はロランの前を駆け抜けて、その向こう側にある壁に突撃した。地下全体が揺れるような勢いで頭からぶつかり、血が噴き出すが、2度、3度、と鈍い音を立てて、何度も突進を繰り返している。
まるで壊れた玩具が2体、大暴れしている奇妙な状況に、子供たち全員が泣き叫んでいた。
打撃男は気絶して、床に倒れて血溜りを作っている。
壁打ち男は意識朦朧として、最後はコツン、コツン、と弱々しく突撃した後、重い音を立てて崩れ落ちた。
地下室は急に静かになって、子供たちの激しい息遣いだけが聞こえる。
ロランは赤い瞳のまま、床に倒れた野蛮人を見下ろしていた。
(ああ、こういう事か。動物を支配下に置くという感覚は、こういう事なんだ。)
ロランの心は不思議な程静かで、何の感情も湧いていなかった。
その時、階段上の扉が轟音をたてて吹っ飛んで、大きな何かが地下室に飛び込んで来た。
巨大な銀色の狼が、野蛮人の最後の一人……丸眼鏡の男を口に咥えて、唸りながら着地していた。狼の上に乗っているのは、兄アベルだ。
「ロラン! 無事か!?」
ロランはアベルを呆然と見上げた。
その瞳はもとの、澄んだ青い色に戻っていた。
♢ ♢ ♢
ロランの父は知らせを受けて、出張から急遽、城に戻っていた。
ロランは両親と兄との家族会議で長時間拘束された後に、やっと解放された。
包帯と痣だらけのロランは満身創痍だ。ゾンビのように長い廊下をフラフラと歩く姿を、メイド達は困惑した顔で遠巻きに眺めた。
「ロラン!」
涙声の絶叫が響いて、ロランの胸にシャルロットが飛び込んでいた。
「ロラン、ロラン! ごめんなさい! 私があんなふざけた事をしたせいで……」
シャルロットは泣き叫んでロランにしがみついている。
「いたた。痛いよ、シャルロット」
「お父様に私のせいだって、言ったの! 叱るなら私を叱ってって……」
ロランの父はお怒りだった。
情けない女装の姿で街に出た事。不甲斐なく誘拐された事。兄がロランの匂いを辿って地下に辿り着くまで、無力であった事。
事件は人身売買の犯人同士が仲間割れを起こして自滅した、という結論で片付いていた。その後子供たちも然るべき施設に保護されたらしい。
ロランは首を振る。
「僕が全部悪いんだ。ピノから落ちてゲームに負けたのも、誘拐されてみんなに迷惑かけたのも……」
「そんな……」
「ごめん、シャルロット。今日は疲れてるから、休むね」
ロランは抜け殻のようにシャルロットから離れて、自室に行ってしまった。
暗い部屋の明かりも点けずに、ロランはベッドに倒れ込む。
頭の中はパニックで真っ白になり、思考が停止していた。
自分が人間を支配下に置いて、あんな酷い行いをしたなどと言い出せず、両親とアベルに隠し通した。
動物調教の能力が人間に使えるだなんて、聞いた事が無かった。このジェラール家が持つ力は動物にだけ通用する、特殊な能力のはずだ。
ロランはふらりと大きな鏡の前に立つと、月明かりで自分の顔を眺めた。あの時……男達に命令を下した自分を思い出して、自身の瞳を凝視した。
相手を「支配してやる」という絶対的な気持ち。
そして射抜くような眼力が意識に重なった時……。
鏡に映るロランの青い瞳は、急激に紫色に変化し、そして燃え上がる赤い恒星のように、強く発光した。
我に返ったロランは慌てて鏡から顔を背けて、荒い息を吐いた。
「な、何だこれ……目の色が変わった……」
こんな現象は父にも、兄にも、ムスタファにも、見た事が無い。動物を調教するのは声であり、その者の威厳のオーラであり、匂いなのだと教わった。瞳の色を変えて人間を操作するなんて、まるで別次元の能力に思える。
ロランはベッドに潜ると、枕に顔を押し付けて恐怖と戦った。
今日のどんな暴力よりも、どんな叱責よりも、自身の能力に恐れ慄いていた。
自分が下した命令は打撃と突撃を起こし、相手の人体を徹底的に破壊した。まるで自分の中に悪魔が芽生えたような感覚は、ロランをどこまでも恐怖に追いやった。




