21 ガレ場の温度
「し、師匠、あれは……」
レオは山の向こうで蠢く大きな物体を凝視するが、それがいったい何なのか、濃霧でぼんやりとして見えない。アレキは踵を返して、レオの肩を押した。
「走れ!」
レオはそのシビアな声につられるように走り、来た道を戻る。後ろで岩が擦れる音と、大きな悲鳴が聞こえた。
「ギャヒーッ!」
レオはその断末魔を振り返った。
「山羊が!!」
「振り返るな! 走れ!」
アレキに頭を掴まれて、レオは血の気が下がる体を無理矢理走らせた。振り向いて一瞬見えた光景は、恐ろしい物だった。自分達の2倍はある大きさの山羊が空中でもがき、それはもっと巨大な生物の口に、挟まれていた。
(山羊が食べられた! 食べたのは、巨大な魔獣だ!)
レオは無言のまま、脳内で叫んだ。同時に、船上で好奇心から大きな魔獣を見たいなどと思った自分の軽薄さを後悔していた。人間など一捻りであろう巨躯が、どれほどの恐怖と絶望を与えるかなどと、想像が及ばなかった。
背後で地響きと木が倒れる音が聞こえる。魔獣が追いかけて来ていると感じて、レオは全力で走った。と、気付いた時には地面が無く、自分は宙に浮いていた。いつの間にか崖の端を越えて走っていた。アレキに首のフードを掴まれて、空中から地面に引き戻される。
「ひっ……」
魔獣と滑落の2重の恐怖で足が縺れるレオを、アレキは半ば引きずるように岩場を駆け下りて、視界の悪い森に再び入ると、大きな岩の影にレオを抱えて隠れた。
ズズン、ズン……と、地響きが鳴る。2人を探しているのだろうか。
歩き回る音はやがて、少しずつ離れていった。
互いの激しい呼吸と雨音だけが聞こえて、魔獣の存在がまるで嘘だったかのような静寂が訪れた。
「し、師匠……山羊が……魔獣が」
混乱して涙目のレオを抱えたまま、アレキはまだ警戒して耳を澄ませている。
「レオ、剣を出せ」
「え?」
「早く!」
あの巨大な魔獣に剣などと、レオには素っ頓狂に感じられたが、アレキが切迫しているので慌てて従い、掌から剣を出した。レプリカでは無く、本物の剣だ。アレキは鞘から剣を抜くと、何も見え無い前方の濃霧に向かって、剣先を向けた。やがてレオにも、雨音に混ざって小さな足音が、こちらに向かっているのが分かった。
「それ以上近づくな」
アレキの警告に、足音は立ち止まった。
魔獣が去った後、新たな恐怖がレオを襲っていた。こんな状況下で、今度はいったい何がやって来たのか、頭が混乱している。
雨音の中、小さな声が聞こえてきた。
「ま、待ってくれ! 俺は人間だ!」
「それはわかってる」
アレキはレオを背に隠して、剣を突きつけたまま目を凝らした。雨が弱まり、濃霧がうっすらと晴れたタイミングで、両手を上げている男の姿が浮かび上がった。必死で剣を下ろしてもらおうと、訴えている。
「山羊が雷に驚いて、逃げちまったんだ! 道にも迷ってて……」
「この濃霧の中、音も立てない俺達の居処が、何故わかった?」
「……」
レオはハッとしていた。確かに、あの濃霧で自分達を見つけて、的確にこちらにやって来れるのは不自然だ。
アレキは続けて脅す。
「地面に伏せるんだ。俺が近づくまでに少しでも動いたら、斬るぞ」
男は怯えながら地面に膝を付き、言われた通りに伏せた。
それを確認するとアレキは男に近づいて、剣を下ろした。
霧が邪魔せずに洗脳術が使える距離に達したからだと、レオは理解した。
「顔を上げて」
素直に顔を上げた男は、うっ、と声を詰まらせた。
離れた距離からでも、アレキが洗脳術を使っているとわかって、レオは好奇心からアレキの後ろに近づいて、男の近くに寄った。
「あっ!?」
レオは思わず声を上げる。洗脳術に掛けられてアレキの瞳を凝視する男の顔には、見覚えのある傷があった。
「この人……露天風呂で会った‥‥」
「ああ。レオ君は船上でも会ってるね?」
「は、はい。能力者だと言ってました」
アレキは毅然とした声で男に語りかけた。
「名前は?」
「ベ、ベイツ」
「ここへ何しに来た?」
「仕事で……食料を届けに、ガロさんの元へ」
「やっぱりガロか」
レオは自分達と同じ、頂に住むガロが目的だとわかって驚く。
「で、君の能力は?」
「お、俺は、生き物の居場所が温度でわかる」
「俺たちの温度を辿って来たって事?」
「ああ」
「OK、眠って」
アレキがパチン、と指を鳴らすと、ベイツは糸が切れた人形のように、顔面を地面に落とした。
レオがアレキを見上げると、紫の瞳に戻っている。
「師匠、この人は魔獣を倒せるって……」
「倒せるんじゃ無くて、居場所がわかるんだよ。だから魔獣を避けて、安全なルートで登山ができるんだろうね」
「なるほど……」
アレキは剣をレオに渡すと、男を引きずり、大岩の元へ持ってきた。
「倒せなくても、居場所が分かるのは便利だから利用させてもらおう」
レオはテントのセットを出して、タープを張った。雨風がしのげるだけで、随分寒さが和らぐ。
ベイツが眠りから目を覚ますと、アレキとレオは並んで紅茶を飲んでいた。
「う……ここは?」
「君、森の中で気絶してたよ」
アレキの嘘をすっかり信じて慌てて起き上がると、天井のタープを見上げている。
「助けてくださったんですね。ありがとうございます!」
「いえいえ。一緒にお風呂に入った仲じゃない」
ベイツはマジマジとアレキとレオの顔を見て、思い出したように目を丸くした。
「あの時の親子……?」
レオはベイツの様子を観察しながら、紅茶を淹れてベイツに渡した。
アレキに剣を向けられ、洗脳され、眠らされた一連を全て忘れている事は確かで、アレキがまるで人を化かす妖怪のように思える。
「ああ、生き返る……食料も飲料も全て山羊に乗せたまま、雷に驚いて逃げられちまって……死ぬかと思った」
「それは大変だったね。俺たちも魔獣に襲われて、山羊を失ったんだ」
ベイツはハッとしてアレキを見た。
「魔獣がこの山に!?」
「ああ。巨大な魔獣だ」
「この山には魔獣はいないはずなんだが……別の山から移動して来たのか? クソ、俺がいれば倒せたのに!」
アレキとレオは、顔を見合わせた。
「君、魔獣が倒せるの?」
「あ? ああ。俺は攻撃系の能力者だ」
手をワシッと力強く見せていて、困惑するレオはもう一度、アレキの顔を見た。
「へ~、それは頼もしいな。魔獣はおそらく、頂に向けて移動している。俺たちもガロの使いで来てるから、頂に向かう道中で魔獣に遭遇したら、君が倒してくれるね」
ベイツはチラリと、アレキの横にいるレオの顔を見る。
「だが、俺の力の衝撃は大きいからな……子供がいたら危険だ。できれば魔獣に遭遇しないに越したことはない」
「うん。レオ君が怪我をしたら困るよ」
ベイツは咳払いすると、キリッとした顔になった。
「ガロの元へ辿り着くまで、2人とも俺の指示に従う事。いいかい?」
「ああ。君に任せる」
「よし。そうと決まったら、頂を目指そう。ここから2時間ほどで辿り着くはずだ。その頃には夜も明ける」
アレキとレオはベイツに従ってテントを片付けると、リュックに入れるふりをして、レオの異次元の扉に仕舞った。
ベイツを先頭に、3人は暗闇の岩場を登り始めた。
レオはアレキに、小さな声で話しかけた。
「師匠、いいんですか? あの人に任せて。魔獣を倒せるだなんて、嘘を吐いてますけど」
「いいんだよ。こうなったら、何がなんでも遭遇しないようにしてくれるさ。とにかくガロのもとに辿り着けば、万々歳だ」
レオは不安な顔でベイツの背中を見た。
ベイツは感覚を研ぎ澄ませるように時々立ち止まり、慎重に登っていく。確かに、魔獣の位置を探りながらルートを選んでいるようで、迂回したり、森に隠れたりしながら、頂を目指した。
2時間ほど歩いて3人がヘトヘトになる頃、そろそろガロの邸宅が近づいて来た。
「おっ、ガロの家の近くだな。あの変な看板が目印だ」
アレキがレオに看板を指して見せる。ガビガビとした線のヘンテコな絵と、「ガロ」というサインの不気味な立札だ。
その時、ベイツが真顔で振り返った。
「ダメだ。まずい。戻ろう」
「えっ?」
ベイツは首を振って、アレキを押し戻している。
「戻ろうって、あともうちょっとで、ガロん家だよ?」
「そのガロさん家の近くに、魔獣がいるんだ!」
ベイツの顔は蒼白になっている。
「ベイツ君、落ち着いて。せっかくここまで来たんだし、もう大丈夫だよ」
アレキの謎の楽観に、ベイツは危機迫っていた。
「大丈夫じゃねえよ! 真っ赤なでかい塊が、頂に見えるんだ!」
レオは恐怖を感じながらも、ベイツは生物の温度を色で感じているのだと知って驚いた。
「ガロの温度はどうなってる?」
「人間のサイズの温度も、魔獣のすぐ近くにある! ガロさんはもうダメだ。家ごと潰される! 諦めろ!」
アレキが平常心のまま動かないので、ベイツは痺れを切らせて、一人岩場を飛び降りるように逃げ出した。
「あんたらバカか、逃げろってば!」
レオが焦ってアレキとベイツを見比べるうちに、アレキはレオの手を取って、最後の坂道を登り出した。
「レオ君、行くよ」
「師匠! 真っ赤な塊があるんですよ!?」
「大丈夫だよ。いいから、見に行こう」
レオはアレキの真意が読めないまま、しかし魔獣の姿をハッキリ見てみたいという好奇心も相まって、アレキに引っ張られるままに、坂道を登った。
大きな岩を上り切った後に見た光景は、信じられない物だった。
「よお~、アレキサンダー!」
頂の邸宅の前にはガロがいて、こちらに手を振っている。
そして邸宅の後ろには、巨大な魔獣が聳え立っていた。
それは山の景色と見間違うほどに大きな、灰色の毛に覆われた、二足歩行の化け物だった。顔が見えないほど毛むくじゃらだが、異様に細かい歯だけが、白く剥き出ている。魔獣はガロを見つけて、森を掻き分けて身を乗り出していた。
「ひっぎゃーー!!」
レオの叫び声が、頂に木霊した。




