2 異次元の扉
食パン、ロールパン、揚げパンに、ミートパイ……。
美味しそうなパンがずらりと並んで、甘い香りが漂っている。屋台のパン屋では人々が賑やかに買い物をし、大人に連れられた子供達は嬉しそうに、菓子パンをかじっていた。
グルル、とライオンが鳴いたように、ゼロのお腹が鳴る。
何も食べないまま広場のベンチで一晩眠り、朝になって町を徘徊し、町の井戸水を飲んで、またライオン像の広場に戻ってきた。
食べ物が落ちていないか一日中探したが、ゴミ漁りにも浮浪者の縄張りがあって、ゼロは近づくことさえ叶わなかった。
もう歩く力も無くなって、寒さとひもじさで、ライオン像の足元で横になる。
「自由になれたと思ったのに、自由じゃないや」
屋根の無い外でも縄張りがあって、弱肉強食の世界である事にゼロは失望していた。
ライオン像を見上げると、変わらず勇しく、こちらを見下ろしている。この世界の動物達は皆大きい。このライオンの像もまた、大きく逞しい造形だった。
「いっその事、動物だったら狩りができるのにな」
ライオンを羨ましく感じて、目を瞑る。
頬や頭に冷たい粒を感じて起き上がると、町には突然の雨が降っていた。人々が走って家路に急ぎ、店に入り、通りと広場は誰もいなくなった。
ゼロはだんだんと濡れて行くが、誰も助けず、気にも止めずに、無視して行ってしまう。浮浪児の存在など、珍しくも無いからだ。
ザーーー。
無機質な雨音を聞きながら、ゼロは広場に座り込んだままだった。
「ゼロか……このまま、まっさらに消えてしまえばいいのに」
自分か、世界か、そのどちらもなのか。
祝福されず、してくれない。
そんな優しく無い世界に、ゼロは憎しみが湧いていた。心の中に真っ暗な闇が浮かんで、全てが飲み込まれてしまうような感覚に陥っていた。
「僕が不気味で不吉な子供だから、お父さんとお母さんは、僕を捨てたのかな」
口にした言葉は自分の胸を抉って、涙が溢れていた。雨に紛れた大粒の涙は、止まない雨のように流れ続けた。
突然の雨で屋台を片付けたパン屋は、雨が弱まって、また開店の準備を始めた。
「ん? 何だ、お前」
屋台の前にびしょ濡れの子供が茫然と立って、並んだパンを見つめていた。
パン屋は舌打ちすると、シッ、シッと手を振る。
「浮浪児め、あっちへ行け! 商売の邪魔だ!」
雨の中で泣き続けたゼロは、疲労と空腹で朦朧として、明るい色のパンを見つめていた。その明るい色が手に入れば自分の全てが救われる気がして、手を伸ばしていた。
その時、目の前に真っ暗な闇が現れて、すぐに消えた。
そしてそこにあったはずのパンも、消えていた。
パン屋は血相を変えて、屋台の裏側から飛び出した。
「おい! お前! 今、パンを盗ったな!?」
我に返ったゼロは目を見開いて、首を振る。両手は空でパンには触れていなかった。
「と、盗っていません」
「嘘を吐け!」
パン屋は商品を振り返り、1つ足りないのを確認して、鬼の形相でこちらを睨む。窃盗を疑われるのはいつもの展開だが、ゼロにはもう言い返す力も逃げる気力も無くなっていた。
「出せ! パンをどこに隠した!」
パン屋は乱暴にゼロの服を引っ張り、ポケットを探り、しまいにはシャツを剥ぎ取っていたが、パンはどこにもなかった。
震えて涙目になっているゼロを見て、通りかかる婦人が顔を顰めている。
「子供相手に……」
「可哀想」
ヒソヒソと声が聞こえて、パン屋は慌ててシャツをゼロに返した。
「ま、紛らわしい! サッサとどこかへ行け!」
有耶無耶となってゼロは追い出され、トボトボとその場を離れて歩き出した。もうこの広場にはいられないと悟って、去り間際にライオンの像を見上げた。
「バイバイ」
フラフラとしばらく歩いた後に、誰もいない公園のベンチに座る。
町は夕方になって、そこかしこに、夕食の香りが漂っていた。
ゼロはベンチの上で、さっきの不思議な感覚を思い出していた。
パンに手を近づけたら、真っ暗な闇が現れた。
闇が消えたら、パンも消えた。パンはどこへ行った?
ゼロは両手をさっきと同じように、膝の上に翳してみる。
「パン……出ておいで」
呟いた直後にまたあの闇が現れて、ポトン、と膝に弾みを感じた。
「パンが……出た……」
膝の上には、あの明るい色のパンがある。
ゼロは幻を見ているようで信じられず、両手でパンに触れてみた。
少し硬い表面の、ザラザラとした質感。
押すと返ってくる弾力。
恐る恐る持ち上げて匂いを嗅ぐと、それは良い香りのパンだった。
頭がショートしたように、無我夢中でパンにかじり付いていた。大きくて重みのあるパンはあっという間にゼロに食べられて、今度こそ消えて無くなっていた。
お腹が満たされたゼロは、茫然として膝の上を見る。
パン屑が落ちていて、夢では無いとわかる。
「闇が現れて、パンを隠した。何だ、これ……」
ゆるりと立ち上がると、そこらへんに落ちている小石に、同じように手を翳してみる。するとまた真っ暗な闇が現れ、石を隠して、闇は消えた。
「出ておいで」
石を想像しながら手を翳すと、コロン、と音を立てて、闇は石を放り出した。
信じられない現象に、ゼロは両手をまじまじと眺める。特に何も変わったところは無い。異次元に繋がる扉は、自分の意思で現れ、開閉するようだった。
「これは……能力?」
孤児院の子供に、聞いた事がある。
外の世界には不思議な力を持つ者がいて、大抵は貴族であると。平民がその力を持っていたとしたら、その力を使ってやはり、貴族のように稼げるのだと。
だがその時に聞いた力は、電気を操るだとか、風を起こすだとか、生活に役立つ物ばかりだった。物を隠して盗む力だなんて、聞いた事がない。
そして、ゼロという名前の由来の、理由が付いていた。
赤ん坊の時に次々と物が無くなったのは、この力だったんだ。
ベッドに物を置くと、それは全てゼロに飲み込まれると言われていた。
「だから僕は泥棒だって……この力のせいで……」
孤児院の皆の、怒る顔や責める顔、侮蔑する顔が浮かぶ。
自分の両手を憎むべきなのか、恐れるべきなのか、それとも喜ぶべきなのかもわからず、涙が溢れていた。
袖で涙を拭うと、獣のような瞳で夜空を見上げた。
「この力を使って稼いでやる。僕は僕のために、生き抜いてやる」
まるで復讐を誓うように、星々に向かって宣言をした。
♢ ♢ ♢
次の日から、ゼロは実験も兼ねて、能力を使いまくった。
露店の果物、菓子屋のキャンディ、葡萄酒の瓶、パン、チーズ。食べたい物を食べたいだけ、闇に隠した。
公園のベンチに座って、一つずつ盗った物を思い浮かべ、膝の上に出していく。パンと果物、チーズに葡萄酒。生まれて初めてお腹いっぱいになった気がしていた。
だが、自分の服を見下ろして、その汚れように気づく。これでは商店にはとても入れないし、浮浪児丸出しで、屋台に近づくのも難しくなってきた。
「生きるためには食べ物だけじゃ無い。服もお金も、家だって必要なんだ」
7歳のゼロが一人で生きていくためには、途方も無く、物が必要だった。
公園の前を、親子が通っていく。買い物の袋を抱えたお母さんと、可愛らしいコートを着て、革のブーツを履いた小さな男の子。楽しそうに、はしゃいでいる。
ゼロは親子をじっと眺めて、いかに自分が「まともな子供」からかけ離れているかを実感した。
「お金だ……身なりをまともに装う、お金が必要だ」
それから夜は、徘徊をするようになった。
酒場の近くには、暗くなった道に酔い潰れた大人がいる。
彼らを介抱するふりをして、財布をスるのは簡単な事だった。財布の端に指先が重なれば、財布は容易く闇に飲み込まれていった。時々起き上がって暴力を振るわれる事もあったが、酔っ払いを振り切って逃げるのは楽勝だった。
集めた札束は軽く大人の月給分ほどになって、ゼロは笑いがこみ上げてきた。
「能力を使ってこれだけ稼げるんだ。ざまぁみろ。僕は一人だって、生きていくんだ」
誰も助けてくれない大人の社会と決別し、対立するようにゼロの中には敵対心が生まれていた。それと同時に盗みを働く行為は麻痺していき、罪悪感も無くなっていた。
そうして服を買い、商店に入り、盗みはエスカレートしていった。
金持ちから財布をスり、商人が置いた袋を置き引きし、泥棒の手口はより大胆に、スキルを上げていく。ある程度稼ぐと顔が割れないように隣の町に移り、町を渡りながら荒らしていった。
ゼロが9歳になる頃には場数を踏んで、手練のスリとなっていた。
昔のようにチマチマとパンや果物を盗らずに、豪華な馬車から降りる金持ちや、上等な服を着た商人を狙って、一度で多くの金を盗んだ。時には高価な貴金属や鞄を盗って、質屋に売り払う事もある。
その頃には、ゼロの顔つきはまるで別人のように、鋭い眼光と、人を獲物と見なす冷酷な顔をしていた。
異次元の扉の向こうに隠し持つのは、食べ物や金、貴金属だけでは無い。盗んだナイフや剣も持ち、いつでも暴力には暴力で返せるように、準備もしていた。武器を持った扉はゼロの万能感をより高め、何も怖いものが無いような気持ちにさせてくれた。
そうしてある夜に大きな金の匂いを嗅ぎつけて、狩りに大胆になったゼロは、秘密を持つ建物に興味を向けた。
昼は閉じたきりで看板も無いが、夜になるとこっそりと、毛皮や上等なドレス、貴金属を付けた男女がやって来ては、何時間も地下に閉じこもっているのだ。そして時折、大きなアタッシュケースを運び込むスーツの男がいる。
ゼロは遠くの建物の窓からオペラグラスで、その建物を観察している。
「あれはきっと、裏カジノだ。金持ちが集まって、賭けをしている。そしてあのスーツ男は従業員で、賭けに使う大金を運んでいるんだ」
オペラグラスから視線を外すと、ペロリと唇を舐めた。
「全部かっさらって、船に乗って遠出するんだ。もっと貴族が沢山いる街に出て、荒稼ぎしてやる」
ゼロの欲望は身の丈を超えて膨らんでいた。