11 さよならライオン
酒臭い大男は緊張して、白髪の頭を撫で付けて整えている。
古びた孤児院に突然訪れたのは、高貴な服を身に付けた見知らぬ貴族の男だった。その隣には、同じく身なりの良い子供が並んでいる。
「ど、どなたですかね……」
何かまずい事が起きたのかと、太った妻もオロオロとしている。
「突然お伺いしてしまい、すみません。私はアレキサンダー・オルドリッチ。この子はライオネルです」
男は豪華な帽子を取って挨拶すると、小さな子どもも丁寧に、貴族風の挨拶をしている。
アレキとレオは街の教会や孤児院、学校や病院などに寄付をして周り、最後にレオの育った孤児院にやって来ていた。
中に通れされた2人を、緊張の面持ちのまま夫婦は凝視している。ダイニングの向こうでは、子供たちが何事かと集合して覗き見していた。
「この子は今、ライオネルと名乗っていますが、この施設で育ったゼロです」
アレキの言葉に、大男は椅子を倒して立ち上がり、女は驚きで仰け反った。
「ゼロ!?」
覗いていた子ども達も、雪崩のようにダイニングにこぼれ落ちた。
まるで別人のゼロは、高貴な服に整った髪型をし、肌艶の良い、貴族の子供そのものだった。
しばらくの沈黙が流れた後、アレキは鞄から山のような札束を出すと、卓上に置いた。
「ひっ!?」
まるで怪物でも見たように夫婦は目を剥き出して、札束に釘付けになっていた。
「この子は私が養子として引き取りました。ここまで育ててくださったこの孤児院にお礼がしたいというレオ君の意思を尊重しまして、寄付をさせて頂きます」
大男は信じられない、という顔でレオをみる。
「ゼロ……何故……!?」
恨まれていると思っていた男は、まさかの恩返しに愕然とした様子だった。
レオは頭を下げた。
「僕の能力で皆を悲しませたり、困らせたりして、ごめんなさい。これまで育ててくださり、ありがとうございました」
口調もお坊っちゃまのように丁寧で、男は脱力したように椅子に座った。暑くもないのに、全身が汗だくになっていた。
「能力者……なのかい?」
女は狼狽しながら、レオを見つめている。
代わりにアレキが応えた。
「はい。この子は類稀な能力を持っています。幼い頃はコントロールする事が難しかったでしょう。これからはこの力を有意義に使えるよう、私が責任を持って教育をさせて頂きます」
女は圧倒されたように頷いて、それ以降、一言も喋らなかった。
アレキは席を立ち、男を手招きした。
「ご主人、少しいいですか?」
「えっ?」
「個人的にお話があります」
テーブルから少し離れた所で、全員に背を向けて2、3言葉を交わすと、男はその場で立ち尽くした。アレキは帽子を被るとレオに目配せした。
「レオ君。行こう」
レオは立ち上がり、全員に優美な挨拶をすると、施設を出て行った。最後まで誰も一言も、喋らなかった。
馬車に乗ったレオは、複雑な顔で小さくなっていく孤児院を見つめている。やがて視界から消えると、アレキを見上げた。
「あの男と、何を話してたんです?」
「お酒がまずくな~る、って呪文だよ」
レオは噴き出した。
「呪文じゃなくて、洗脳でしょ!?」
「酒をやめて、子どもを大切に、ってね。じゃないとあの金は、全部酒に呑まれてしまうから」
「確かに……」
レオはクスクスと笑っている。
馬車は街の中を走り続け、レオは目に焼き付けるように、景色をつぶさに眺めた。空腹で彷徨った貧民街、ライオンの像がある広場、食べ物を盗んだ商店街……どれも悲しい記憶だが、2度と見る事がないかもしれないと思うと、寂しさを感じていた。そしてこの街のどこかに、もしかしたら自分と血の繋がった両親がいたのかもしれないと考えると、涙が溢れていた。
涙を見せないように窓を見たまま、レオは元気な声でアレキに聞く。
「師匠。街を出たら、どこへ行くんですか?」
「隣町の港から、船に乗るよ」
「船!?」
レオは驚いて、振り返った。
「僕、船に乗るの初めてです!」
アレキは微笑んで、ハンカチでレオの涙と鼻水を拭った。
「レオ君には俺の世話を頼むよ」
「?」
その意味は、翌日に思い知る事になった。
♢ ♢ ♢
「わぁ~! 海だぁ~」
港町に辿り着くと、レオは朝日に輝く海を見渡して感動した。心地良い潮風と、カモメの鳴き声。波の音。レオは深呼吸して、アレキを振り返った。
「レオ。海を見るのも初めてか?」
「はい! 絵で見たことがあるだけです。それから、アレキサンダー航海記に書いてありました」
レオは本の内容を思い出して、ハッとする。
「海には恐ろしい生き物が沢山いて、船をひっくり返すって……」
「うん。海の猛獣が出没する場所には、船は立ち入れないんだ。だから船が渡れるのは、決まったルートで陸地の近くだよ」
「そうなんですね。良かった……巨大タコやイカに襲われたら、嫌ですから」
この世界は巨大動物と人間が共存していて、調教された動物は馬車や門番として人間のために働いてくれるが、野生の巨大動物は凶暴なので、人間の移動や流通の妨げとなっている。
乗船の際、手ぶらでは怪しいので、アレキはフェイクの旅行鞄を手に持った。アレキサンダー航海記が好きなはずなのに、どこか浮かない顔をして無口になっていた。
レオは停泊している船を見上げて興奮し、ひとりではしゃいでいる。
「こんな格好いい物に乗るなんて、凄いや。信じられない」
船に乗ってからも甲板から陸を見下ろし、端から端まで走り、船首を覗き込み、好奇心でいっぱいになっていた。船旅に出る大人達は微笑ましくレオを眺めているが、アレキは甲板のベンチに座って呆けている。
「師匠、師匠、出発しますよ! ほら!」
船はボーーッと汽笛を上げて、乗船している客は陸地に手を振っている。レオも誰も見送りがいないのに、大きく手を振った。
船が滑るように航海を始め、陸地が小さくなって行く。レオは寂しい気持ちを忘れて、楽しみと希望に満ちた眼差しで海を眺めた。
「はぁ~、船っていいですね。僕は海が好きです」
ベンチに座っているアレキのもとにご機嫌で駆けて行くと、アレキは借りてきた猫のように大人しい。
「師匠ったら、陸に手を振らないんですか? 海風が気持ちいいですよ?」
「うん……俺ね、船酔いが酷いの」
「え?」
レオは船が走り出してからしばらく経っても、心地良さしか感じられず、アレキの言っている意味がわからなかった。
「師匠……顔色が悪いです」
「船に乗るとこうなるの。だからレオ君がお世話してね、って言ったでしょ」
「えぇ? 航海士アレキサンダーなのに?」
「体質までフィクションの真似できないよ!!」
ヒスを起こし出したアレキを、レオは宥めて客室に向かった。
チケットに記された番号の部屋は、小さいがベッドやテーブルが備わっていて、丸い窓から海が一望できた。レオはこの小ささが船旅らしく気に入って、ベッドに座って眺め回した。
「わ~、船の旅、って感じですね!」
「はぁ~、ぎぼち悪いよぉ」
アレキは二日酔いのように、グロッキーになってベッドに潜った。誰よりもアレキサンダーの気持ちになりたいだろうに、体質的に楽しめない様子にレオは可哀想になっていた。
「師匠が気持ち悪い時に効く物を、僕はいっぱい持ってますからね」
レオはテーブルの上に掌を翳して、瓶詰めのミネラルウォーターやペパーミントなどのハーブとグラスを出すと、ミントを浮かべた水をアレキに差し出した。
「俺はレオ君がいないと、死んじゃうかもしれない」
「大袈裟な……一人で船に乗ってた時はどうしてたんです?」
「死んでた。港に着くまで、泣いて過ごした」
「あははは!」
アレキはお爺ちゃんのように起き上がって、ミント水を啜っている。
「俺はしばらく寝てるから、レオ君は自由に船を楽しんでいいからね」
そう言い残して眠ってしまったので、レオはそっと、船室を出て行った。
彼方此方と船を探索して、レオは船を満喫した。
後方の甲板に出ると、大きな白い猫と、ドレスでお洒落をした10歳くらいの女の子が海を眺めていた。
街中で馬車を引く動物や、商人が連れている番犬などは見慣れていたけれど、レオはこんなに見事に真っ白な猫を見たことが無かったので、ふわふわ毛に惹かれるように、猫の隣にさりげなく近づいた。お座りした猫は、レオよりも身長が高い。海を見る振りをしてレオが猫を見上げると、海と同じマリンブルーの美しい瞳で、こちらを振り向いた。
「わぁ……綺麗だね」
レオは思わず、猫に声を掛けてしまう。
「マリンて言うのよ。可愛いでしょ?」
白い毛の向こうから、ツインテールの女の子がひょっこりと、顔を出した。金色の髪に大きな瞳で、女の子も可愛らしかった。
「マリン……触ってもいいですか?」
「いいわよ」
レオがマリンの首もとにそっと触れると、ふわふわと柔かく温かい。ゴロゴロゴロ……と不思議な音がした。
「これは鳴き声?」
「あなた、猫を触ったことがないの?」
「は、はい」
「猫は嬉しい時とかリラックスした時に、ゴロゴロ言うのよ。あなたの事が嫌いじゃないみたいね」
「本当!?」
レオは嬉しくなって、両手を深く猫の首もとに入れた。すると猫はグリン、と頭を擦りつけてきた。
「うわ、あはは! 可愛いなぁ」
女の子はふうん、とレオを上から下まで眺める。
「あなた、貴族の子ね? 名前は?」
「あ、失礼しました。僕はライオネル・オルドリッチです」
「私はミリエリア・エイデン。ミリーって呼んでいいわよ、レオ」
「よろしくお願いします……」
小さいのにしっかりとした態度に、レオは気圧される。孤児院以外で同年代の女の子とまともに喋ったことがなく、こんなに毅然とした女の子に出会ったのは初めてだった。
(貴族の子供はみんな師匠みたいな教育を受けてるから、こんな感じなんだ……)
などと考えているうちに、後ろから大人の声がかかった。
「お嬢様! 猫を甲板に出してはいけません!」
執事のような品の良い年配の男性が駆け寄るが、ミリーは毅然と言い張る。
「地下室に入れっぱなしじゃ、可哀想だわ。マリンだって海が見たいもの」
「船の決まりで、動物は地下室と決まっていますから! さあ、戻りましょう」
執事はレオに一礼して、ミリーとマリンを連れて船内に戻って行った。
「レオ、お食事の時に会いましょう!」
ミリーは手を振って、行ってしまった。
レオはアレキが、学校には可愛い女の子がいる、と言っていたのを思い出した。
「なんだ。船の上にも女の子がいるじゃないですか。学校なんか行かなくても、きっとこれからいろんな出会いがいっぱいあるんだ」
出航した船には新しい景色も動物も女の子もいて、レオはワクワクしていた。アレキサンダー航海記の主人公になったように、爽快な旅が始まっていた。




