1 夜のライオン
木枯らしが吹く冷たい夜。
古びた建物の石畳に、赤ん坊が裸のまま置かれていた。肌着も毛布も、自分を温める物が何もない状態で、赤ん坊は寒さと飢えで泣き叫んでいた。
建て付けの悪いドアが開いて、くたびれた風貌の女が顔を出す。
「なんだい、こりゃ! 素裸で捨てるなんて、動物じゃあるまいし」
唖然として石畳に降りると、彼方此方に飛ばされた紙幣が、ヒラヒラと舞っているのが見える。
「金……風で飛ばされたのか!」
慌てて拾い集めると、そこそこの枚数があった。
紙幣を数えながら、泣いている赤ん坊を見下ろす。
「子供を捨てた罪滅ぼしのつもりかね。ったく、鬼畜に変わりないさね」
赤ん坊を拾い上げると、建物の中に入って行った。
酒臭い大男は、女が集めた紙幣を数えている。
「素裸で手紙も無しとは、捨てた親はロクでもねぇな」
「いくら孤児院だからって、犬猫みたいにホイホイ捨てられたんじゃ……あら?」
女は会話の途中で、赤ん坊の周りを見回す。相変わらず泣き叫ぶ赤ん坊は毛布にくるまれているが、そこに置いた筈のミルク瓶が無くなっていた。
「あんた、ミルク瓶を知らないかい?」
「あ? 自分でそこに置いてただろ」
「おかしいね、見当たらないんだよ」
赤ん坊の身体の下やベッドの下まで探すが、ミルク瓶は見つからない。
大男は酒瓶を煽りながら、ゲラゲラ笑っている。
「とうとう頭がボケたのか?」
「そんなわけないだろ!」
女は苛立ってキッチンに向かい、新しいミルク瓶を持って戻ってきた。
赤ん坊を抱いてミルクを与えると、まるで飢えた動物のように必死でミルクを飲みはじめた。
「いったい、何日ぶりのミルクだい?可哀想に。あんたはロクでも無い星の下に生まれたもんだね」
涙目でミルクを飲み続ける赤ん坊を、同情の目で見下ろしていた。
だが、その同情は長くは続かなかった。
その赤ん坊の周りでは、毎日次々と物が無くなった。
孤児院の夫婦はその不可解な現象に不気味さを感じていた。
♢ ♢ ♢
「メアリー!何を騒いでいるんだい!」
女が苛立ってキッチンから出ると、10歳頃の孤児の子供が泣いて騒いでいる。
「お人形がなくなったの! ここに置いてたのに!」
指す先には、あの捨て子の赤ん坊がベッドで泣いている。
「またかい!? どれだけ物が無くなれば気が済むんだ」
女は赤ん坊を覗き込み、顔を顰める。
「まさかこの赤ん坊、物を飲み込んでるんじゃあるまいね。気味が悪いったらないよ」
後ろから酒瓶を持った大男がやって来て、笑いながら赤ん坊を指した。
「こいつはゼロだ。何でも物がなくなっちまうからな」
メアリーはキョトンとする。
「ゼロ? 変な名前」
「ゼロってのは、虚無って意味だ。名付けもされずに捨てられた、可哀想なゼロ。寂しくて、ミルク瓶も人形も飲み込んじまったのさ」
メアリーは赤ん坊を可愛いがって毎日面倒をみていたが、自分の大切な物が全部飲まれてしまう気がして、急に恐ろしく感じた。
♢ ♢ ♢
ゼロと名付けられた赤ん坊が3歳になる頃。
泣いてばかりだったゼロは、物静かな子供に成長していた。
黒髪に黒い瞳、青白い顔。澄んだ瞳は子供にしては落ち着きはらったような、諦めきったような、大人びた雰囲気を持っている。整った顔立ちをしているが、覇気が失せて常に無表情だった。
「ない! ない!」
メアリーが引き出しを引っくり返して、物を探している。
すぐにゼロを振り返り、険しい顔で責め立てる。
「ゼロ! 私の鏡をどこにやったの!?」
ゼロは無表情のまま首を振る。
「知らない」
「嘘、ゼロがどこかへやったんでしょ!?」
孤児院の中で物が紛失すると、それは全てゼロが疑われた。
言葉を話すようになってからは、赤ん坊の頃のように物が消える現象は治まっていたが、未だに失くし物の責任を問われる存在のままだった。
「知らないよ」
幼いのに冷静で大人びた様子も、他の子供たちから存在が浮いていて、誰もが漠然と不気味さを感じていた。
「泥棒ゼロ! 鏡を出せよ!」
乱暴な男児がゼロの耳を引っ張るが、ゼロは黙るだけだった。
「泥棒の癖に」
「裸で捨てられた癖に」
「動物みたいに何でも食っちまう」
男児達に囲まれていじられる間も、ゼロは遠くを見ていた。
「ほら、お前達何やってんだい! サッサと畑に行くんだよ!」
女が大きなガタイでクワを持って現れると、子供達は蜘蛛の子を散らすように、畑に逃げていった。
女が振り返ると、ポツンとゼロだけが立っている。
「僕は泥棒じゃない」
小さく呟いて、ノロノロと外に出て行った。
女はやれやれとテーブルの上の手拭いを持ち上げると、その下に鏡があった。
「ここにあるじゃないか、メアリーの奴」
大抵はこのような冤罪だが、出てこなかった失くし物は全て、ゼロの行いなのだと皆が信じていた。
孤児院の子供達は畑で働いて、自給自足の生活をしている。農作物の殆どは領主に年貢として納められ、僅かな取り分で慎ましく暮らす毎日だ。
日中は農作業で費やされ、文字もろくに学べない環境の中、質素な食事や限られた生活用品が一つでも無くなるのは一大事だったので、泥棒の代名詞であるゼロは、針の筵のような毎日だった。
「俺のパンが無い!」
「泥棒ゼロの仕業だろ」
「てめえ、返せよ!」
ゼロに冤罪を擦り付けた上での孤児院内の窃盗は頻発し、ゼロは常に争いの中にいた。殴られて、責められて、4歳までは泣きも笑いもせずにやられる一方だったが、5歳になる頃には、澄んだ瞳は鋭い獣の目のようになって、暴力には暴力を返すようになっていた。
「いってぇ! ゼロが噛んだ!」
泣き喚く男児に、女は怒鳴る。
「ちょっかい出すんじゃないよ!」
「だってこいつが盗んだんだ!」
女がゼロを振り返ると、相変わらず無表情で立っているが、その黒い瞳は冷めた色の向こうに憎悪の炎を燃やしていて、背中がゾッとする。
不気味な赤ん坊は恐ろしい子供へと、成長を遂げていた。
♢ ♢ ♢
そしてゼロが7歳の時に、事件が起きた。
女は一日の仕事を終えて、ベッドサイドのドレッサーで髪をとかしている。
「本当に恐ろしい目をしているよ。あれは獣の目だ。やっぱりあんな不吉な赤ん坊は拾うべきじゃなかったんだ。笑わない子供なんか、養子に引き取る者もいない。とんだ厄介者さ」
ゼロについて、夫の大男に愚痴を溢している。
大男は話も聞かずに、戸棚を漁り、本棚を漁り、仕舞いには引き出しを引っ張り出して、中身を床にばら撒いていた。
「あんた、何してるんだい!?」
「な、ない、ないんだ!!」
「何が無いのさ!」
大男は酔いが覚めたように、青い顔をしている。
「金が……隠していた金が全部無い!!」
深夜の廊下で、子供達は肩を寄せて息を潜めている。
夫婦の部屋の向こうでは、大きく鞭の音が鳴り響いていた。
「この泥棒が! 恩知らずの捨て子が!!」
大男は我を失ったようにゼロを鞭で叩き、盗んだ金の隠し場所を吐かせようとしていた。服が破れ、背中や尻に血が滲んでも、見ている女は止めようとしなかった。
何かが無くなった時、ゼロを責めれば済む事に誰もが慣れきって、夫婦も子供たちも思考が停止していた。
「盗んでない……僕じゃ無い」
ゼロの言葉には誰も耳を貸さず、狂ったように鞭を振るう大男は、嬲り疲れて息を吐いている。この折檻の平行線の向こうには、ゼロの死しか無いのではないかと、誰もがうっすらと感じていた。
「この……大嘘吐きめが!」
大きく鞭を振り上げた大男の腹に、椅子が投げつけられた。
「うっ!?」
ゼロは力を振り絞ってテーブルも押し付けるように倒し、疲弊していた男は後ろに向かって派手に尻餅を着く。その隙にゼロは男を飛び越え、ドアを開けて廊下に飛び出した。
聞き耳を立てていた子供たちは叫んで逃げ惑い、後ろから女が悲鳴を上げて追いかけたが、ゼロは玄関に向かって走り出し、そのまま外へと逃げ出した。
木枯らしの中、上着もなく、白い息を吐きながら一心不乱に走り続けた。
路地を曲がり、塀を超え、木々を抜けて走り続け、ゼロは遠い町中まで辿りついた。
もう、誰も追って来ない。
町は何もなかったように灯りが点いて、コートを来た人々が楽しげに行き交い、馬車や動物が闊歩していた。
ゼロは苦しい胸を掴んだまま、冷たい石畳の広場に座り込んだ。
星々が輝く夜空を見上げると、広場に置かれた大きなライオンの像が、勇しくこちらを見下ろしていた。
何も持たず、何もかも失ったゼロは、生まれて初めて自由になっていた。