お人好し令嬢と冷たい騎士(シグナスside)
料理を作るといって、厨房へ向かったリーナの背中を見送る。
男爵家とはいえ、貴族令嬢で自ら料理をする人間は珍しいに違いない。
「変わらないな、君は……」
出会った瞬間から、空色の瞳に引き寄せられてやまない。
リーナとの出会いは、魔獣に襲われているところを助けたのが始まりだった。
***
魔獣との戦いは、激化の一途をたどっていた。
あの日、初めて王都の内部まで、魔獣が入り込んだ。
俺は、壁外の防衛をほかの騎士たちに任せて、王都を走っていた。
その時、すれ違いざまに、逃げるのが難しい高齢の婦人や、子どもたちに手を差し伸べながら、避難する一人の令嬢が目に飛び込んできた。
「なぜ、一人で逃げない」
騎士をしていれば、己の命をかけて、王都の民を守るのは当然だ。
だが、どう見てもその令嬢は、走るのも速くなさそうで、息が切れているところを見ると、体力もさほどないようだった。
けれど、目の前に現れた魔獣と戦うため、俺は無理矢理視線をそらす。
大きな空色の瞳。その色だけが、網膜に焼きつくようだった。
魔獣を倒す。騎士であれば、誰もが倒せる程度の魔獣だ。氷と打ち込まれた剣に、倒れ込んでいく黒い鳥の魔獣。
……いつからか、王都の外にいる動物の一部は、魔獣に変わり始めた。
それでも、空から襲来する魔獣は今までいなかった。これからは、空にも注意を向けなければなるまい。
踵を返し、首をかしげる。
なぜ、俺は、先ほどの場所に戻ろうとしているのか、と。
一歩踏み出した瞬間から、焦燥感すら感じながら、再び走り始める。
空色の瞳が、ちらちらと脳裏に浮かんで消えることがない。
先ほどの地点まで戻ったが、空色の瞳の令嬢は、もちろんいなかった。
……無事、逃げ延びたのだろう。
そう、結論づける。
情報によれば、王都に入り込んだという魔獣は、あと一匹のはず。
その時、子どもの泣き声が遠くに聞こえた。
逃げ遅れたのだろう。魔獣の咆哮が同じ地点から聞こえてくる。
「ち、間に合うか?」
もう一度走り出す。どう考えても間に合わない距離。
あまりにも大きくて美しい猫の魔獣が、少年の前にいた。
その手元に光るのは、月のように輝く、冷たくて残酷な猫の爪。
「おかしい……。何故あんなにも巨大なんだ」
魔獣の大きさは、基本的に元になる動物の大きさと一致するはず。
しかし、目の前にいる白に銀色の毛を混じらせた猫は、明らかに人間の背丈ほどの大きさだ。
「ダメ!」
その声が、走り続ける俺の鼓膜を揺らし、俺を一瞬の思考から引き戻す。
空色の瞳。薄い茶色の、ふわふわした髪が揺れるのを、呆然と見つめる。
時間がゆっくりと流れているように見える世界で、少年に覆い被さった、一人の令嬢。
それは、間違いなく、先ほど見かけた令嬢だった。
ドスンッと勢いよく地面に倒れ込んだ二人。
猫の爪は、掠ることなく、二人の頭上を通り抜けていった。
「……っ!」
無詠唱の氷魔法。
無詠唱は、魔力の消費が桁外れだ。
しかも、無意識に全力で放ってしまったせいで、魔力が勢いよく流れ出るのを感じる。
こんなにも、加減することも出来ないままに、魔法を使ってしまったのは、騎士団に入りたての頃が最後だ。
大きすぎる魔力を制御するため、何ごとにも動じないよう精神を鍛え、魔法を制御するために肉体を鍛え上げてきたはずだった。
パキンッと硬質な音がする。周囲の地面が白く染まり、次々と凍りいていく。
しかし、白い猫の魔獣は、軽く跳躍し、攻撃を避けてしまった。
魔力が底をつきかけ、クラリとめまいがする。
「だが、間に合った……」
白銀の剣を向ける。
その時だ、想像を超える速さで飛び上がった猫の魔獣は、子どもを抱えて地面にうつ伏せに倒れている令嬢の背中に、ペタリと手を置いた。
爪を出すこともなく、ただ印を押すかのように……。
吸い取られていく、オレンジ色の光。
間違いなく、彼女の魔力だ。
そして、その色が意味する魔力属性は。
「光、魔法……」
目の前の事実に呆然としながら、だが日頃の訓練の結果だろう、体は自然に動き、俺は猫の魔獣に斬りかかっていた。
しかし、その剣すら、猫の魔獣は尻尾を揺らしただけで、あまりにも簡単に捌いてしまう。
次の瞬間、アイスブルーの瞳と正面から向き合っていた。
『選びなさい』
「は……?」
『光魔法の力が及ぶうちは、まだ自我を保つことが出来る』
「なにを……」
次の瞬間、四つ足で立っていた猫の魔獣は、急に人間のように立ち上がった。
「――――二足歩行の、猫」
王都なら、誰もが知っているその物語。
今、まるで現実のように、その物語が再現されている。
『選択権を与える。誰からも認められない王子』
隠していたはずの、聞きたくもない呼び名。
それだけ告げると、二足歩行の猫は、空高く跳躍し、王都の壁を垂直に駆け上がると、消えていった。
本当は、このまま呆然と、壁を眺めていたい心境だ。
猫の魔獣だと思っていたものは、実際には二足歩行の猫だった……?
だが、それが示すことはあまりにも恐ろしい事実だ。
本当は、このことを一刻も早く持ち帰り、騎士団の上層部で検討する必要があるのだろう。
「……大丈夫か?」
猫の手を押された、小さな背中には、くっきりと魔力の跡が残っている。
契約印……。本来なら聖獣とのつながりを示すはずの、美しい猫の手跡。
しかし、これが見えるのは、王家に連なる者だけだ。
……彼女の魔力を吸い上げる前、確かに二足歩行の猫は、ただの魔獣のように振る舞っていた。
まさか、聖獣が魔獣に墜ちたというのだろうか。
よろよろと起き上がった令嬢の空色の瞳がまっすぐにこちらを見つめる。
あまりに美しく透明なその色を見た瞬間、時が止まったように感じた。
聖獣との契約者。あるいは、魔獣との……。
「助けてくださって、ありがとうございます」
子どもを抱き寄せたまま、直前の命の危機に怯えるそぶりさえ見せずに笑う令嬢。
「スプリング男爵家の娘、リーナと申します。騎士様」
「……リーナ・スプリング」
その名前は、王都にも数えるほどしかいない光魔法の適性を持つ者のリストで目にしたことがあった。
傷ついた騎士たちに、住民に、その力を惜しげもなく差し出しては、眠りにつく聖女リーナ。
もちろん、聖女なんているはずもない。
だが、騎士たちの間で、彼女が崇拝にも似た感情で、そう呼ばれているのは事実だった。
魔獣討伐に明け暮れていた俺は、会ったことがなかったが……。
「あ、けがをしておられます。騎士様」
オレンジ色の光は心地よく、そこで初めて自分が痛みを感じていたことに気がつく。
「あれ……? これくらいだったら、大丈夫なはずなのに」
倒れ込んできたリーナを、子どもごと抱き留める。
おそらく、先ほどの二足歩行の猫に吸い取られた分の魔力が、大きかったのだろう。
抱き留めた体は、柔らかく、軽く、温かかった。
……まるで、知らなかった他人の体温の心地よさを、俺に教えてしまうように。
***
「…………」
「シグナス様!」
「……リーナ?」
「どうなさったのですか? 具合でも悪いのですか?」
記憶の海に沈んでいた俺の額に、あの日のように、温かくて小さな白い手が添えられた。
そのまま、ゆるゆると撫でられれば、それだけで尻尾が揺れて喉を鳴らしてしまいそうになる。
「……ん? 猫の体温って高いのでしょうか。少し熱いですけれど」
「問題ない。平熱だ」
「そうですか? でも、シグナス様は、具合が悪くても隠そうとするから、そこだけは信用できません」
「……君ほどではない。リーナ・スプリング」
リーナのために選んでしまった未来。
俺が、この姿になった理由。
「シグナス様? やっぱり先ほどから、様子がおかしいです。やはり熱が……」
「いや、本当に問題ない」
目の前に並べられた湯気の立つ食事に目を向ける。
確かに豪勢ではないかもしれないが、品数も豊富で美味しそうだ。
「ふむ。では、別室でごちそうになろう……」
「問題ないですよ?」
フォークとナイフを持つことが出来ないこの手では、スープの椀を持つ程度しか出来ない。
優雅な食べ方なんて、出来ようもない。
リーナの前で、そんな醜態をさらしたくはなかった。
「はい! どうぞ召し上がってください」
「は……?」
それなのに、次の瞬間、俺の目の前には、スプーンに乗せられた湯気を立てる魚のムニエルが、差し出されていた。
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