『えんじょう』後の世界に生きる
本エッセイは追悼エッセイです。タイトルに釣られてしまった方、申し訳ありませんでした。ただ、これも何かのご縁ですから、ちょっと覗いていってはくださいませんか。
令和3年12月。これ以降、私たちは、『えんじょう』後の世界を生きることになった。
『えんじょう』と言っても『炎上』ではない(※時折、激しく『炎上』していた事実があるのは否定しない)。
『えんじょう』は『円丈』(※もしくは『圓丈』)。三遊亭円丈師匠のことである(注1)。
その円丈師匠が他界された。享年76歳。喜寿の誕生日を10日後に控えた、令和3年11月30日のことであった。
12月5日に報道発表があり、新聞各誌に訃報が掲載されたが、それは師匠の功績に比すると、あまりにも小さいものであったと言わざるを得ない。
今、このエッセイを読んでくださっている方々も、師匠の功績をご存じない方がほとんどであろうと思うので、ここにそれを記す。
詳しい人にはあたりまえの話だろうが、落語は古典落語と新作落語(注2)に分けられる。
古典落語とは、おおざっぱに言うと江戸から明治期にかけて作られた噺である。
一般の方にもよく知られた『寿限無』や『時そば』などといった噺は、全てこちらに入る。
それに対して、新作落語とは、それ以降に作られたもののことを言う。
そして、新作落語には、さらにカテゴリー分けの言葉が存在する。それが、『円丈以前』と『円丈以後』である。
円丈師匠が登場する前の新作は、舞台を現代に変えただけの擬古典的な物か、先代の林家三平 師匠や、先代の三遊亭圓歌 師匠の落語のように、他の人には再現することができないようなものだった。
それを円丈師匠は大きく変えた。
出囃子で登場して、座布団の上に座り、扇子と手ぬぐい一本を駆使して演じる。導入の面白い話(※マクラ)から始まって、演じられる舞台に遷り、登場人物の掛け合いで話が進み、最後にオチ(※サゲ)がある。こういった、従来の落語の『約束』にさえ囚われない、全く新しい落語を始めたのだ。
これについては、詳しく書くと大変長くなるので、ここでは語らないが、『円丈チルドレン』と呼ばれる春風亭昇太 師匠たちはもちろん、上方落語界の大御所、桂文枝 師匠など、現在新作をする人で、円丈師匠の影響を受けなかった人はいないと言われている。
落語に与えた影響という観点から言えば、落語の中興の祖とされる、三遊亭圓朝にだって劣らないような凄いことを行った、いわば現代の伝説だったのだ。
円丈師匠は、今までの落語の範疇に囚われない、斬新な作品を300本以上も書き下ろした(注3)だけでなく、書き下ろしたネタを他の落語家に提供したり、新作の作り方自体を広く伝授したりもしてきた(注4)。
それを、新作が下等なものとして扱われてきた1970年代から行っていたのだ。
そして、全ての新作落語家のパイオニアとして、晩年に至るまで、常にその先頭を走ってきた。
しかも、1980年代以降、2000年代に至るまで、古典落語を封印し、新作一本に賭けてきた。
客が入りやすいうえ、持ちネタも100本以上あった古典落語をだ(注5)。
並の人間に出来ることではない。
私が円丈師匠を知ったのは、高校時代に遡る。ただし、落語と全く関係のないところでだった。
それは、小学館が刊行していたPC誌『ポプコム』のエッセイ、『円丈のドラゴンスレイヤー』である。私はどちらかと言えば『Login』派だったのだが、好きが高じて編集部に入ってしまったような男が友人にいたため、『ポプコム』も併読するようになったのである。
そんな中で見つけたのが『円丈のドラゴンスレイヤー』だった。このエッセイは最初はゲームの批評が中心だったように記憶している(注6)。そして、師匠が納得のいかなかったものは、遠慮会釈なしにぶった切るのが特徴だった。たとえ、大メーカーの作であろうと、師匠の舌鋒は全く鈍ることがなく、良いものは良いと言うし、嫌いなら嫌いと言う。一度ならずクソゲーを掴まされた経験のある私は、すぐにファンになった。途中からはこれが読みたいがために『ポプコム』を購読していたと言っても過言ではない。
その後、数年間は、エッセイスト・ゲーム制作者としての円丈師匠に傾倒し、シナリオを担当したゲームも購入するなどの熱の入れようだった。が、『ポプコム』の休刊と、時をほぼ同じくして、円丈師匠の興味もゲームから狛犬へと移ったことで、私と師匠との接点はなくなっていった。
師匠と再会したのは、それから10年以上経ってからである。
職場の旅行でたまたま行った浅草演芸ホール。その日の主任が円丈師匠だった。
落語なんて寿限無と笑点ぐらいしかなじみのない私にとって、まともな落語は、高校時代の芸術鑑賞会?で聞いて以来のことである。
高校時代に聞いた落語は、「うーん……。」としか言えないものだったため、この日のも、正直あまり期待はしていなかった。
実際、この日の寄席は、全体的に客のウケも今イチで、途中で席を立つ客も多かった。そんな状況の中、円丈師匠は高座に上がった。
師匠は最初、ぼそぼそと、つまらなそうな口ぶりで話し始めた。
マクラは、住んでいらっしゃる足立区六町の話で、
「六町は、大変交通の便が良い。最寄り駅が4つもある。ただし、どの駅にも歩いて40分」
と、軽くウケを取ると、おもむろに話し始めた。
「階段を上ってホームへ出る。
19時43分発、準急新栃木行きの発車のベルはまだ鳴っている。
ホームの看板には平仮名で黒々と6文字
『き・た・せ・ん・じゅ』
なんという悲しい響きの言葉だろう!」
こんな落語があって良いのか!? 私は度肝を抜かれた。
それは他の客も一緒なようであった。先ほどまでは噺の途中で席を立つ客も少なくなかったのに、誰も席を立つ者はいない。それどころか、あんなに静まりかえっていた客席に笑いが起こり始め、『三ノ輪の萬七親分(注7)』のくだりで客席が笑いの渦に包まれると、後はもう爆笑の嵐であった。
もうこうなってしまうと、時々挟まれる
「19時43分発、準急新栃木行きの発車のベルはまだ鳴っている」
というセリフさえ、笑えてくるのが不思議だ。
この噺にはサゲらしいサゲはなく、ちょっと余韻を持たせる感じで終わるのだが、終わったときの浅草演芸ホールは、大きな拍手と冷めやらぬ興奮に包まれていた。
これが円丈師匠の鉄板ネタ『悲しみは埼玉に向けて』という噺だった。
この日を境に、円丈師匠にハマった私は、師匠の高座を追いかけるようになった。そして、寄席通いをするうちに、古典を含めた落語自体にもハマっていったのだ。
そう、私を落語の沼に引き込んだのが、円丈師匠だったのだ。
私の例からもわかるとおり、師匠の話は、落語ファンの底辺を広げるために、多大なる功績を残したと言ってよい。
円丈師匠は古典だってそのままは演じない。
古典落語は、先達から稽古をつけてもらった噺を、そのまま演じるのが基本である。
古典芸能としては当然のことではあるのだが、残念ながら現代では意味が通じなくなってきた話も多々ある。
例えば廓噺(注8)を教わった女流落語家が、
「え~、私も吉原なんてぇものには、よく行くんでございますが――」
と演じて、客席を混乱の渦にたたき落としたなんていう笑い話もあるくらいだ。
これは極端な例だが、枕で用語の意味を説明してやらないと、意味が通じない噺はいくらでもある。
円丈師匠は、持ちネタの『居残り佐平次』という古典の廓噺で、途中アレンジを加えただけでなく、現代ではわかりにくくなってしまったサゲを、大胆に改変することで、スマートに締めていらっしゃった。
予備知識がないと理解できない噺から、誰でも笑える噺へ。こんなところにも「生きた芸能」としての落語を重視した、円丈師匠の姿勢がよく現れている。
最初に円丈師匠のことを「三遊亭圓朝にだって劣らないような凄いことを行った、いわば現代の伝説」と書いた。しかし、落語の歴史に名を残した師匠の功績に対して、残念ながら、世間での認知度は驚くほど低い。
これは、40~50代の円熟期を、ゲテモノ扱いだった新作一本で通してきたことで、古典至上主義の評論家等からの評価が得られなかったことも原因の一つだろう。ただ、それだけでなく、兄弟子にあたる、五代目 三遊亭圓楽 師匠との確執(注9)も大きい。
長くなるので書かないが、これも「円丈師匠らしい」と言ってもいいのかもしれない。
その後も精力的に活動されていた円丈師匠であるが、数年前から記憶力の低下に悩まされていらっしゃった。
カンペを見ながら演じても、ネタが飛んでしまうことがあり、ここ数年の高座は、残念を通り越して、気の毒に思えてくることすらあった。それでも、高座に上がり続ける執念。「こんなことで負けてたまるか!」という反骨精神が、師匠を動かしていたのかもしれない。
師匠には『夢一夜』という、病院を抜け出した末期癌患者を描いた落語がある。私には、この主人公の見せた執念と、師匠の姿が重なって見えて仕方がなかった。
そんな師匠だが、昨年、脳の精密検査をしたところ、硬膜下血腫が発見され、手術を受けられた。術後は順調で、復帰のためにリハビリに励んでいらっしゃったらしい。
ところが、入院中に肺炎を発症。それがもとで衰弱し、数か月の闘病生活を経て帰らぬ人となられた。最期は眠っているようだったそうである。
落語の歴史になった『円丈以後』という言葉について、師匠は生前「『円丈後』とは何だ! 俺はまだ生きている! だから『円丈中』だ!」という趣旨の話をしていらっしゃった。それが今となっては、文字通り『円丈後』になってしまった。
「100まで生きてやる!」とおっしゃっていた師匠のことだ。あの高座での執念を見ても、やり残したことが無かったとは思えない。
ただ、師匠の撒いた『新たな新作落語』という種は、あちこちで芽ぶき、もはや誰にも止めることの出来ない、大きな流れとなっている。
三遊亭円丈は、落語界にあった大きな壁を、最初はほぼ独力で、その後は大きなうねりの先頭に立って切り開き、誰にも出来なかったことを、成し遂げたのだ。
落語界に偉大なる足跡を残された 三遊亭円丈 師匠のご冥福を、謹んでお祈り申し上げます。
注1:落語協会の正式名称は『圓丈』だが、ご本人は著書等で基本『円丈』を使っていらっしゃったので、本エッセイでも『円丈』で通した。
注2:文枝師匠や昇太師匠など、『創作落語』と言う方も多いが、円丈師匠が『新作落語』という言葉を主に使っていらしたので、それに敬意を示し、この文章は『新作』で通した。
注3:おそらく数では2番目。少し前までは間違いなく1位だったが、現在は、直弟子の三遊亭白鳥 師匠に抜かれているものと思われる。
注4:勉強会・発表会を開いたのはもちろん、『ろんだいえん』(彩流社)という書籍も出版なさっている。
注5:円丈師は、古典の名手で昭和の名人とも言われた、六代目 三遊亭圓生 の弟子であり、師匠に古典の腕を認められて、6人抜きの抜擢で真打になっている。また、圓生には、年功序列で真打になった弟子もいた(※3名)が、圓生は「あたしが真打と認めるまではダメだ」と、彼らに『圓』の字を与えなかった。そんな所からも円丈師匠の腕の確かさがわかる。
注6:後に、自らがシナリオを書いたゲーム『サバッシュ』の開発状況なんかも載るようになった。
注7:銭形平次のライバル?
注8:吉原などの遊郭を舞台にした噺。
注9:興味のある人は、『落語協会分裂騒動』で検索するか、『師匠、御乱心!』(小学館)を御覧いただきたい。
円丈師匠を過去形で語らなければならない日が、こんなに早く来ようとは、夢にも思いっていませんでした。
そして、亡くなられたことは当然寂しいですが、それと同じくらい、その業績が知られていないことが寂しいです。
偉大なるその業績の一端に触れたことのある人間としては、1人でも多くの人に、師匠のことを知ってもらいたい。そう願って書きました。
私の拙い文章で、どれだけのことを伝えられたかはわかりませんが、最後までお読みいただきありがとうございました。