第3話
「さっき、廊下で歌ってたよね」
「申し訳ございません。殿下」
目を伏せていたって、周囲の視線が自分に集まっているのが分かる。
話し声で騒然としていたテラスが少しずつ静かになってきていた。
その理由は当然、下級貴族の娘に過ぎない人物にヨハン王子が自ら話しかけたから。
「謝ることはないよ。本当にいい歌声だと思った。いまから歌ってくれないか?」
「歌うんですか?」
あまりに突飛な提案に、エリーザはたじろいでしまう。
ヨハン王子は真面目な人物として知られていた。武芸にも勉学にも熱心に取り組み、その実力は王国の中でも指折りだという噂をエリーザは聞いていた。王位を継ぐ者としての準備を怠らない人物で、威厳は失わない程度に、しかし物腰柔らかく皆に接して、決して奢ることなく敬意を払って他者の話を聞く人物だという噂だった。
そんなヨハン王子だからこそ、その突飛な行動に周囲の動揺も大きいのだろう。
「歌うんだよ。王子の命令だ。歌えるんだろ?」
ヨハン王子は背筋を伸ばし、まっすぐにエリーザを見下ろしている。
断るなんて選択肢はエリーザに与えられていない。
「王子の命令だ」なんて言われなくたって、従うしかない。
「拝命いたしました」
エリーザはそう答えて、その場で歌いだそうとして、それを王子は手で制した。
「ホールに戻ろう。そこで歌うんだ」
一瞬、エリーザの目の前が真っ白になる。
そして、意識が戻ってもやはり王子の姿がエリーザの目の前にあった。
王子は颯爽と踵を返して広間へと歩いていく。
なんでわたしがこんな目に遭うのだろう。
父上、母上、ごめんなさい。
そんな言葉を胸の中で呟きながら、エリーザはテラスからホールへと王子の背中を追って歩いた。周囲の目線を気にする余裕などない。
ダンスを続ける貴族たちの中を、王子は悠々と闊歩して歩いていく。
そんな王子の様子を見て、貴族たちは続々とダンスを中断していった。
指揮者が手を振り下げ、音楽家たちも演奏を止める。
ダンスホールじゅうの視線が王子とエリーザに注がれていた。
ダンスホールの中央で、王子は胸を張って威風堂々と周囲を見渡し、エリーザは恐る恐る周囲を伺っている。にわかに聞こえてくるひそひそ声は全て自分の悪口を言っているように思われた。
「空気を読んでくれてありがとう。静粛に、なんて叫ぶ柄じゃないからね」
王子は穏やかに、配下の貴族たちに対する親しみのこもった声で話し始める。
「今日の歌姫を紹介しよう。えっと、名前は分からないや。最近社交界デビューしたのかな? とにかく、今日の歌姫はこのご令嬢だ。さぁ、さっそく歌ってもらおう」