第1話
ヨハン王子がアネットとの結婚を決意した。
春の日の麗らかな午後、そんな知らせがエリーザ・サヴァツキにもたらされた。
「エリーザ様はよくおやりになりました。あれほどまでにヨハン王子から見初められたのです。きっと、明日からは求婚の知らせばかりが届きますよ。王都ではあなたのお名前を知らない人などいないのですから」
侍女のドロテが跪き、椅子に腰かけたエリーザに語りかける。
ドロテの言葉に答えることなく、エリーザは瞼を閉じて俯いた。
頭から血の気が引いていく。
気を抜いたら失神して椅子から落ちてしまいそうなくらい衝撃的な報告だった。
どくどくと跳ねる心臓の音が耳元で聞こえるように感じられる。
「結局、負けたのね」
眩暈に耐え、深呼吸をして息を整えてから、エリーザは目を開いてそう呟いた。
サヴァツキ家が保有する小さな邸宅の一室にはエリーザとドロテだけがいる。
エリーザが座る椅子の前には丸テーブルが置かれていて、紅茶が湯気を立てている。
エリーザとアネットは王宮でヨハン王子の恋心を奪い合う仲だった。
といっても、最初から対等なライバルだったわけではない。
アネットは高級貴族の娘であり、ヨハン王子の婚約者でもあった。教養に溢れ、語学も堪能で、ピアノやダンスも上手く、その美貌は幼少の頃から注目の的で、気品のある振る舞いに老若男女問わずうっとりとさせられるような人物だった。
だからこそ、ヨハン王子との婚約を誰もが当然だと納得していた。もちろんそれは、アネットの両親が王室に対して熱心にアネットの魅力を訴えたからこその成果でもある。それでも、ヨハン王子だってアネットであれば喜んで結婚するだろうと誰もが思っていた。
そこに割って入ったのが、何を隠そう下級貴族の娘であるエリーザだった。
当時、エリーザは王都の社交界でデビューしたばかりで、小さな舞踏会の経験はいくらか積んでいたものの、王宮で行われる舞踏会に参加するのは初めてだった。
ダンスホール前の廊下で、エリーザは緊張を和らげるため鼻歌を歌っていた。
小さい頃から音楽が好きで、歌っていたのは自作の曲だった。
ヨハン王子が近くにいたことには気づいていたけれど、高級貴族の娘たちに囲まれていて、とてもエリーザが近づける雰囲気ではない。
そもそも、田舎の下級貴族であるエリーザにはヨハン王子を狙うつもりなんてなかったし、それが当たり前だった。他の貴族たちだって、まさかヨハン王子がどこの馬の骨とも知れない娘に声をかけるとは思わなかっただろう。