バス・ストップ
朝が来た。
今日も、つまらない一日になりそうだ――鳴り響くアラームを止めると、いつも思う。
スマホ画面に触れた指で、そのまま髪を掻き毟る。
「毎日がつまらないのは、ぼく自身がつまらない存在だから。そういうこと」
誰かに言っているわけじゃない。鏡に映る自分に納得させているだけだ。まるで仕事のように顔を洗い、髭を当たる。眉や髪型を整える。
この生活がはじまって、どれくらい経つんだっけ。一年ちょい、くらいだったかな。ひとり暮らしをはじめて今まで、なにか大きな出来事と言うべきこともない。なので、なおさらに毎日は淡々としてしまう。
ほんと、つまんない生活だと思うよ。我ながら。
まずもって変化がない。ぼくは理工学部に通っている大学一回生なのだが、授業や実験で一日が潰れる。なにもない日は図書室に篭りっきりになる。まるで勉強オタクみたいだ、と我ながら思うけれども。
だって、楽なんだもの。与えられた課題を、求められた基準で仕上げていくことが。これから社会に出て行くことを思えば、なんとも思わない。ぼくにとっては学生生活よりも、あっちの世界のほうが理不尽等々が脅威に思える。
かと言って少し前の時代のように「俺たち若者を圧迫してくる大人たちなんて大嫌い」アピールなど、する気にもならない。なるようにしか、ならないじゃないんですか。いつだって。違いますか。そんなことを口にすると、周りからはつめたい目線で見られちゃうんだけどね。
「つまらない日常」と言っているけどね、本心では結構ね、こういう生活って合っているような気がするんだよね。自分では。波風が立たない一日が積み重なっていけばいいんじゃないかなって。
だから欲しいものも、特にない。
物欲や自己顕示欲、はたまた性欲などを追いかけている同級生は大勢いるが、ぼくには特になにも欲求と呼べるものがないのだ。あくまで自覚している限りでは、の話だけど。
バス停までの道を歩きながら、途中にある自販機で緑茶を買う。これは日課だ。
決まりきった時間に、決まりきったことをする。一番、楽だよ。こういうのがね。
かたん、と音がしてから、ぼくは腰をかがめる。ふっとバス停の方向を見ると、いつもの白い日傘が見える。紺色の膝丈スカートが、ひらひらと揺れていた。映画のワンショットを切り抜いたみたいだ。
ペットボトルを取り出しながら目を細める。視線に気づいたのか、日傘の女性がこちらを向いた。
彼女は少し口元をゆるめ、軽く頭を下げた。とても人懐こい笑顔だ。
踏みしめているはずの地面が、ちょっぴり揺れたような気がした。周りを見渡すけれど、建物はおろか電線も動いている気配がない。
「地震じゃなかったんだ」
つぶやきながらバス停に着く。先に立っていた白い日傘の女性が、にこやかにぼくを見上げる。先に話しかけてきたのは、あちらから。
「今日は暑いですね」
「はあ」
「学生さんですか」
「え、ええ」
額から汗が噴き出してくる。いつも同じ時刻にバス停に並んでいる顔馴染みだけの存在が、いつもと顔を変えて笑いかけてくる。
「いいですね、若いって」
「そ、そうでしょうか」
ぼくはパンツのポケットからハンカチを取り出す。手のひらにまで、じっとり汗が滲んでいた。彼女はこちらの額を見て、ちいさく驚いた唇をかたちづくる。
「話しかけちゃ、いけなかったかしら。ごめんなさいね」
「いえ、そんな」
あせってパタパタ手を横に振ったけれど、彼女の目線は下を向いてしまった。なにか雰囲気を変える一言でも言えたらいいのだけれど、あいにく機転が利く属性ではない。
やがてバスが来た。ぼくは後部座席に、彼女は運転手のすぐ後ろへと腰掛けている。
「発車します」
きびきびとした運転手の声が車内に響く。ぼくは前方にいる彼女の髪を、ぼんやりと見つめていた。濃い目の茶色に染めた髪は、丁寧にまとめられている。同じ色合いのゴムで括られた髪の毛が、車体が揺れるたびにかすかに動くさまを、素直に「きれいだな」と思った。
実験室に入ると、二個上の先輩がいた。たしか、沢井さんという名前のはずだ。沢井さんは、先に来ていた一回生の数人に取り囲まれている。隙間から、なにかの図面が見えた。
ひとりの同級生が、ため息まじりに言う。
「すごいですね。これ」
「おまえらも作れるよ、この程度なら」
この程度が、一体どの程度なのか。そして、なんの図面なのか。遠巻きになっているぼくには見えない。けれど、沢井さんの周りにいる同級生たちは口々に声を上げる。
「無理ー」
「これを発展させたものがアレかあー」
そういえば噂に聞いたことがある。沢井さんは人工知能を付けたアンドロイドを開発し、それを使って大きく儲けているらしい。
ぼくは隣にいた同級生女子の肘をつついた。
「アレって、なに」
女子は半ばあきれた顔をして、ぼくをまじまじと見つめる。
「松永くん、知らないの? 沢井先輩の作ったアンドロイド、おとといテレビに出たんだよ?」
「へー」
「うっそ、マジで知らないの! それの発展系が医療や介護業界で活躍しているのに? それってヤバくない?!」
女の子の声は意外と大きい。沢井さんや周りの目線が、一気にぼくへと集中する。
「あ、すみません。ぼくテレビ、観てないんで」
ちょっと不貞腐れた気分で、沢井さんの顔を見て言った。すると沢井さんは、おどけたように額に片方の手のひらを当てる。
「いやー。俺だって、まさかそっち方面でも役立てるとは思っていなくてさ」
そう言った沢井さんは、白い歯を見せた。バス停で笑いかけてくれた女性と、妙にイメージが被る。沢井さんが、ぼくへと近づいてきた。
「きみ、一回生なの」
「はあ」
「見かけない顔だと思って」
「授業が終わったら、まっすぐに帰宅しちゃいますから。目立つのも嫌いだし」
「ふうん」
沢井さんが、にこにこしながら顎を撫でる。その目が探るように、ぼくを見ている。
「あのさあ。あんまり内に篭らないほうがいいよ」
「どういう意味ですか」
今日は、やたらと馴れ馴れしい人とばかり遭遇する。どういうわけだ、内心ムッとしながら先輩に答えていた。
「俺が医療業界に自分のノウハウを手渡したのは、ひとりの先輩の影響なんだ」
なに言ってるんだ、こいつ。
「まあ、そんな怪訝な顔をするなよ。要はさ、なんらかのかたちで社会に関わる気持ちを開いておけって言うこと」
「失礼なことを言いますね、先輩だからって」
なるべく無機質な表情で言ったつもりだった。だけど沢井さんから返ってきた言葉は、さらに上を行く失礼さ加減だった。
「そうかなあ、松永くんだっけ。きみからは、生きている感じがしないんだよね。ええと、ただ息を吸って吐いて生活しているだけ。それって愉しい? 俺の作ったアンドロイドの方が感性が豊かだぜ」
沢井さんはキュートに片目をつぶって実験室を出て行く。その背中を追いかけて行くとか、まして拳で殴りつけるとか、そんなこと全然まったく考えつかなかった。ただ。
ただ心のどこか、わずかに引き裂かれたような気がした。ちいさな破け目は一日中、思考を緩慢にさせている。
「ちくしょう」
帰宅して一番に、声に出た言葉だった。
息を吸って吐いて生活しているだけ、そんな平々凡々とした毎日のなにが悪いんだ。
波風を立たせずに生きること以外、望んでいない。それの、なにが悪いんだ。先輩とは、生きている世界が違うんだよ。
ムカムカしながら大きく足踏みをしたり、呪いの言葉を繰り返したあと。歯磨きのために鏡に向かう。
「ほんとだ」
ショックだった。死んだ魚の目玉をしている、ぼく自身の顔が映っていたから。
白い日傘の女性は、今朝もいる。今日は、ぼくから挨拶をした。
「おはようございます」
彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに目尻に何本かの皺を作った。ぼくよりも年上かな。いくつくらい上なんだろう。
「おはよう、学生さん」
「参ったな」
ぽりぽりと頭を掻き、彼女に告げる。
「学生さん、って名前じゃないんです。松永、って呼んでほしい」
「マツナガさん」
「そう。松竹梅の松。永遠の永」
「いい名前だね。わたしはチヅル。いちじゅうひゃくせんの千、おめでたい鶴」
「へえー。お互いに、おめでたい字があるんですね」
「本当ね」
千鶴さんは、ころころと笑った。本当に楽しそうに見える。ぼくは内心、大量の汗をかいていた。手のひらの汗を拭うためにポケットに手を伸ばしたときだ。
「ねえ、なにかあったの?」
「なにがって」
「だって昨日と全然、感じが違うんだもの」
「そうかなあ」
「話してみて楽になることは、いっぱいあると思うよ」
千鶴さんの双眸が、きらきらと輝く。ついつい、昨日のことを話しはじめていた。バスの車体が、いつのまにか眼前にある。
「松永さん」
ドアが開く直前、彼女はぼくを見上げて言った。
「昨日より、ずっと。いい顔をしているよ」
えっ、そう言おうとしたとき。バスに乗り込んだ千鶴さんは、昨日と同じ座席に向かって歩いていた。ぼくも昨日と同じ席へと座る。
先に彼女が降りて行く。
ああ、そうか。あの人は、いつもこの場所で降りる人だったっけ。
道路に降り立った千鶴さんは、いつもの速度では歩かない。それどころか、走り出すバスを振り返る。つい、彼女の姿を見てしまう。そんなぼくに向かって、唇の前に片手を丸めた。
まるでぼくだけしか、見ていないみたいに。手製のスピーカー、奥の唇のかたちが言っていた。
「がんばれ」
うなずいたぼくの頬に、あたたかい血が通いはじめる。
(了)