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トランク

作者: 達雄



-プロローグ-



 肌にまとわりつく暑さが、恐れおののき、まるで逃げるようにひいていくのを感じる。


 今日は八月八日。日曜日。時間はおそらく午前七時過ぎ。ゴルフバッグを入れる為に開けた車のトランクには、既に先客がいた。


 少し窮屈そうにトランクに横たわる『それ』は、不器用に薄汚れたレジャーシートにくるまれている。シートに浮かび上がる、赤茶けた染み、鼻をつくとんでもない異臭。もう理解できる。間違いない。見ずともわかる。

 あんなにも騒がしいと感じていた蝉の声は、心拍音に遮られてもう聴こえない。


 どうする?警察に連絡するか?連絡すれば警察に疑われるのか?ありえない。俺じゃない。だけど、何故俺の車に?これは誰だ?俺がやったのか?こんな大事な時期に?どうして?何故俺がこんな目に。


 手が震えていうことを効かない。これは、誰だ?諦めて警察に通報するか?どうする?

 しかし、この目で確かめたい。確かめなければ。何か思い出すかもしれない。


 腐臭と昨日の酒でようやく、吐き気が追いついてきた。中を確かめたい。誰だ?


 手が震える。シートを掴む。

 腹をくくれ。深く息を吐いて、レジャーシートを剥ぐ。





 田口洋介は、愛車のトランクを勢いよく閉め、ハイツの二階にある自分の部屋へ走った。


 まだ思考は追いついてこない。


 土足で自宅へあがる。トイレへと駆け込み、ありったけを吐き出した。凍てついた背筋に血液の流れをようやく感じる。洋介の意識は次第に冷静さを取り戻し、ようやく思考が追いついて来た。


「あれは…立花さん…。」


 トランクに横たわる動かない先客は、上司の立花 英彦であった。


「立花さんは、まずい…。俺は、はめられたのか…?でも、誰が…?ちきしょう…この時期に…こんな大事な時期に…!」


 立花 英彦は典型的なパワハラ上司であり、部下の手柄さえ平気で横取りする人物であった。とにかく横暴で傲慢。加えて知性や品格も持ち合わせておらず、目を付けた女性社員には、周囲を気にせずセクハラまがいの行動に出る。洋介の婚約者である美香も標的の一人であった。そしてなにより、立花は自分を出し抜いて、当時入社間もない洋介が大型の契約をとってきたことを、未だに根に持ち続けており、洋介を常に目の敵としていたのだ。

 社内の懇親会や謝恩会にて、アルコールが入ると決まって二人は互いに罵り合い、時折大きな衝突もあった。それは、昨晩の謝恩会も例外ではなかったのだ。


「警察に通報すれば、真っ先に疑われるのは俺だ…。」


 洋介は迷っていた。

 トイレから這いずるようにリビングへ向かい視線を上げる。午前七時二十一分。まだ今からならなんとか間に合う。

 今日のゴルフは重要な接待でもあった。入社から7年、おそらく洋介の会社の歴史上、最大の契約。自信があった。今日がその最終の仕上げともいえる接待なのだ。これを成功させ、年末には婚約者である美香と、最高のタイミングで式を挙げられる。

 挙げられるはずなのに。

 洋介は、成人して初めて涙を流した。悲しいのか、悔しいのか、洋介自身にも理由のわからない涙が溢れた。


「警察に…」


 と、電話を取り出すと同時に着信音が鳴った。ディスプレイに表示された名前は、『桐山 裕太』。着信の灯りが、洋介には暗闇の中を照らす希望の灯りに見えた。





 待ち合わせは七時二十分だった。時間にうるさい洋介は、いつも必ず十分前には待ち合わせ場所に現れた。昨日の謝恩会の深酒がたたったのか、まだ現れない。


 桐山裕太は、肌にまとわりつく暑さの中、洋介に電話を掛けた。


「…もしもし。」


 そのたった一言で裕太は、親友である洋介の異変に気付いた。


「洋介、どうした?」


「… … …。」


 間違いなく様子がおかしい。


「ちょっと待ってろ。」


 裕太は電話を切り、急いで自宅を後にした。

二人の自宅はそう遠くない。大学時代から意気投合し、同じ大手広告代理店へ入社、それ以来ずっと関係が続いており、公私を常に共にしていた。

 ロードバイクに跨り、大通りを抜けて洋介の自宅へ向かう。時計の針は七時三五分。洋介の自宅までの最速記録だった。


 洋介の住むハイツの階段を駆け上がる裕太の鼻に、微かに異臭が漂う。しかし裕太は気にもとめず洋介の自宅のドアを開けた。


「…裕太。」


 疲弊しきったように座り込む洋介がそこにいた。


「どうしたんだよ…。何があった。」

「…トランク…」

「トランク?」

「トランクに立花さんが、いた。」

「どういうことだ?」


 裕太は洋介の側に落ちていた車のキーを拾い、今度は落ちるように階段を降りていった。

 ハイツの駐車場にひときわ目立つ黒光りの欧州車。式を挙げることが決まり、去年の暮れに年度功労者に与えられる臨時ボーナスで、洋介が購入した自慢の愛車だ。洋介は憧れの車に子供のようにはしゃぎ、よく裕太をドライブへと連れ出した。

 洋介は出世欲に溢れ、上昇志向で野心家、その上プライドも高かったが、彼にはそれを補っても有り余る質の高い能力を持ち合わせていた。そんな、裕太にはないものを存分に持ち合わせた洋介は、裕太の自慢であり誇りであり、また尊い憧れの存在であったのだ。

 かたや裕太は、温和で温厚。他者との競争を嫌い、共存を望む、洋介とは真逆の性格で、何故そんな二人に深い友情が芽生えたのか、周囲はおろか、本人たちにも実はよくわかっていなかった。しかし、確かに二人の友情は現在まで堅く結ばれていたのだ。


 息を切らして洋介の車に近づいたところで、ようやく鼻をつく微かな異臭に裕太は気付いたが、それでも裕太はその手を止めることなくトランクを開け放った。

生温い空気と異臭が解放され、裕太に覆い被る。


「うっ!」


 こみあげる吐き気を強引に押し戻し、トランクを覗く。薄汚いシートには、血にまみれた見覚えのある顔。立花 英彦だった。トランクを閉めた裕太は、踵を返し洋介の元へ急いだ。


「な?…いただろ?立花さん。」


 疲弊しきった洋介の表情。人はたった一日で…いや、たった数分でこんなにも老け込んでしまうのかと裕太は思った。


「俺は終わりだ。何もかも。」


 プライドの高い洋介が見せた、初めての弱音だった。沈黙の時間が二人の間を通りすぎる。


「捨てよう。」


 裕太が呟いた。


「え?」


 洋介は希望とも軽蔑とも言えない、色のない表情で裕太を見つめた。


「捨てよう。立花さんを。」


 今度は洋介の目をしっかり見つめ、語尾を強めて裕太は言い放った。





 八時を過ぎる頃には、二人は洋介の自宅を後にしていた。心待ちにしていた接待のゴルフは、裕太が上司に連絡をとり、なんとかうまく帳尻を合わせた。あとは、立花 英彦の処理をどうするか。

 信号待ち、沈黙を破ったのは裕太だった。


「洋介、大学の時によく行っていた御岳山を覚えてるか?」


 御岳山とは、二人が大学時代よくたむろしていた山のことだ。洋介はすぐに思い出した。あの場所は確かに人気も無く、道路もまともに舗装されていないような場所だった。そんな一寸の愛想もないような場所だったが、洋介にとっては、授業の合間、放課後、二人が時間を忘れて互いのすべてを語り明かした美しい思い出の場所でもあった。そんな場所に、人を捨てに行く。洋介は美しい思い出が、腐りただれていくのを感じた。


「裕太…やっぱり俺…」

「自首するのか?」

「俺はやってない!やってないと思う…だから、真犯人を見つけて…」

「洋介、俺たちは警察でも探偵でもないんだ!そんなこと、できないよ…」

「でも…俺は…」


 良心の呵責に思い悩む洋介に裕太は続けた。


「美香ちゃん、どうするんだよ…。結婚するんだろ?それに、立花さんについて、幸い会社にはまだ連絡や報告は入っていない!時間がないんだよ。今じゃなきゃ!立花さんを捨てて、何もかも無しにしてしまうんだ。それに…」


 裕太は急に口ごもりだした。


「それに…洋介…、お前ほんとに覚えてないのか?昨日のこと…」

「え?」


 神妙な表情の裕太を見つめたまま、洋介は信号が変わったことに気付かない。プッと後続車のクラクションが洋介を急かす。


「洋介、青。」


 裕太の言葉にハッと気付き、洋介は走り出した。


「昨日…俺、何かした?いつの間にか泥酔してて、俺…よく覚えてなくて…立花さんといつものようにもめたような記憶は薄っすらとあるんだけど…」


 裕太は、深呼吸ともいえるほどの大きなため息をついた。


「いいか、よく聞け。洋介、お前は昨日、立花さんを殴ったんだよ。謝恩会の席で。いつもみたいに立花さん、悪酔いして美香ちゃんにセクハラめいたことをして…止めに行ったお前はそこから取っ組み合いになって、みんながいる前で手を出したんだ。」

「俺が…?そんな…」

「さすがに騒ぎになって、みんなが止めに入ったあとも二人の熱はなかなか冷めなくて…二人とも社長に謝恩会を追い出されたんだよ。」

「…追い出されたあとは?」

「ごめん。俺も社長達をなだめるのに必死で…すぐに二人を探しに会場を出たけど、洋介も立花さんも、見つからなくて…わからない…」


 洋介は自分の体から血液がひいていくのを感じた。もう確定ではないか。自分がやったのか?いや、そうじゃなくても真っ先に疑われるのは俺だ。洋介は探した。記憶の中を。自分ではないと言い切れる確たる証拠を。いや、証拠その物でなくてもいい。それに繋がる何かを。だが何も見つからなかった。


「どうすれば…」


 気づけば、外は懐かしい景色になっていた。何年ぶりだろう。卒業以来だ。

御岳山 15km ―――

 目に入った道路標識に、なくなく洋介は覚悟を決めた。





 守山美香はカレンダーを眺めていた。洋介くん接待と書かれた今日の日付に、お祝いディナーと書き足し微笑む。昨日のことは忘れよう。と、自分に言い聞かせて時計を見た。

午前七時半。


「まだ早いか。」


 そう呟くと、棚から式場のパンフレットと新婚旅行の行き先であるハワイのガイドブックを取り出した。ペラペラとページをめくるが、内容が入ってこない。昨日の出来事が脳裏を過るのだ。


「だめだ。全然入ってこない。」


 ことの発端は私だ。ごめん。心の中で美香は洋介に謝った。

 美香と洋介の出会いは二年前だった。社内の懇親会で初めてその存在を知ると同時に、女性社員からの洋介と裕太への人気の凄さにただただ驚愕した。

 次々と大きなビジネスを成功させる野心家の洋介と、堅実で温厚な裕太のコンビは、正反対なタイプだったからこその絶妙なバランスを生み出し、常に周囲を魅了した。そんな二人は、まさに女性社員達の憧れの存在であったのだ。

 そんな手の届かない存在の洋介との出会いのきっかけを与えてくれたのは、奇しくも立花英彦という男だった。

 入社間もない頃から、美香は立花から執拗なセクハラを受けていた。連日繰り返される上司からのセクハラに美香は、社会人の洗礼だと割り切ることで耐え忍んでいたが、それも長くは続かなかった。度重なる嫌がらせに美香の精神はもう限界に差し掛かっていた。そんなある時、立花のいつも以上に執拗なセクハラ行為を華麗に一蹴してくれたのが、洋介だった。

 二人はそれを機に、その距離を一気に縮めたが、元々洋介を目の敵にしていた立花は、一層洋介に対して敵意を露わにし、以前に増して美香に付きまとった。

 それでも洋介は美香を守り続けた。そして二人はいつしか婚約し、将来を約束することとなる。

 洋介は野心家でプライドも高く、ビジネスに対し冷酷な一面も見せたが、美香には優し男であった。時折見せる冷酷な一面に、美香は怯えることもあったが、それを裕太がフォローすることで二人の関係は保たれていたのだ。美香は二人の出会いに、奇跡すら感じていた。


 コツコツと秒針の音が響く部屋で、美香は走馬灯のように、二人の出会いを反芻していた。


「そろそろいいかな。」


 美香は昨夜のことが気になっていた。美香に対する立花のセクハラが原因で、折角の謝恩会が台無しになってしまったからだ。さらにその後も気になる。滞りなく事は運んだのだろうか。

美香のスマートフォンには、午前六時頃に洋介から『おはよう。これから準備する』とだけ連絡があった。

 スマートフォンに残る思い出の写真をしばらく眺めたあと、美香はそっと瞳を閉じた。

胸の奥からこみ上がる高揚を、飲み込むように必死に押さえ込み、美香は、洋介に電話を掛けることにした。





 あの頃の御岳山はもう其処にはなかった。建ち並ぶ目新しい家々。歩道には手を繋いで歩く母子の姿。静かだが、生活をするには実に理想的な街が其処にはあった。御岳山は、この数年で開発が進み新興住宅地として生まれ変わっていたのだ。


「そんな…」


 洋介は愕然とした。所々で新しい住宅を建てようと、建築業者が早々と仕事の用意をしている。しばらく巡回した後、僅かに残る何もないスペースがあった。


「少し、休憩しよう…」


 助手席から裕太がハザードスイッチに手を伸ばし、洋介は停車した。

そんな洋介に追い打ちをかけるように、車内後部から腐敗した立花の異臭が漏れ漂う。再び吐き気が洋介を襲う。


「洋介、一度外の空気を吸おう。御岳山はもう駄目だ。こんなに人気が多いと…目立ってしまう、考え直そう。」


 無言でコクコクと首を縦に振り、洋介は足早に外へ出た。裕太もすぐそれに続き外へ出たが、既に洋介は草むらで嘔吐している。洋介は人生で初めて自身の不幸を呪った。鼻の奥にへばりつく立花の腐臭がとれない。


「洋介…大丈夫か?」


 裕太は洋介の背中をさすった。


「洋介、しっかりしろ!ここは駄目だ。でも、どこかあるはずだ。別の場所を探すんだ!」


 青白い顔で俯き、目を充血させた洋介に裕太がそう言葉を掛けたその瞬間、洋介の電話が鳴った。おそるおそる電話を取り出す。そして洋介は画面を見たまま、凍りついた。

 婚約者である美香からの着信だった。

 無言で洋介は『美香』と表示されたディスプレイを裕太に見せた。


「とった方がいい…」


 裕太の指示を仰いだ洋介は、震える手で美香からの電話をとった。


「…おはよう、もしもし?」


 必死に震えを抑えながら、不自然な程自然に声を絞り出す洋介。


「おはよう。もうゴルフ場着いてる?」

「いや、まだだけど…もう、少しかかるかな?」

「そうなんだ。良かった!取り引き先の人と合流しちゃったら、電話できないもんね!」

「うん…そうだな。」

「実は、昨日のことが気になってて…」


 昨日のこと。

 洋介の心拍数が突然上がった。


「…き、昨日?」

「昨日の立花さんとのこと。」


 立花さん。

 トランクに『いる』立花英彦の血だらけの顔が洋介の脳裏を過る。冷や汗が滲み出しては止まらない。


「私のせいで、ほんといつもごめんね。私いつも洋介くんに守ってもらってばっかりで…。でも昨日もあんな騒ぎになっちゃったのに、洋介くんが守ってくれたって思うと、ちょっと嬉しかったりするんだ…ごめん、こんなの不謹慎だよね!社長もあんな騒ぎになってさすがに怒っていたけど、私としては、って言うか、女の子としては、やっぱり嬉しかった。ほんとありがと!」


 美香の言葉が耳をすり抜けていく。顔をあげると、裕太にも誰かから着信があったようで、洋介に「少し待ってろ」というジェスチャーをして、洋介から離れていった。


「今日のゴルフも頑張ってね!この仕事がひと段落すると、あとは式だね。洋介くん、面倒臭さがらないで、衣装合わせ付き合ってよー、今まで忙しいって付いて来てくれなかったんだからー!楽しみだなぁー。」


 あまりにも世界が違い過ぎてついていけない。洋介は、未だ嘗て自分と美香との距離をこんなにも長く感じたことはなかった。追い詰められていく。良心と罪悪感と眩しい理想の未来に洋介は追い詰められていた。


「…洋介くん?聞こえてる?」

「あ、ああ…!聞こえてるよ!大丈夫、ちゃんと付き合うよ。」

「ほんとー?なんか様子、変だよ?怪しいなぁー、ほんとにゴルフ…だよね?」


 ギョッとした。


「ゴルフだよ!ゴルフ!裕太も一緒!」

「ほんと?ならいいけど…隠し事とかなしだよー!私に嘘、つかないでね!」


 美香の言葉ひとつひとつが胸をえぐる。どうする?言うか?言った方がいいのか?ゴルフは午後に合流すれば、なんとかなるように裕太が段取りしてくれている。万が一今、ゴルフ場に向かっていないことが漏れても誤魔化せる。だけど…。洋介は美香に対する罪悪感に葛藤した。


「洋介くん、なんか調子悪いの?ちょっと様子が変だけど…昨日ちゃんと帰れたんだよね?」

「なんとか帰ったよ。大丈夫、大丈夫…」

「怪しい…女の影が見える…」

「何言ってんだよ、そんなわけないよ!」

「ほんとー?洋介くん、私のこと好き?」


 美香の眩しさに押し潰される。


「好きだよ。」


 まるで誰かの台詞を聞いているようだと洋介は思った。


「ありがと、仕事、頑張ってね!行ってらっしゃい!」


 洋介は電話を切った。もう引き返せない。急がなければ。洋介は遂に心から決意した。立花英彦を捨てようと。

でも、どこに捨てればいい。

 見計らったように裕太が戻ってきた。少し様子がおかしい。


「洋介、大変だ。立花さんと連絡がとれないって会社でちょっとした騒ぎになってる。」





 裕太をこれ以上巻き込めない。コンビニの駐車場で、洋介は思った。裕太はレジで会計を済ましている。店員と何故か目が合う。洋介は罪悪感から自然に目を逸らした。視線が怖かったのだ。おそるおそる視線を上げると、裕太が助手席に向かって歩いてきた。車内に漏れ出す異臭。もう限界だ。


「洋介、水。とりあえず飲め。」


 いつの間にか助手席に座る裕太が、ミネラルウォーターを差し出してきた。


「おお、サンキュー…」


 水を一口含み、洋介は考え込んだ。シュッシュッと音がする。裕太は消臭剤を車内に吹き付けている。


「気休め。」


 洋介が裕太の行動に気付いたのを察したのか、裕太が呟いた。

 洋介の電話がまた鳴った。後輩からだった。あまりにも考え込んだせいもあったのだろうか。それともいつもの癖なのか、洋介は自然に電話に出てしまった。


「あ、先輩!立花さん知らないですか?今日急ぎの用があったのに連絡とれないんですよー!」

「立花さん?…ごめん、わからないなぁ。」


 このままだと時間の問題だ。洋介は焦った。


「もし先輩、何かわかったら連絡もらえます?あ!でも先輩、今日、例のゴルフですよね?こんな時間にすいません!忙しいですよね、ほんとすみません。もしわかったらでいいんで、お願いします!」

「ああ、わかったよ…」


 時間がない。電話を切った洋介は裕太を見つめた。


「裕太、お前ここで降りろ。」

「は?」

「これ以上は巻き込めない。」

「何言ってんだよ、もう無理だよ。」

「あとは俺が一人で…」

「馬鹿言うな。もう俺も共犯だ!」

「でもお前を巻き込めない!」

「洋介、もうひとつだけあるんだ。捨てられる場所。」


 洋介は目を閉じた。何故裕太は自分にこんなにもしてくれるのだろう。なんて良い男なのだろうか。洋介とは正反対で、洋介自身にはないものを兼ね備えた裕太は、裕太にとって洋介が自慢であり、誇りであり、尊い憧れであるように、洋介にとってもまた裕太は、自慢であり、誇りであり、尊い憧れの存在であったのだ。そんな裕太を完全に巻き込んでしまった。


「ごめん、本当にごめん…。」


 洋介はすがるように謝った。涙を流す洋介に裕太は何も言わず、そこに佇むだけだった。


「どこへ向かえばいい?」


 しばらくして洋介が口を開いた。


「こうなったら、もう夜を待つしかない。一旦、立花さんを隠そう。花菱商事を覚えているか?」

「花菱商事…去年、不正があって倒産した?」

「そうだ。花菱商事のビル、まだ買い手がついていないんだ。建物もまだ残っているし、たった数時間程度なら立花さんを隠せるはずだ。」

「…案内してくれるか?」


 コンビニをあとにした二人は花菱ビルへと車を走らせた。裕太のナビを頼りに洋介が運転する。もう時計の針は9時半を回っていた。さすがに週末の街は人で賑わい始め、信号待ちの度に、洋介は視線に怯えた。洋介の車の隣で信号待ちをする車内の中年男性。横断歩道を通るカップル。反対車線で信号待ちをしているバイクの運転手。信号も渡らず立ち話をしている主婦らしき数人が、洋介の車を見て怪訝な表情をしている。目立たないように鼻に手を当て、チラチラこちらを見ながらコソコソ話しているのが洋介には見えた。

 信号が変わると同時にアクセルを踏み込む。


「やっぱり匂いが漏れ出してるな。」


 裕太がつぶやいた。洋介は何も答えられずに車を走らせる。


「会社でも、もう立花さんと連絡がとれないってちょっとした騒ぎになってるみたいだ。」


 裕太の言葉は既に独り言のようになっている。

もう後戻りはできない。これが最良の選択なのか。そもそも俺はやってない。今からでも。いやしかし、昨日の記憶がはっきりしない。下手すれば仕事も地位も美香も失う。何より俺がやったのかもしれない。

 様々な思考がまとわりついて洋介を苦しめる。


「洋介!警察だ!」


 ギョッとした。反対車線にいるパトカーとすれ違う。動悸が止まらない。バックミラー越しにパトカーが消えていくのを確認しながら、洋介は運転した。完全にパトカーが見えなくなりホッと我に返った瞬間、突然洋介は急ブレーキを踏んだ。前方を走る車が赤信号で停車していたのだ。凄まじいブレーキ音を鳴らし、洋介の車は急停車した。幸い衝突することなく事なきを得たが、もともと目立つ洋介の愛車だ。街行く人々は揃って洋介の愛車に注目した。


「洋介!何してんだ!しっかりしろ!」

「あ、ああ、すまん…」


 肩で息をする洋介。


「もともと目立つ車なんだ!余計目立ってどうするんだよ!」


 街行く人々は、洋介の車をジロジロと見ている。洋介はその内の何人かと目が合った。耐えられない。洋介は追い詰められていた。


「あと少しだ、あと少しでビルに着く!」


 車内にたちこめた立花の腐臭は、もう消臭剤では誤魔化せないほど充満している。

後戻りできない。洋介は必死にハンドルにしがみついた。





 裕太と花菱商事の関係は、裕太の入社間もない頃から続いていた。当時の先代花菱社長が裕太のことを特に気に掛け、可愛がっていたのだ。先代社長は、週末になると裕太を食事や道楽に誘い、裕太もまたそれに付き合った。裕太がゴルフに夢中になるきっかけを与えたのも、先代花菱社長だ。しかし、長く取り引きが続いていたある日、突然先代社長が急死、跡を継いだ社長の息子は経営者には向いておらず、不正を重ねた末に社長就任後、たった数年で花菱商事を倒産させしてしまったのだった。裕太は車から降りると、感慨深い表情でビルを見上げた。


 花菱ビルは、郊外の少し奥まった、人目につきづらい立地に建っていた。よく先代社長が秘密基地みたいだろと、よく裕太に笑ってビルの立地を皮肉ってみせた。確かに週末の午前中でも人目が全く気にならない。そんな場所に花菱ビルは無造作に立っていた。

 トランクから二人は立花を取り出す。もうとんでもない臭いだ。トランクの底に、立花から漏れ出した何かしらの液体が、大きな染みとなっているのが目に入った。裕太は、あの染み取れないだろうなと思った。


 花菱ビルは数年間、買い手がつかず放置されたままだった。夜な夜な若者達が肝試しだなんだと集まったり、時には不良少年達の憩いの場になっていたりと、不法進入が相次いでおり、中に入るにそう苦労はしなかった。

 無言で二人は立花を最上階の部屋へと運ぶ。


「とりあえずここで立花さんを隠そう。洋介、お前ちょっと休んどけ。」


 裕太は洋介を気遣った。


「少しは落ち着いたか?」


 窓を少し開けながら裕太は声を掛けたが、洋介は小さく首を横に振った。完全に憔悴しきっていた。罪の意識に押し潰されそうなのが裕太には手に取るように感じた。


「さっき、水と一緒に食えるもの買ったんだ。車から取ってくるよ。」

「…裕太、本当にごめん。」

「ああ」


 それ以上言葉を掛けず、裕太は最上階の何もない部屋を後にした。洋介と立花を置いて。





 美香の自宅のインターフォンが鳴った。インターフォンに映るスーツ姿の二人組の男性。まるでドラマのワンシーンのように手帳を取り出したその男達は刑事だと名乗った。


「守山美香さん、お忙しいところすみません。田口洋介さんという方、ご存知ですよね?少しお話をお聞かせください。」


 美香は玄関のロックを外し、二人の刑事を招き入れた。昨夜の出来事や、立花が昨夜から行方のわからない事実。洋介と立花の確執に至るまで、しばらく話は続いた。洋介はゴルフ場に来ていないらしい。


「彼、今からゴルフだって、電話で言ってました…。」


 深くため息をついて刑事は続けた。


「田口洋介さんと連絡がとれますか?」

「い、今すぐ…!」


 美香はスマートフォンがある寝室に向かった。スマートフォンを確認した美香は刑事の待つ玄関へ向かいながら洋介に電話を掛けた。コール音は鳴り続ける。しかし、取らない。美香は刑事と目が合い、スマートフォンを片手に首を横に振った。電話を切ったことを確認し、二人組の刑事は玄関のドアノブに手を掛けた。


「裕太さんは?桐山裕太さんとは会われましたか?」


 美香は『桐山裕太』と表示されたディスプレイを見せ、外に出ようとする刑事達を引き止めた。


「田口洋介さんの同僚の方ですよね?」

「裕太さんなら…彼なら何か知ってるかもしれません!」

「守山さん、掛けてもらえますか?」

「…はい。」


 美香は裕太に電話を掛けてみた。コール音が鳴る。一回、二回、三回。刑事達は神妙な顔つきで美香を見つめる。

七回、八回、九回。


「…美香ちゃん?」


 裕太の電話が繋がった。


「裕太さん!?」


 刑事達の手がドアノブから離れて、半歩美香に近づく。


「洋介くん、知らない?実は警察の方が来られて…」


 しばしの沈黙の後、裕太の深いため息が聞こえた。


「少し代わってもらえますか?」


 刑事の一人が小声で美香に話し掛けた。美香は無言で頷き、震える手で刑事に自分のスマートフォンを手渡した。


「もしもし。桐山裕太さんですね?」

「…はい。」





 洋介はシーツの隙間から覗く、立花の動かない瞳を見つめていた。一体どこで道を誤ったのだろうか。何もかも順風満帆だった。裕太や美香だけでなく、周囲にも恵まれていると自覚してきた。それに慢心することなく、仕事と向き合い、それに伴った対価ももらっていた。誰が立花をこんな目に合わせたのだろうか。俺か?昨日の記憶も未だはっきりしない。

 洋介の精神を、立花は死してなお蝕んでいく。そんなに僕のことが気に喰わないですか。洋介は心の中で立花に語り掛けた。立花は腐臭を放ったまま当然の如く動かない。

 バンっと、勢いよく部屋の扉が開いた。


「洋介!美香ちゃんから連絡があった!やばい、警察がもう動いてる!」

「え…?」


 ついさっきまでどうにも動かせなかった、洋介の手足がバタバタと目覚めた。


「な、なんで…」


 裕太は、車に置き忘れていた洋介のスマートフォンを洋介に投げ渡した。ディスプレイに『着信中 守山美香』と表示されている。裕太は髪をくしゃくしゃとこねくり回し、下を向き洋介を見ていない。はぁはぁ、何もしていないのに息があがる。体からまるで空気が漏れていくようだった。


「もしもし…」

「洋介くん!今どこ?警察の人が来て…立花さんが行方不明だって、それで、洋介くんのことを聞きに来て、それで、それで…」


 美香は混乱している様子だった。遠くから聞こえるパトカーのサイレン。洋介は窓に駆け寄り、耳を澄ませる。こちらに向かって音が大きくなってくる。


「一体何があったの?教えて、洋介くん!」


 美香の声が遠く離れていく。振り返り裕太を見る。いつの間にか裕太は、そこに座りこんで、文字通り頭を抱えている。終わりだ。裕太も巻き込んでしまった。すべてが終わる。もう立花の腐臭さえ洋介には届かないほど、洋介の意識はこの部屋から離れていた。サイレンが窓のすぐ下に聞こえる。バタバタと車のドアが開く音がして、騒がしくなってきた。


「裕太…」


 洋介にとって、唯一の希望は裕太であった。何もない。この状況を逆転させる方法も、また別の場所から逃れる方法も何もない。そう理解しているにも関わらず、洋介はすがるように裕太の名前を呼んだ。しかし。


「…洋介、もう終わりだ。なにもかも。すべて終わった。お前は終わった。」

「俺は終わったのか…?」

「お前が立花さんを殺したんだ。」

「俺が立花さんを…」


 静かに項垂れる裕太に、洋介は遂に宣告された。信じていた最後の希望である裕太に、自分が立花を殺したと。裕太は項垂れたまま顔を上げない。頭を抱えてそれ以上何も口にしなかった。洋介は宙を仰いだ。虚ろな瞳で窓を開け、動かない立花を見つめた。このたった数時間で洋介は自身の人生が終わるのを感じた。ビジネスの成功、美香との新しい生活、そしてその後の輝かしい未来。そのすべてが立花と共に、ボトボトと腐りただれて奈落の底へと堕ちていく音が洋介には確かに聞こえた。

窓の下では大勢の警官達が、今まさにこのビルに入ろうとしている。


「裕太…美香…」


 そう呟くと、洋介は窓枠に手を掛け次に足を掛けた。

 肌にまとわりつく暑い日だった。洋介は最後の力を振り絞り、窓枠を蹴った。



10



「あなたが桐山さん?」


 スーツ姿の大柄の男が裕太に声を掛けた。


「先程、守山美香さんの電話でお話しさせていただいた者です。」


 男は裕太に警察手帳を見せた。美香を訪ねた刑事の一人だ。


「はい。僕が桐山です。すみませんでした。こんなことになってしまって…」

「いや、仕方のないことです。そうお気を落とさず…」

「説得し続けたんですが…まさか、飛び降りるなんて…」


 ぞろぞろと部屋を警官達が埋めていく。シートにくるめられた立花も今まさに、外へと運び出されようとしていた。


「田口さん、即死でしたよ…頭から地面に叩きつけられて。彼の車のトランクから、凶器と思われる鈍器も見つかりました。詳しくは鑑識が調べますが、遺体の腐敗具合からみて、おそらく昨晩殺害されたんでしょう。」

「そうですか。二人とも、仲が悪かったから…美香ちゃんに、なんて言えば…」


 嗚咽を漏らす裕太を気の毒そうに見つめながら、刑事は続けた。


「こんな時に酷なことと思いますが、先程、電話でお聞かせいただいた内容、もう一度確認させていただけますか?」


 コクコクと首を縦に振り、裕太は涙を拭いて語り始めた。


「今日は大事な接待の日だったんです。洋介が待ち合わせ時間に来なかったので、心配して電話を掛けたら、すぐに来てくれって言われて…時間も無かったので、自分のロードバイクに乗って急いであいつの自宅へ行きました。そしたら立花さんを酔った勢いで殺してしまったって言われて。すぐに自首しようって言ったんですが、聞き入れてくれず…」


 裕太は涙でぐしゃぐしゃになった顔で続けた。


「立花さんの死体を捨てるのに協力しろって言われたんです。」


 刑事は手元のメモをとりながら裕太の話に聞き入っている。


「それは無理だ、自首しなきゃ、本当にすべて無くしてしまうぞって断ったんですが、大きなビジネスも、美香ちゃんとの結婚も無くすわけにはいかないって。協力しなければ、花菱商事のことバラすぞって。」

「花菱商事?このビルの?」

「はい。このビルを元々持っていた花菱商事の先代社長に、僕が賄賂めいたものを貰ってるって洋介はずっと疑っていて。でもそれはただの誤解なんです。花菱商事は元々、洋介が任されていた案件でした。たまたま先代に気に入られて可愛がっていただいた僕が、契約を取ることができて、あいつ、そのこと根に持ってたみたいで…」

「なるほど。」

「話を聞き入れてくれないと思った僕は、協力する振りをして、自首してくれるよう説得しようと思ったんです。」


 まだ部屋の中は騒がしく、警官達が所狭しと動き回っている。


「最初は御岳山に向かったんです。洋介と僕が大学時代によくたむろっていた場所で、当時は本当に何もない場所だったから。それを覚えていた洋介は、立花さんを捨てるのには丁度良いと思ったんだと思います。」

「御岳山…あそこ今はもう新興住宅地になって、以前に比べて随分と賑やかになりましたよね?」

「はい、僕も数年ぶりに行って驚きました。とても人目を忍んで何かできるような場所じゃなかったので… だから、御岳山でもう一度説得したんです。自首してくれって。」

「でも聞き入れてくれなかったと。」

「はい。でもその時、たまたま美香ちゃんから洋介に電話が入ったんです。なかなか出ようとしませんでしたが、連絡がとれないとなると不自然と思ったのでしょう。渋々洋介は電話をとりました。僕は洋介が電話に出たのを見計らって、その隙に会社の後輩に電話したんです。立花さんと連絡がとれない、昨日の騒ぎもあったことだし、もしもの時は警察に連絡しろってことだけ伝えて。会社で騒ぎになれば、当然洋介にも連絡がいきます。そうなると、考え直すんじゃないかと思って…苦肉の策ですが…」

「そのあと、ここに来られたんですね?」

「はい。花菱商事が倒産して以来、このビルが空き物件のまま買い手がついてないことを洋介も知っていたので。ひとまずここにしばらく隠そうと洋介が提案してきたんです。その道中でも何度となく説得しましたが、やはり全く応じてくれませんでした。」

「守山美香さんから桐山さんの電話に連絡があったのは、ここに到着してからですか?」

「そうです。この部屋へ立花さんを運んだあと、一度車へ水や食べ物を取りに行かされたんです。僕自身も限界を感じていたし、スマートフォンを洋介の車に置いたままだったので…洋介のことを警察に連絡しようとした時でした。」


 ふーっと刑事は大きく息を吐き、裕太を見つめた。


「電話のあと、最後に説得したんです。警察に行こうって。なのにあいつ…気が狂ったようにイヤダイヤダって騒ぎ出して…その窓からパトカーがビルに到着したのが見えたのか、急に血相を変えて…その窓から…」


 うっ、うっと、再び嗚咽を漏らす裕太を、気の毒そうに刑事は見つめ、優しく肩を撫でるように叩いた。


「桐山さん、辛かったですね。ひとまずここを出て、下へ降りましょう。」


 裕太は刑事に寄り添うように歩き出し、部屋を後にした。階段を一歩一歩慎重に下る。なんて長い階段だと裕太は思った。ビルを出て、刑事が裕太から離れていく。適当に裕太はその場に座り込んだ。長い一日だ。洋介が落ちたであろう場所には、艶やかな血痕が残されているだけで、もうそこに洋介はいなかった。見上げると、あの部屋の窓が見える。裕太はゴソゴソと自分のポケットから、スマートフォンを取り出し、電話を掛けた。


「もしもし。すべて滞りなく、事は済んだよ。」



-エピローグ-



 あいつは何もかもを持っていた。俺にないもの、俺が欲しかったもの、すべてを持ち合わせていた。初めて出会った時、望んで止まなかった理想の自分が、突然目の前に現れたような、そんな不思議な感覚さえあった。羨ましかった。あいつの全てが。

 だが俺自身、当然理解していた。あいつにはなれない。あいつのようになんて絶対になれないと。あいつの持っているものは努力で手に入るようなものは何ひとつ無かった。それを俺は当然のように理解していたし、受け入れていた。だからこそ、俺とあいつの間に友情が芽生えたんだと思う。


 ある夜あいつから、好きな子がいる、食事に誘いたいから、付き合ってくれと連れ出された。あいつは仕事に対しては誰よりも積極的だったが、昔から女性や恋愛のこととなると、途端に積極性に欠け、たちまちシャイになる一面があった。

 彼女と初めて出会った時のことを俺は今でも覚えている。あいつに初めて出会った時とはまた違う感覚だった。求めていた理想の女性そのものだった。容姿も、知性も、品格も、そのすべてが理想的だった。しかし、ほどなくして二人は交際を始めた。周囲も二人を祝福し、俺から見ても理想的なカップルに見えた。あいつはまたひとつ、俺が欲しくて仕方がないものを、いとも簡単に手に入れたのだ。


 二人の交際が始まってからも、俺を交えて三人で食事をすることが度々あったり、あいつが大きな案件を担当している時期には、稀に彼女と二人で食事することもあった。

そんな中、時折彼女はあいつが怖いと言った。ビジネスに向ける冷酷さがいつの日か自分に向くのではないかと怯えていた。その度に俺は陰ながら彼女を慰め、支え、二人を応援しながらも、どんどん彼女に惹かれていった。

 彼女との出会いから二年が過ぎた頃、当然のことながら二人は正式に婚約が決まってしまう。俺は初めてあいつに嫉妬した。


 もう諦めようとしていた頃、彼女から連絡があった。


「私、洋介くんと結婚できない。裕太さん、私あなたが好きなんです。」


 それは、忘れられない一言となった。あいつが持っているすべては、いかなる努力をもってしても手に入らないものだったはずなのに。最も欲しくて、最も手に入らないと思っていた彼女が、今まさに俺の元へ駆け寄ろうとしている。その瞬間、俺の自慢であり、誇りであり、そして尊い憧れであったあいつは、俺にとってただの忌むべき憎しみの対象へと成り下がった。


 あの夜、あいつと立花はいつも以上に罵倒し合っていた。ヒートアップした立花があいつの肩を強く押しのけたことで、反射的にあいつは立花を殴ってしまう。泥酔しながらも殴り合おうとする二人を中心に、謝恩会はたちまち酷い騒ぎとなった。激怒した社長に謝恩会を追い出された二人をすぐにでも追いかけたかったが、俺は社長の怒りを鎮めるのに必死で、ようやく社長が落ち着いた頃にはもう、俺は完全に二人を見失っていた。

 翌日の接待も控えていたこともあり、単純に心配になった俺はあいつの自宅へ向かった。もう日が変わってしばらく経つ頃、あいつのハイツの駐車場で、横たわる人影を見つけた。立花だった。あいつを追いかけて来たのかどうかは、今となってはわからない。

 立花は泥酔していたからだろう。力尽きたように、あいつの愛車の前で眠っていた。そんな立花に声を駆けようとしたその時だった。


「裕太さん?」


 彼女だった。彼女もまたあいつのその後を気に掛けてか、そこにいた。

 そもそも二人の騒動の発端は、立花が彼女に執拗なセクハラを迫ったことが原因だった。

 彼女と二人きりで会うのは、突然の彼女の告白以来だ。


「本当にこの人には参るね。」

「うん。」


 静まりかえった風景に二人だけの時間が流れるのを感じた。


「私、やっぱり洋介くんと結婚できない。したくない。」

「うん。」

「裕太さんは…、どう思っている?」

「…参っているよ。洋介にも。立花さんにもね。」


 冗談交じりに言った俺を、真剣な表情で彼女は見つめる。


「立花さんも洋介くんも、居なきゃいいのに。」


 そう彼女が呟いた時、自分の中の大事な何かが外れた。

俺はまず、彼女からあいつの自宅のスペアキーを借り、あいつの自宅へ向かった。ソファーで泥酔して眠るあいつを尻目に愛車のキーを拝借した俺は、駐車場に戻り、あいつの愛車のトランクを開けた。中には丁寧に畳まれた、大きめのレジャー用シートと数枚のビニール袋が積まれている。まず両手にビニール袋を被せた俺は、次にシートを取り出し、横たわる立花を適当にくるんだ。シートに包まれながらも、泥酔して眠り続ける立花を今度はトランクに詰め込む。

 そして、俺はトランク脇に備えられている工具を取り出した。ふと、何も言わない彼女のことが気になり振り返る。彼女は色のない瞳で俺を見ている。止める様子もなく、むしろその視線は俺の背中を押すようだった。

 俺は持っていた工具を、力まかせに二度振り下ろした。じわじわと、シートに血液が滲み出すのが見える。立花は当然のように動かない。最後に渾身の力を込め、もう一度だけ工具を振り下ろした。

俺は工具をトランクの奥へ投げ入れ、車のキーを彼女に渡した。彼女は何も言わず、あいつの部屋へと走っていく。両手のビニール袋をポケットに押し込み、彼女を待った。しばらくすると、彼女が部屋から出てくるのが見えた。真夜中の静寂の中、走り寄る彼女を抱き寄せ、俺は彼女の耳元で囁いた。


「まず俺達は立花の死体を捨てに御岳山に行く。美香ちゃんは八時半頃、洋介に電話してくれ。」

「電話?」

「ああ。今どこにいるか聞いて欲しいんだ。洋介はおそらく本当のことを言わない。いや、言えないはずだ。そのあと、結婚式の話や、明日の仕事の話を交えて、明るい話をして欲しい。明るければ明るい話題なほどいい。洋介はますます立花の死体を捨てざるおえなくなる。そして最後に、昨日の立花との衝突の話題を出してくれ。洋介は精神的に追い込まれるはずだ。」

「うまく…できるかな?でも御岳山って確か、何年か前から新興住宅地になってなかった?」

「そう、御岳山はちょうど去年あたりから開発がすすんで、新興住宅地になっているんだ。でも洋介はそのことを知らない。俺もそんなこと知らない振りをして、御岳山に捨てに行くよう提案する。変わり果てた御岳山を見て、洋介は心底焦るだろう。そのタイミングで美香ちゃんからの連絡を受ければ、ますます洋介は追い込まれるばずだ。俺は洋介が美香ちゃんと電話している隙に、後輩から連絡が来た振りをして、俺から後輩に連絡する。立花さんの失踪を伝えるために。そして、洋介にも確認して心当たりがないようなら、警察に届けろと指示を出す。しばらくすれば、必ず洋介の電話に後輩から連絡がくるはずだ。当然、洋介は知らないと答える。」

「うん。」

「そうすれば、会社も警察も動くはずだ。次に俺は、花菱商事の廃ビルに死体を隠そうと洋介に提案する。その道中は、とにかく人目が多い道を選んで、洋介を疑心暗鬼にさせ、精神的に追い込んでいく。その時、パトカーのひとつでも通れば上出来なんだけど…」

「パトカー?」

「必要以上に人の目を意識させるとこができれば、洋介をますます追い込むことができるからね。パトカーに対して俺が過剰に反応すれば、洋介も相当恐怖するはずだ。花菱ビルに着く頃、俺から一度だけ美香ちゃんにワンコールする。その頃にはもしかすると、美香ちゃんのところへ警察か会社の人間が訪ねて来ているかもしれない。俺からの着信に気付いたら俺に電話をして警察か、会社の人間に代わってくれ。あとは上手く話す。もし来ていないようなら、会社か警察が来るまで待つか、万が一、昼をまわっても誰も訪ねて来ない場合は、偶然を装って会社に連絡して欲しい。必ず立花の失踪の話題が出るはずだから。それを聞いたあと、昨日の騒動と立花の失踪を警察に伝えれば、嫌でも警察は動く。」

「そうすれば、私たち一緒になれるの?」

「うん。そして最後に洋介に電話してくれ。その頃にはもう、洋介の精神は極限まで追い込まれているはずだ。洋介は諦めるしかない。そして、逮捕されても洋介は俺の事は絶対に庇う。」

「ほんとに?ほんとに庇うかな?」

「俺と洋介は十年来の親友だ。悲しいけど、それだけは確かさ。全部終わったら、二人でお祝いのディナーで乾杯しよう。」

「嬉しい。裕太さん、私、嬉しい!」


 彼女は一層強く俺を抱き締めた。

 俺は彼女にひとつだけ嘘をついていた。

 彼女を抱き締め、満天の星を仰いぎながら、実はこの時すでにわかっていたのだ。おそらくあいつは逮捕されないって。あいつなら自ら命を絶つだろうって。

 なぜなら、俺とあいつは十年来の親友だから。



-了-


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