倒れた自転車
人生が上手くいかなかったとき、私達の世界はモノクロに見えるかもしれない。カラフルな世界に生きる人達を憎んでしまうこともあるだろう。彼女もきっとそうだった。ーー倒れた自転車を見つけるまではーー
それはとても暑い日のことだった。第一志望の学部ではないものの、一応大学に合格した彼女は学内の駐輪場近くを歩いていた。午前の講義も終わり、特にやることもないまま何となく外の空気を吸いたくてぶらぶらとしていた。視界を過ぎていくのはカラフルな光たち。明るい色に身を包んだ女子学生達が友達や恋人と笑いながら歩いている。彼女は彼らを自分の外側に感じる性質の持ち主で、ほんの少し若々しさに欠ける女ではあった。一人でいることが楽だと知っていて、自分がカラフルになるには幾分か擦れ過ぎていることを分かっている。だから彼女は今日も一人で青空の下モノクロの思考に溺れていた。
彼女の少し時間が遅くなった世界で、それは突然に起こった。彼女は駐輪場に自転車を停めようとする一人の男を見つけた。彼女は彼を知っている。彼は彼女と同じ高校の出身で、彼女のモノクロの世界に侵出してくるほどにカラフルを極めていた人間だった。自分に色は存在しない、そんな感覚に陥らせてくれる彼は全ての意味で彼女の敵だった。一方的な憎しみを抱いていた。そんな彼が自転車で埋め尽くされている駐輪場に、さらに自転車を停めようとしている。彼女は少し離れたところからその光景を眺めていた。
「あぁ……倒れる」
そう呟いたのか、思ったのか、彼女には分からない。でも、その言葉通り彼は自分の自転車を無理に停めようとして他の自転車を倒してしまった。ガシャンガシャンガシャン……。それはドミノが次々と倒れていくように、トランプタワーが一気に崩れ落ちていくように、人生がたった一度の受験の失敗でモノクロに脱色されていくように。彼は彼女とは違ってたった一度の同じチャンスで世界をよりカラフルにした。彼の世界には彼女の欲しいものが全て揃っている。きっと彼の中には倒れる物なんてない、彼女はそう感じていた。でも……。
「あぁ……倒れた」
青空はどこまでも続いている。風は絶え間なく吹いている。本当は……暑くて、歩くのも億劫なんだ。それでも汗でにじむ視界の中には、確かにモノクロとカラフルが交差していた。
「……ぷっ……。……ふふふ。あははは」
彼女はほんの少し、それでも、こらえたくない笑いを感じて笑った。彼の世界はきっとカラフルなんだろう。それでも、倒してしまった沢山の自転車を元に戻すのに苦労している。倒しすぎて、一つ元に戻してもまた突っかかっては倒してしまう。いくらカラフルな彼でも、一人で元に戻すのは大変だろう。
それは暑い日のことだった。自意識と、劣等感がほんの少しの懐かしさに変わった瞬間だった。あの日から脱色された世界の中で生きていた彼女は、駐輪場の近くで色を見つけたような気がした。そう、一人で元に戻すのは大変なんだ。感じたかもしれない懐かしさのせいにして、今日だけは敵に塩を送ってみようか。
「手伝いますよ」
その声に驚いた男は勢いよく振り向いた。そして元に戻したばかりの自転車に肘をぶつけた。ガシャンガシャンガシャン……。
女の大きな笑い声が、暑い日の駐輪場に響いていた。