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食堂陸上部

作者: ケビー氏

チッ、チッ、チッ。

時計の規則的な音が時を刻む。

授業が進められる中、俺は黒板の上にかかった時計を凝視し、

昼休みの鐘が鳴るのを、今か今かと待ち構えている。


(あと一分。あと一分で授業は終わる)


俺は緊張しながらその時を待った。

しかしその、たった一分が永遠に感じられる。

俺は、頭の中で食堂までの走行プランを練った。


終了の合図と共に机を飛びだし、一気に階段を駆け上り、駆け降りる。

山の斜面に沿うように建てられた校舎のアップダウンを克服し、

高等部棟から中等部棟を突っ切り、食堂に突入する。

そして先着10名しか食べられない限定プリンを獲得する。

今日もイメージトレーニングは完璧だ。


その時、俺は背後に殺気のようなものを感じた。

チラリと振り向くと、長身の生徒が、席からやや腰を浮かすように身構えていた。

獲物を狙うジャガーにも似た迫力だ。

俺のライバルの一人、海王寺だ。

我がクラス、高等部1Cでも指折りの優等生。


だが俺達、食堂陸上部の面々は、

毎回食堂に一着でゴールする絶対王者としての顔こそが奴の本性だと知っている。

ライバルは海王寺だけじゃない。

素早く小回りの利く小池、

クレバーかつトリッキーな走りを見せる谷原も侮れない。


「……という、えー、レポートの形式を守りつつ。

あー、来週までにプリントを提出すること。うー、今日の授業はこれで終了」


先生が終了の合図をした瞬間、

海王寺が席から跳ね上がるように机を飛び出した。

出遅れた俺も教室の出口へと突進した。

そして小池、谷原と続く。

この四人こそが我がクラスで

『食堂四天王』とも『食堂陸上部』とも呼ばれる四人なのだ。


教室を飛び出し、全力疾走に移った時に振り向くと、

小太りの神崎が、ゆっくりと教室から出てくるのが見えた。

『めんどくさい』が口癖の神崎は、競争と縁のない奴だった。

今は食堂陸上部と関係のない男に構っている時ではない。

一刻も早く海王寺に追いつき抜かさねば、プリンを獲得する事が難しくなる。

そう、俺達の目的はプリンなのだ。

先着10名分しか用意されていない、極上のプリンだ。


海王寺が廊下を左方向に曲がった。その先には外に通じる扉がある。

なるほど、そっちのルートを取るか。

山の斜面に設けられた階段を利用するのと、

校舎内を通って食堂に行くのではタイムに大きな違いが出る。

距離は大差ないが、障害物である他の生徒の数が違うのだ。


俺も海王寺の後に続いた。

だが、外に出て眼に入ったのは、

何段も続く階段を上っていく中学生の列だった。


下級生どもめ。お前らも限定プリンを狙っているのか。

ついこの間まで小学生だったくせに身の程しらずにもほどがある。

確かに皆が必死になるのも分かる。

先着10名にしか許されないプリンは、きっと勝利の味がするはずだ。


ここで諦める様であっては、

中等部の頃から毎日食堂へ走って鍛え続けた食堂陸上部の名が廃れる。

俺は中学生を押し退けつつ海王寺を追った。

不意に真横に人が並んできた。


小柄な人影、小池だ。

小池は、腕を上手く使って中学生を押し退け、

恐ろしいスピードで俺を追い抜いて行った。

やつは小柄だが体格がしっかりしており、押し合いには強い。

俺も負けじと、海王寺、小池を追った。

だが二人の姿はどんどん離れていき、やがて見失った。


それと同時に背後に強烈な人の気配を感じた。

ちっ、谷原までもが迫ってきてやがるぜ。

谷原は、日々の研究で食堂までの最短コースを熟知しており、最近では、

どの角度で机を飛び出せばタイム短縮に繋がるかまで計算しているらしい。

とにかく、谷原にまで抜かされる訳には行かない。


階段を駆け上ると、中等部校舎の入り口付近の分岐点に差し掛かった。

右方向に行って解放された昇降口から入るには、

少し階段を上り回り込んでターンする必要がある。

左方向に行って直接、大きなガラス扉から入る方が距離的には近いが、

扉を開ける時間のロスはどの程度だろう。


俺が迷いながらも左の道を選ぶと谷原は右の道へと走り出した。

俺は猛然とガラス張りの扉に飛びつく。

重い。俺は思わず舌打ちした。

やや錆びついた扉がなかなか開かない。

俺が苦戦しているのを尻目に目の前を谷原が、

ガラス越しに嘲笑交じりのウインクをしながら通り過ぎた。


しまった!

コースの選択ミスだ。これは大きな失敗だ。

やはりプリンは諦めるしかないのか!

いや、最後まで諦めるな。

俺は折れそうな心を叱咤しつつ、最後の力を振り絞った。

それに応えるようにバッシュが、がっちりと廊下を噛んで、力を地面へと伝える。

すさまじい加速で一瞬のうちに最高速へと達する。

みるみる食堂が迫る。

これならいけるか!


「くっ!」


しかし俺は両足に力をこめ、急ブレーキをかけた。

小柄な女子生徒が、足を引きずりながらフラフラと俺の進行方向に現れたからだ。

制服からすると中等部の生徒らしい。

バッシュの裏底が甲高い音を立て、ゴムが焼けるような変なにおいがした。

俺は彼女の背中ギリギリで静止した。


「きゃ、ご、ごめんなさい」


女子生徒が驚きに振り向きつつ、なぜか謝罪した。

彼女にしてみれば、一瞬にして男子高校生が

すぐそばに出現したように思えて混乱しているのだろう。

白い肌に整った目鼻立ち。下がり気味の眉が、弱気な印象を与える。

きゅっと後ろで縛ったポニーテールがよく似合っていた。


(か、かわいい!)


俺は思わず顔がニヤケそうになるのを必死で抑えた。

ついでに言うと、彼女は、銀色の杖で体を支えていた。

片足が少し不自由らしい。


「ご、ごめんなさい」

「いや、俺が走ってたのが悪いから」

「走るのを邪魔してごめんなさい」


 なんか謝られ過ぎて複雑な気分になってきた。


「いや、走るって言っても、ただの趣味っていうか、食堂陸上部って……」


 そこで俺は思い出した。


「やば、食堂!」


彼女から、身をひるがえして再加速する。

俺はロケット花火のような勢いで食堂に突入した。

が、時すでに遅し。

限定プリンは売り切れていた。


肩を落としながら俺がいつもの席に行くと、

先に来ていた海王寺、谷原、小池の三人が悔しそうに俯いているのが見えた。

海王寺に事情を聞くと柄にもなく頭を両手で抱えながら言った。


「確かに俺様は、高等部の中では食堂に一番で入った。

 だが中学生がもう、プリンを買っていてな」


「く、中学生か」


先ほど押しのけた以外にも先着がいたらしい。

中高一貫校のデメリットがこんなところにあったとは!

なんといっても、中等部の校舎は山の下り側で食堂に近い。

奴らはあどけない顔をしつつ大飢饉に現れるイナゴのように、

人気メニューを食い尽くしてしまうのだ。

先輩への配慮などという殊勝な考えは一切ないらしい。


許すまじ中学生!


そして、さっき会った可愛い女子のことを思いだして

『あ、キミだけは別だからね』と心の中で付け加えた。


海王寺が口惜しそうに言った。


「……まあ今日は、先生のプリント提出説明が長ったらしくて、

 授業が終わるのが一分遅かったからな。明日は絶対、手に入れる」


すると四人の背後から聞き覚えのある声がした。


「やあ、皆。僕はプリン、取れたよ」


声の主は、いつものんびり教室を出ている筈の、神崎だった。

その手には輝く限定プリンを携えていた。

俺を含め、皆が驚愕の目で神崎を見つめる。


「な、お前! 俺達より遅く教室を出たくせに、何でプリンが取れたんだ!」


「んー。キミら、食堂陸上部とか言ってマジになりすぎ。

 めんどくさいこと考えすぎ。プリンちゃんも怖がっちゃうよ」


神崎は笑うと、小太りな身体をゆすって悠々と席に着いた。

後で食べるつもりなのか、大事そうに黄金色のプリンをバッグにしまいこむ。

俺は首を傾げながらも食事を終えた。


   ***


ところで、俺にはこだわっている物がある。それは靴だ。

バスケットボール用のシューズいわゆるバッシュを使っている。

分厚い靴裏のブレーキング能力には定評がある。

体育館でバスケ部が、年中『キュキュキュ』っと音を鳴らしているあの靴だ。

この靴のおかげであの女子生徒にぶつからなくて済んだのだ。


そう我々、食堂陸上部には『危険を避ける』という鉄の掟がある。

学校の廊下を走ること自体、危険だろうって?

だからこそ競争にあたっては

F1レースの様なレギュレーション(規則)があるのだ。

廊下では教室の反対側を走行すること、

そしてトイレの入り口でも反対側を走行すること

(急に扉が開いて誰かが出てきたら危ないからな)。

曲がり角でインコースを取る時には十分に減速すること。

それにはバッシュが最適なのだ。滑りやすい廊下でも足元に不安はない。


ただ、バッシュにも様々な種類がある。

トップスピードとブレーキング能力のどちらを取るかは悩ましいところだ。

靴の重さが数グラム違うだけでも、食堂までのタイムに差が出るし、

靴の形によって空気抵抗の善し悪しも違う。

あと自分の足のサイズに最も適した靴を履かなければタイムは落ちる。

以前、バッシュが高価だからといって、将来もサイズが合うようにと、

ぶかぶかの靴を買って上手く走れなかった奴がいた。


ゴール直線で靴が脱げて転倒し涙目になったっけ。

……あの時は痛かったな。


   ***


俺達が中学生だった去年は、何度もプリンを食べることに成功していた。

食堂に近い中等部棟の『地の利』を享受しまくっていた。

だが高校生となり、食堂との距離が開いた現在では、

限定プリンを獲得する事は、ほぼ不可能に近いだろう。


だが、と俺は自分を奮い立たせる。

最短距離のルートで、これまで以上のスピードを実現できれば、

なんとか九、十位あたりに滑り込みセーフ出来るかもしれない。

如何なる時も希望さえ捨てなければ、物事は成功するものだ。


そして今、昼休み前の三時間目、

俺は腕時計をチラチラと眺めながら先生の終了の合図を待っている。


実は今回は必勝の作戦があるのだ。

今日の授業は、中等部棟の最上階にある共同実験室で行われている。

すなわち中学生と、ほぼ同じ条件で、競争できるという事だ。


これは偶然ではない。

俺は文系コースだが、あえて理系科目を履修し、

この実験室で授業を受けられる機会を作ったのだ。

しかも俺の席は、実験室の右下の端という好位置にある。

ここは成績が一番悪い奴の席だが食堂に近い分、かえって都合がいい。


行ける!

完璧だ!

俺はそう確信した。


再び俺が腕時計に目を落とすと長針はあと五分を指している。

あと五分。

あと五分で昼休みだ。

俺は出していたシャープペンをしまい、ノートを閉じ、教科書の下に敷いた。

こうすればノートを閉じる時間を短縮し、かと言って教科書は開いているから、

先生には授業に集中していないとは思われない。

ついでに俺は、教科書に挟んでいた財布を取り出し、首にかけた。

こうすれば途中で金を落とす心配も無い。


よし、準備は整った。

後は俺の『食堂陸上部』としての実力を信じるだけだ。


俺は姿勢を正し、先生の授業が終わるのを、静かに待った。

先生が教科書を閉じた。皆の顔に緊張の色が走る。


「今日の授業は、これでおわ……」


先生の言葉が終わらない内に、

俺は猛然と席を立ち実験室のドアを開けて外に躍り出た。


上手くいった!


少々フライング気味で先生に失礼かと思ったが、

元々理系の成績はこれ以上落ちようがないので問題なしだ。

多分今頃、皆は驚愕し口をあんぐりと開けながら顔を見合わせていることだろう。

優越感で満面の笑みを浮かべた俺はただただ、食堂へ疾走した。

と、背後で野生のジャガーの気配がした。

後ろを見ると海王寺が目を血走らせ鬼の形相で向かって来ていた。

俺ごときに敗れるのは王者のプライドが許さないのだろう。

しかし今日こそは、俺は限定プリンを食べると、心に誓ったのだ。

こんな所で海王寺に、むざむざ道を譲るわけには行かない。


俺は強行手段に出た。

スピードを上げ、海王寺と一定以上の間隔を取った後、

両足で急激にブレーキをかけたのだ。

海王寺は俺の背中に顔面をしたたかに打ち付けることになった。

海王寺は、よろめき、減速した。

油断したな。海王寺!

鉄の掟『危険を避ける』は、

一般生徒を巻き込まない為のルールだということを忘れたか。

俺達の間では、いつだって非情なる戦いしかないのさ。

俺は海王寺を、姿も見えなくなる程、引き離す。

王者もこの程度か。話にならんな。

そろそろ食堂が見えてきた。プリンは全て俺の物だ!


   ***


俺もまた油断しきっていたのだろう。

唐突に背中を何者かに蹴られ、俺は地面に倒れ込んだ。

憎悪の篭った目で相手を見ると、それは何と谷原だった。

な、なんで谷原がここに?

その時、俺は恐ろしいことを思いだした。

そういえば、こいつ授業の途中でトイレに行って……帰ってこなかったじゃないか!


「谷原……きさまっ」


「そうさ、トイレエスケープ作戦って事だ」


谷原は立ち上がろうとする俺の手足を、ワイヤーで縛り上げてしまった。

これでは走るどころか歩く事すら出来ない。


「ふざけるな! 今すぐこのワイヤーを解け!」


喚く俺に谷原は、冷たく言った。


「俺はな、皆から『谷原、帰ってこないな。あー、大の方なのね。

 トイレ大王なのね』と思われるリスクを取ったんだ! 

 これでプリンを食べられなければ俺は終わりなんだ!」


谷原に俺は何も言えなかった。

トイレ大王、谷原は食堂に駆け込んで行った。

その後、俺を睨みながら海王寺、そして小池も通過していった。

中学生、高三、高二の生徒も、縛られた俺を奇異の目で見ながら通過していった。

俺は半ば涙目だった。

今日の為にどれほどの努力したことだろう。

雨の日も晴れの日も毎日階段を上り下りし、

足腰を鍛え単純な頭から計画を絞り出し、

それに向けてのトレーニングも積んできた。

苦手な理系科目も、あえて取った。

全ては万端だったはずなのに。

縛られた足で、不器用にジャンプし、ぴょこぴょこと食堂の席まで行きついた。

そこで見たのは、海王寺、谷原、小池が昨日と同じ様に、頭を手で抱えて、

酷く落ち込んでいる姿だった。

そしてまた神崎が、プリンを手にしていた。


「お、お前ら俺より早く行ったのに、何でプリンを食べられなかったんだ?」


 すると谷原が、神崎を指差して言った。


「全てこいつのせいだ!

今日のプリンは出荷不足で一つしか売られていなかったんだ。

こいつが俺達より何故か早く来ていて、たった一つのプリンを手にいれたんだ!」


すると、そこに同じクラスの女子が通りかかった。


「谷原君、お腹の具合大丈夫だった? さっき授業に戻ってこなかったけど。

 先生が心配していたわよ」


その女子の声音にはどこか笑いを噛みしめる響きがあった。

谷原が溜息を付いて額を手で覆った。

時々手の甲で涙を拭っている様にも見えた。

頑張れ、トイレ大王。

神崎は相変わらず、へらへらと笑ったままだった。


「僕はこのプリンがとても好きなんだ。

 多分、プリンも僕の事が好きなんじゃないかなぁ」


そして、プリンを慈しむようにバッグの中にしまいこんだ。

まるで頬袋にヒマワリを詰め込むハムスターだ。

俺はそんな様子に苛立ちながらも、それ以上にある疑問を強く感じた。


(神崎は、毎回俺達より遅く教室を出ている筈なのに、

 何故いつも俺達より早く食堂に着くのだろう?)


俺は、神崎の後を尾行する事を決意した。

神崎がどんな手段を用いているにせよ、一位を取らせ続ける訳には行かない。

奴の謎を解かなければ、卒業するまでプリンにはありつけないだろう。

強い闘志が炎の様に燃え上がった。


   ***


翌日、いつも通り姿勢を正しながら終わりの合図を待つ。

早く飛び出そうとする体の疼きを無理やり抑え込む。

今日の目的はあくまで尾行であり、一早く食堂に辿り着く事ではない。

いつもより長く感じる授業がやっと終わりを迎える。

胸の鼓動が高まる。

授業終了三分前になると、先生の行動一つ一つが

終了の合図に繋がるような気がして緊張の度合いが高まった。

先生が教科書を閉じた。

皆の目の色が変わり、いつでも出発出来るように身構える。

俺も一瞬、反射的に身構えてしまい、あわてて肩の力を抜いた。


「終了」

 

先生の授業終了の合図が高らかに教室内に響いた。

生徒達は一斉に席を立ち、食堂に向かって走り始めた。

俺は普段よりも席を立つ時間を少し遅くした。

神崎とほぼ同じ時刻に教室を出るためだ。

俺が教室を出ると案の定、神崎がのんびりと教室から出てきた。

ここまで遅くて、本当に一位が取れるのか俺は訝しみながら神崎を尾行した。

神崎は教室の左側にある扉から外に出て階段を降りた。

ここまでは俺達がいつも通るルートと同じである。

しかしここから何が違うのだろうか。


もうすでに海王寺達から大分距離を離されているが、果たして大丈夫なのか。

すると神崎は、右の上り階段の方ではなく、左の下り階段の方に走り始めた。

下り階段は食堂とは反対方向だ。使用するのは自殺行為でしかない。

しかし、神崎を追わないわけにはいかない。

俺も神崎の姿を見失わない様に、階段を下って行った。

どう考えてもこのルートで一位が取れる筈が無い。


しかし神崎は振り向きもせず階段を下り、小高い丘の道を上っていった。

丘を上り切ると、神崎は、主に中三の教室がある建物へ入って行った。

その時、一瞬、神崎がこちらを振り向いたように見えたので、

俺は慌てて近くにあった屏に隠れた。

神崎は何事もなかったかの様に、また走り始めた。

俺は一安心して尾行を再開した。

神崎は建物の中に入ると廊下を一直線に走っていき、

一番奥の扉を開いて中に入った。

俺も急いで続く。

入った瞬間、俺は驚いた。

そこで見たのは多くの先生の姿だった。


「え、あ、あれ?」


「おお、何だ。お前、元気か。高等部でもしっかりやってるか?」


「あ、せ、先生、お久しぶりです」


俺は、中学一年の時の担任に声をかけられてしどろもどろになってしまった。

ここは中等部の教員室じゃないか!

そして、かつての担任の肩越しに窓の外を見て驚いた。

目の前に食堂が悠然と建っていたのである。

こんな位置関係だったのか。

中等部の時から教員室には足を向けたくないタイプの生徒だったので、

全く気づいていなかった。

目の前の食堂は砂漠に現れたオアシスのように神々しく見えた。

そこに入っていく神崎の姿が小さく見えた。

神崎。

お前はなんて大胆な奴なんだ。

こんなショートカットルートは思いついたってそうそう使えるもんじゃない。

ある意味、大物としか言いようがない。


「せ、先生、失礼します」


「あ、ちょっと待て」

 

窓側のドアから神崎を追おうとした俺を、かつての担任が呼び止めた。

そしてゆっくりと口を開いた。


   ***


俺が食堂の席に腰をおろした頃、まだ食堂陸上部の面々は到着していなかった。

海王寺達の声は遠くの階段で反響するのがかすかに聞こえるだけだった。

やがて海王寺、小池、谷原の三人が姿を現し、

既に席について昼食を食べている俺と神崎を見て目を丸くして言った。


「お前らあんなに遅く教室を出て、何で俺達より早く食堂に着いてるんだ?」


神崎はいつもの様に聞き流す様にしていた。

俺もそれに倣った。


「ま、いいから。さて、プリンをいただくとするか」


俺はプリンのパッケージをピリリとはがした。

プラスチック製の小さなスプーンをぷるぷると震える黄色い湖面に突き立てた。

やや大きめに掬ったひとさじを口へと運ぶ。


「くうううっ!」


思わず声が出た。

口中に広がるプリンの甘味と優越感が、俺の顔の筋肉を緩ませてニヤニヤさせた。

その時ゴクリとツバを飲みこむ大きな音がした。

三人のライバル達が、羨望と屈辱が入り混じった表情で、プリンを睨んでいた。

俺は三人にプリンをぐいっと差し出した。


「さあ、食べな。分けてやるよ。一人一口ずつになるけどな」


ライバル達は俺の意外な申し出に一瞬呆けていたが、

すぐにスプーンを伸ばしてプリンを口へと運んだ。


「むううっ、美味い!」


「ひょおうっ、とろける」


「なるほど卵の鮮度か」


三者三様の喜びの声に、また誰かがノドを大きく鳴らした。

それは神崎がツバを飲みこむ音だった。

小池がそれを咎めた。


「何だよ神崎。いやしいなあ、お前はもう十分に食っただろう?」


「あ、ああ、そうだね。僕は向こうで食べるから」


神崎はプリンの入ったバッグを大事そうに抱えると、

後ずさりしながら食堂から退出していった。

それを見送っていた谷原がボソリとつぶやいた。


「理屈から言えば、ショートカットルートを使うしかない。

 左の階段下から丘経由で中等部の職員室を抜けて食堂に行くルートだ。

 だが、あくまで理屈で実際には無理なはずだ。

 先生方が職員室を抜け道にするなど認めるはずがない」


さすが谷原、頭脳派だ。

トイレ大王でもあるけど。


「さあ、プリンも食べたし、皆、風にあたろうか」


俺は皆に説明を始めることにした。


   ***


俺達は食堂のテラスに出て、中等部棟に面した中庭を見下ろしていた。


「ええっ、神崎って中等部に妹がいたのか?」と小池。


「うわ、全然似てねぇ! ていうか、けっこう可愛いじゃん」

 と谷原が両手で双眼鏡を覗き込むようなポーズを取る。


くそ、もう少し遠目の方が良かっただろうか。

緑が生い茂る中庭のベンチに神崎とその妹が並んで座っている。

妹は美味しそうに、そして嬉しそうにプリンを食べている。

その横で神崎が複雑な表情で座っている。


「彼女は事故で足が不自由になってからひきこもりがちになった。

 学校にも来たり来なかったりでな。

 神崎は兄貴として色々手を尽くしたらしいが難しかったようだ」


「え、そうなの? あの子、あんなにニコニコして登校してきてるぜ」


「ああ、小池。そこでキーになったのは『伝説のプリン』さ」


「待てよ。確かに極上なプリンだが『伝説』なんて呼ばれるほどだろうか」 


 怪訝な顔をする小池に俺は言った。


「いや『伝説』なのさ。中等部棟は食堂の入り口近くにある。

 俺達『食堂陸上部』のアツい走りを目にすることが多かったようだ」


俺達が走り回る姿を、前から彼女は見ていたと言う事だ。


「そんな俺達『食堂陸上部』ですら、求めてもなかなか手に入らないから

 プリンは『伝説』級アイテムになったんだ」


神崎は妹に、そんな『伝説のプリン』を毎日一緒に食べようと誘ったのだ。

『お兄ちゃんが食堂陸上部を打ち負かしてプリンを手に入れるから』と言って。

小太りでスポーツも不得意な兄が、どうやってプリンを手に入れるのか、

食堂陸上部をどうやって打ち負かすのか興味があった、というのが

正直なところだったろう。

ただ、確かにそれが彼女が学校へと再び足を向けるきっかけになったのだ。


「でもさ、神崎はどうやって職員室を抜け道に使えたんだ」


そう訊ねる小池に俺が答えようとすると、谷原が制して言った。


「俺達のかつての担任、あの先生が協力してくれたんだろ?」


「ああ、そうだ。そして、あの先生は現在、彼女の担任でもあるんだ」


小池も谷原も納得した落ち着いた表情をしていた。

するとそれまで黙っていた海王寺が、一歩進み出てきた。


「俺様が聞きたいことは一つだけだ」

 絶対王者らしい風格だが、不思議と圧力は感じなかった。


「さっき、なんで俺達にプリンを分けてくれたんだ?」

海王寺の口の端には静かな微笑みがたたえられていた。


だから俺もニヤリと返した。

「俺が一人で食べたいのは、勝利の味がするプリンだからさ」


   ***


時計がまた昼休みを告げる。

『食堂陸上部』の部員達は、我先にと教室を飛び出した。

俺も教室を飛び出す。

すると、隣の教室から、ほぼ同時に神崎が飛び出してくるのが、見えた。

神崎も皆と同じ様に、走るようになったのだ。

妹が、『私はもう元気になって大丈夫だから、

今度はお兄ちゃんがプリンを食べて』と言ったそうだ。

そして『食堂陸上部の人達と正々堂々と勝負して』とも。


彼女、神崎加奈ちゃんのその言葉に、神崎も、神崎のご両親も、

嬉し涙と鼻水で顔をグシャグシャにしたそうだ。

誕生日でもないのにバースデイケーキでお祝いしたらしい。

ちなみに、俺がなぜ神崎の妹のファーストネームを知っているのかは内緒である。

もちろん神崎家の様子に詳しいことも詮索してはならない。

加奈ちゃ……いや、妹さんと仲良くなったのではないか、

みたいな勘繰りをしてはならないのである。


食堂へ走る中学生を制し、俺はバッシュを鳴らす。

天にも届けとばかりに階段を駆けのぼる。

左右に海王寺、小池、谷原、そして少し遅れて神崎が並ぶ。

輝く太陽の光の下、俺達は歓声を挙げながら食堂へと駆け込んだ。


あの日以来、プリンは獲得できていないが、俺に後悔はない。


( END )

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