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宵白双月

作者: 水無飛沫

マントラ(真言)。

真実の言葉は、偽りあらざる者の内に住む。


かの有名な弘法大師が開いたとされる真言宗。

大師に由縁ある数多の寺院の中でも、ここは一層抜きんでて異色だった。

-四十九万供養寺-

いつからか、人々はその寺のことをそう呼んでいた。

昔は別の名前があったのだが、中にいる僧たちも供養寺と呼んでいるため、

本当の名前を知る者は少なかったりする。


もう百年以上も前になるだろうか。

時の上人であった覚源は、数日死んだように眠った後に、地獄にいる閻魔さまにお会いしてきたのだという。

それ以来、彼らはただ地獄に落ちた者たちの苦しみを和らげるためだけに経を唱えている。

その地方は数え切れないほどの山があり、同じほどの寺があったが、そんな異色の経歴を持つ供養寺は一際目立った存在だった。


寺は山の中腹に建っており、ふもとからそこまでの道はきれいに整理されており、容易く登れる。

その山を寺を越えてさらに登っていくと供養寺の僧たちが修行している滝がある。

道といえるような道はなく、緑を掻き分け頂上へと通じる断崖を上ると、ようやくそれは見える。

至る道が困難であるほど、絶景というのは美しさを増すもので、圧倒的な自然がそこに存在していた。

途中の突起で二段に分かたれた滝は、轟々と音を立てて滝壺に降り注いでいる。

降り注いだ飛沫が霧となって岩場を覆うさまは、見る者に近寄りがたい印象を与える。


さらに、崖に比べれば緩やかな斜面を下って滝に近づくと、それは姿を変える。

二段に分かれていた滝は下方から見ると、その切れ目が隠れて、龍のように身をくねらせた一筋の滝のように見え、

滝の降り注ぐ岩場と合わせて、無骨ながらも、どこか心安らぐ風流な感を出している。


その滝では、今日もうだるような暑さの中、数名の僧たちが滝に打たれて修行をしていた。

男らは口々に経を唱え、その宗派に伝わる教えを実践している。


さて、滝に打たれ、一心不乱に亡者のために経を上げている者の中で一番歳の若い男がいた。

やや細身のその男は年の頃は18ぐらいだろうか。凛とした顔つきだが、眼の奥に宿る光は人懐こさを感じさせる。

彼は山葡萄と呼ばれているが、これはもちろん本名ではない。

この山では誰も互いに本名を知らなかったし、仏の前で必要なものでもなかったからだ。

けれども俗世と無縁でいられない現し世では、名前がなければなにかと不都合が生じてしまう。

そこで彼らは互いを呼ぶ際に、自分たちの修行場所である山にちなんだ名前で呼び合っていた。


男は山葡萄と名付けられた。

若々しくも、しっかりとした眼光は、なるほど夏山に実ったそれを連想させる。

性格も顔つきと違わず、先輩を敬い、一度聞いた教えを決して忘れない実直で思いやりのある若者だった。


……耳元で轟々と音が渦巻いている。

男は信念のままに動かした口はそのままに、うっすらと目を開けた。

別段、念仏を唱える一心不乱の集中が途切れたわけではない。

彼にも不思議なことに、目を開くことが自然な流れのように感じたのだ。

未だかつて、目を開けて念仏を唱えるなんてことはなかった。

五感すべてを遮断して、ただ心だけで供養する。彼は先輩たちからそう教わっていたのだ。

然るに、集中して目を閉ざせば、ただ自然の中に己を感じ、善意のままに念仏を唱えて、

日が暮れるまで再び目を開くことはなかったはずだ。

ではこれは一体なんなのだ?

自問しながらも、男は眺めた。

滝の内側から、雫が煌めきながら大地に落ちて、川となって流れる。

目の前にはうっすらと虹がかかっていて、まるで自分たちを迎え入れるかのようにその両手を広げている。


若い僧の目は、その見慣れたはずの光景に釘付けになった。

跳ね返り、踊るように舞う水飛沫。滝の姿を映すほどに凪いだ水面。そして、煌々と燃える太陽に白銀の月。

想像しえなかった静と動がそこにはあった。

一瞬一瞬のうちにその姿を変えながらも、本質的には変わらない自然。

そしてそれは、刹那では変わらずとも、時代をかけて変わっていく姿でもあった。

自然は……自分たち人間も含めて、静動のままにそこにあり、営む。

変わらないものは何一つとしてなく、本質はなんら変わることがない。

仏の教えを実感した男の口は、念仏を唱えることをやめた。


耳の奥では滝の音が依然激しく響いていたが、その節々で先達の唱える経が聞こえて、山葡萄は我に返った。

慌しくも心を落ち着け、再び口を開き、死者を救う技を口にする。

うっすらと目を開け自然の只中に自らを置きながら……。


それからどれくらい経ったのだろう。

男は自らの視界の中に違和感を感じた。

一心不乱に念仏を唱えながらも、その違和感を拭うことはできず、自らの修行不足を悔いながらも、その違和感の正体を追った。

飛沫乱れる滝壺から外を眺め、川を囲むように広がる森の入り口……。

木々の中に女の姿が見えた。

女は白い着物を身につけ、歳の頃は十五くらいだろうか。

薄く涼しそうな白の着物は、いかにも夏に相応しい。

男からは距離が20~30間は離れているように思えたが、その表情までしっかりと見ることができた。

幼さの残る妖艶な顔立ちをしていて、口許には、はにかむように微笑みを浮かべている。

幻でも見たのだろうか、と男は考えた。

山においても、仏門においても女人のことを考えるのは禁忌に等しい。

罪悪感に苛まれて目を閉じ、男はひたすらに経を唱える。

滝に打たれ身を清め、ただひたすらに仏念す……。


「おい、山葡萄。そろそろ戻るぞ」

隣で経を上げていた先達に声をかけられて、男は我に帰った。


目を開けて、既に夕刻になっていることに気がついた。

それほどに彼は無心に供養をしていた。

けれど目線の先には相変わらず女が佇んでいて、男の心にはここで初めて得体の知れない者に対する恐怖が生じた。

「山査子先輩。あれは、なんなのでしょう?」

名前から連想する花とは違い、山査子と呼ばれた男は日に焼けて褐色の肌をした、恰幅のいい風体をしていた。

それでも人を引きつけるような笑顔は、なるほど山査子のそれに似ているようにも思える。

山査子は後輩の疑問に答えようと、彼の視線を追ったけれど、そこに何かを見出すことはできなかった。

「あれとはなんだ?」

「先ほどからそこにいる、あの女人のことです」

「どこだ?俺には見えないぞ」

はて、これはどういうことだ。

ふつふつと山葡萄の中に疑問が沸き上がる。

山葡萄の視線の先には、確かに少女が立っている。

その頬はうっすらと紅に染まっており、伏し目がちに山葡萄を見ている。

けれど山査子先輩は女人などいない、と言う。

ならば、と山葡萄は考える。

「あれは、化生妖怪の類なのでしょうか」

初めて見る人外の存在の、そのあまりに無垢な姿に、山葡萄は唖然とした。

「それか亡霊魑魅魍魎の類か……」

今までとは違い、低い声音で山査子がつぶやく。

考えてみれば、おかしな話だ。

山深くに少女が一人でいることも、これだけ距離が離れているにも関わらず、少女の表情顔形まではっきりと見えていることも。

いや、それだけではない。艶めかしく光を反射させている腰まで伸びた髪の質感、柔らかそうな手の爪、光を吸い込むような白さをした着物に隠された女の肌の触り心地……。

ありえない感覚に、山葡萄は目頭を押さえて、低くうめいた。

そのただならぬ様子に山査子は彼の手を引いて、急いで山を降りようとした。

先輩に手を引かれながらも、山葡萄は山を降りるためにはこの妖のそばを通らなければならないのだと気付き、足を止めた。

「大丈夫だ。明るいうちなら奴らは手を出せん」

山葡萄を説き伏せると、山査子は早足に女へと近づいていく。

既に太陽は山にかかっていた。急がなければ日が暮れてしまう。

夕陽で朱に染まる女の着物を目にして、山葡萄は目を閉じて、経を唱えた。

山査子の先導のままに山を降りるが、どんなに一生懸命目を閉じても、女が見えてしまう。

心臓の鼓動と同じ速さで、女との距離が詰まる。

「……山葡萄」

すれ違うその刹那、男は確かに妖の口が動き、自分の名前を刻むのを見た。

紅葉のように頬を染め、白い袖口で口許を隠し乙女のように微笑むと、少女はその姿を消した。


さて、無事に寺の道場まで帰ることができた山葡萄だったが、それからも一騒動だった。

山に魅入られた山葡萄の話は、すぐさま寺中に広まり、騒然となった。

魅入られた者は、山の主に連れて行かれる。

どこの山にも似たような話はあり、助かるためには法力で追い払うか、山の主の力の及ばないような遠い場所まで逃げるしかない。

そして話し合いの結果、皆で山葡萄を助ける算段になった。

遠くへ逃がそうにも、彼らもまた世捨て人だったため、誰も遠くに頼れる知り合いはいなかった。

そこで山葡萄は、時の上人であった歳慧によって体の隅々にまで経を書かれると、堂にある巨大な大日如来の像の前に座らされる。

座禅を組んだそこは、秘術の編みこまれた曼荼羅の上だった。

そこから見上げた如来さまは、像の左右に配置された炎に照らされ、まるで威圧するようにそびえていた。

山葡萄の後ろには数多の僧が待機していた。

彼を救おうと名乗り出た者その数八十名余り。道場のほとんどの僧が堂に集結していた。

道場の壁には一面に、神聖な札が貼られ、扉は堅く閉ざされていた。


山を燃やしている残照が、やがて消える頃、全ての準備が整った。

山吹色の法衣に身を包み、頬まで届くような白眉をした老人が、厳かに像の前に座る。

老衰のためだろうか。体は小さく、動きも緩慢であったが、仏の前に立っても失われない不思議な雰囲気を持った老人だった。

彼こそが歳慧上人その人であった。

経文、数珠、念珠、三鈷杵、五鈷杵。

それらの仏具を用意した上人が、手の中で印を結ぶ。


上人が経を唱えるのとほぼ同時に、堂の中にいた全ての僧が同調した。

八十名余りの僧が一斉に経を唱える様子は、まさに圧巻だった。

心乱さず、今生の穢れを祓い清めるその経は、まるで祝詞のように朗々と堂に響き渡った。

八百万の言を持つその経は、日没から夜明けにかけて不眠不休で行われる。


最初の数刻は何事もなく過ぎていった。

滴り落ちる汗が目に入っても、誰一人として集中を欠かすことなく、そこにいる誰もが経の中に身を置いていた。

ただ死者のために祈り奉る。

今までとして例外はなく、今回とて例外ではない。

業を絶つのが、供養寺の本質。

生きながらに業を背負った神ですら、仏門に交わることで救われるのだ。


念仏が始まってから、どれくらいが経ったのだろうか。

炎が揺らめく程度の風が起こった。

如来さまを見つめていた山葡萄は、大日如来の顔に翳りが差したので気がついたが、果たして他の僧は気がついたのだろうか。

いや、それに気づいた山葡萄でさえ、無心で経を唱えていた。

彼ら僧の目指すところは、経と一体になることであり、それすなわち魂の救済であった。


もう一度、大きな風が吹いた。

大日如来を照らす篝火が、ふぅと消える。

けれどそれも一瞬で、すぐに煌々と如来さまを照らし出す。

誰一人としてそのことに気をそらす者はなく、それゆえに山葡萄がその場から忽然と姿を消していることに気がつく者もいなかった。


気がつくと、山葡萄は滝に打たれていた。

口は変わらずに経を唱えていて、時間の止まったような飛沫を眺めている。

夜空には満ちた月が鈍く輝き、水面にも姿を反射させていた。

上下双方から照らされた水飛沫は、まるで細かく分かたれた鉱石のように輝いていた。

音は何一つ聞こえず、自らの経すら山葡萄の耳には届かなかった。


自分の身に起きていることを理解した山葡萄は、もう心穏やかではいられなかった。

音は一切聞こえず、体は縛られたように動かず……。

ただ、口だけはいつものように経を唱えているのがわかる。

まるで自然の牢獄にいるようだった。

一陣の風が水面を走ると、水月がその姿をゆがませる。

その時、何も聞こえなくなっていた耳が、鈴の音を拾い上げる。

音のした方を見ると、夜の闇にぽっかりと白い影が浮かび上がっていた。


首をかしげて恥らうように袖口で口許を隠している。

腰まで伸ばした髪は艶めかしく、髪に飾った鈴が月光を反射させている。

女は滝を挟んで、すぐ近い所で山葡萄と対峙している。

突然現れた女に驚いていると、女が自分の名を呼んでいるのがわかった。

名を支配された者は、妖の支配を逃れることはできない。

けれど、山葡萄のそれはあざなであり真名ではなかった。

それゆえ、妖の支配は彼の体を支配するに止まり、心まで支配することはできなかったのだ。

「山葡萄―――」

女が切なげに呼びかけるも、山葡萄の口から流れる念仏が止まることはない。

彼の心は、既に平静さからかけ離れており、恐怖と情念の間で揺れていた。


微笑んで頬を染めたかと思ったら、次の瞬間には悲しみに暮れる妖の表情に、山葡萄は自分が魅かれているのを感じていた。

自分の感情を恐れて目を逸らそうと試みたが、女から視線を外すことは叶わなかった。

ただ自由になる己の心と信心にすがり、経を唱え続けた。


その時、女が手を伸ばした。

2人の間を阻む水の雫を、女の白い手は容易く乗り越えてくる。

女はどこか安堵したような表情を見せると、山葡萄に触れるべく、さらに歩を進めた。


甘い恐怖が山葡萄の心を満たす。

唱えているはずの経は己の耳に届かず、ただ女が自分を呼ぶ声、鈴の音、衣擦れだけが静寂を満たしている。

伸ばされた手はそのまま、己の頬から少し離れた位置で止まったが、女の体はさらに近づいてきた。

吐息が絡むような距離まで近づいたが、経を唱えている山葡萄に女が触れることはなかった。


嬉しそうに困る女を間近で見つめながらも、山葡萄は動かしている口を止めない。

経を唱えることを止めてしまえば、仏道だけでなく、人としての道も違えてしまいそうだった。

仏に、神に、師に祈った。

どれくらいそうしていたのだろう。

山に光が差し、やがて空の端が燃えるような色を咲かせた。

山葡萄は、この苦しみがもうすぐに終わることを理解した。

朝陽……朝陽が昇れば、妖に連れて行かれることはない。


露に濡れた若い女は、しかしながら恍惚とした表情を山葡萄に向けている。

女から逃れるために経を唱えながら、彼はある時唐突に気づいてしまった。


己はただ供養のためにのみ四十九万遍の念仏を唱える存在。

……目の前の女を遠ざけるためのこれは供養ではない。

己は、己の為に経をあげている―――


それを理解した瞬間、山葡萄は経を唱えることを止めた。

少女は慈しむように山葡萄の頬に手を当てると、そっと体を重ね合わせた。


銀色に輝く飛沫が、朝陽を受けて黒く染まった―――



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