躓く可能性のある小石は早く始末する 3
「どれどれ……」
魔人バールベリトはレイチェルの渡した資料に目を通し始めた。
「ね。どう? いけそう?」
しかし彼はレイチェルの問いに答えずコーヒーを飲み、またページを捲る。彼が答えないことに焦れたレイチェルは少し強い口調で言った。
「女が落ちれば容易いと思うのよ」
「それは何故です?」
「何故って……。見てるでしょ、その資料」
「ええ」
「レッドは間違いなく普通の人間として生きるため、それを演じるためにその女と付き合ってる。だから……」
女から別れを切り出せば応じるはずだ、と続けようとしたレイチェルの言葉を魔人バールベリトが遮った。
「だから、何故そう思うんです? もしかしたらレッドは本当に彼女のことを気に入っているかもしれないのに?」
「本気? それこそ何故貴方がそう思うのかが不思議で仕方ないわ。ちゃんと資料見てくれてる?」
「ご覧の通り。見てますよ。リリスさんが酷評するからどんな女性かと思ったら、かなりの才女じゃないですか。リリスさん、彼女の経歴ご覧になりました? 十代で魔法科学院の付属研究所に入った才媛ですよ。しかもそこでの研究結果を認められて上位組織であるエスエム協会に引き抜かれてる。確かに彼女の両親や親族はエスエム協会……エッセエンメの構成員ばかりですけれど、組織に誘われたのは彼女自身の能力故でしょう」
「そう。で?」
つまらなそうに先を促すレイチェルの様子に魔人バールベリトが苦笑した。
「いえ、レッドが実は才女が好きとか考えないのかな、と。いるんですよ。外見よりも別のことにこだわる男も。知的な女性が好きってタイプだっているんです」
「異性に恋い焦がれ、執着するようには見えないけどね……彼は」
「さあ。どうでしょうね。人の心の中までは分かりませんよ。それに恋い焦がれ執着するほどでなくとも、レッドは彼女のことを気に入っているかもしれません。まだ二十歳の彼にとって十歳近く年上の知的で優しい家庭的な女性は安らぎになるかもしれないでしょう。大体リリスさん、容姿が普通の人間であっても異性を魅了することは出来るんですよ」
むしろ美形なんかよりも警戒されづらいからやりやすいかも知れませんね、という彼の一言にレイチェルは何も言えず黙り込んだ。
それこそがこの男、魔人バールベリトに協力を依頼した理由だからだ。
魔人バールベリトは人当たりがよく、好青年と思われることが多いが、容姿は普通だ。だが彼はその場やその相手に応じて己を自在に変える。そしていつの間にやら人の心の中奥深くまで入り込み、相手の心を奪うのだ。
そうして魔人バールベリトに利用され、破滅していった者は女だけではない。男もいるくらいである。彼はその類稀な人を魅了する才能、人の心に漬け込む才能で諜報員として活躍していた。
だからレイチェルは彼の言葉を否定できない。己も彼のその才能を借りて、スカーレットを落とすつもりなのだから。
「……レッドを落とすことは心配して頂かなくても結構。自力でなんとかするから。それよりも、その女を貴方が落とせるか聞きたいの。まずあの女が落ちないと、何もはじめられないもの」
「リリスさん、貴女から見て彼女はほんのわずかでも隙がありますか? それとも無い? レッドとの間柄は相思相愛、何も憂いがないような感じですか?」
魔人バールベリトの問いにふっとレイチェルは笑った。
「隙がないと無理なの?」
「無理ではないですね。時間がかかるだけです。で? どうなんですか?」
「所々で僅かに見え隠れするコンプレックス。自分の方が年上であること。容姿が劣ること。そして結婚への焦り。好きだけど時々辛い。でもそれは彼のせいではない。ってところかしらね」
「貴女って本当に人の心の闇を嗅ぎつけるの得意ですよね。まあでも、それならば何とか出来るでしょう。彼女と接触します。僕を彼女に紹介してください。従兄弟とか言ってね。その方が話を進めやすい」
「わかったわ」
レイチェルは頷くと、立ち上がった。話はまとまった。あとは行動に移すだけだ。
善は急げ、だ。
***
その日は週末、女二人はアオヤーマで買い物をし、歩き疲れたところでお茶を飲むことにした。幸いなことに天気もよく、計画通りレイチェルはスカーレットを連れオープンテラスの最前列に席を取る。
飲み物を頼み、さりげなく視線を落とし腕時計で時間を確認した。もうそろそろのはずだ。
魔人バールベリトがまもなくここを通り掛かる。彼は偽名を使い、レイチェルの従兄としてスカーレットに紹介されることになっていた。もちろん彼女には従兄を紹介するなんて話はしていない。二人が会っているところに、このすぐ近くで働いている設定の彼が偶然通り掛かる。従兄に気づいたレイチェルが彼へ声をかけ、その流れで連れであるスカーレットへ紹介する計画だ。
レイチェルはスカーレットとたわいない話をしながら、その時を待った。
スカーレットの話に笑い、手にしたコーヒーカップをソーサに戻したその時、視界の端に魔人バールベリトの姿が入る。レイチェルがそちらへ顔を向けると、こちらへ真っ直ぐ向かってくる彼と目が会った。
彼はいつもの笑みとはまた違った種類の笑みを浮かべ近づいてくる。それは妹同然の従妹に向ける、親しみと愛情のこもった笑みだった。
流石という他なかった。まだ彼はターゲットであるスカーレットの視界に入っていない。
だが既に幕は切って下ろされたのだ。
レイチェルは同じように笑みを浮かべ、彼に向かって手を振る。その様子に気づいたスカーレットもこちらに向かってくる彼へと視線を向けた。
レイチェルは従兄なの、と言った。
「従兄なのよ。この近くで働いてるんだけど……まさか会うとは思わなかった」
私の思惑通り躍ってくれ、と願いつつレイチェルは『友人』へ『従兄』を紹介し始めた。
***
『レイチェル』として暮らすために組織に用意された部屋。そのリビングからネオトーキョーの夜景を見下ろした。
今日自分はちゃんと計画通りやり遂げられたかどうかと考えながら、酒の入ったグラスを傾ける。問題はなかったはずだ。
魔人バールベリトをスカーレットに紹介する。第一段階はクリアした。スカーレットも彼を紹介されたことに何の疑いも抱いてなさそうだった。
あとは少しずつ、少しずつレイチェルが彼女の中に潜む闇を煽ればよい。そしてそこに手練手管に長けたあの男がつけ込む訳だ。
彼女の心の闇を煽るには、主にジェイとの関係についての話を引き出さねばならない。だがなかなかスカーレットはジェイの話をしないのだ。だからタイミングを逃さないよう注意しなければと己に言い聞かせる。彼女があまりジェイの話をしないのは、組織の人間として彼の秘密を守らなければならないせいだけではないとレイチェルは思っている。大半はその義務感かもしれないが、残る僅かは同じ女であるレイチェルを無意識に警戒しているのだろう。
自分の若くて美しい恋人に興味をもたれ、やがて奪われるのではないかと心の奥底で不安に思っているのだ。きっと。
そんなことを考えると、つくづく恋愛というのは厄介なものだとレイチェルは苦笑した。
レイチェルとて、総帥ゼトを手に入れたいと思っているが、その感情とスカーレットがジェイに向ける感情は似ているようで微妙に違う。渇望しているという、その一点では同じなのだが。
一体、その差は何なのだろうか。よくわからない。
以前にレイチェルは話の流れでスカーレットに彼のどこが好きなのか、と聞いたことがある。レイチェルの問いにしばらく考えた彼女の答えはよくわからないものだった。
「どこが、とか何がとかじゃなくて。『彼』が『彼』だから好きなのだと思う」
レイチェルにとっての男の美点は見た目が美しい、金と権力があるの二つくらいしかない。
彼が彼だから、とはどういうことか。彼女の話では外見も性格も職業や趣味、そのありとあらゆることが『彼』という存在をつくる要素に過ぎないというのだ。
レイチェルは彼女の言葉を思い出して首を傾げ、一人呟いた。
「本当によくわからない」
わかるのは、自分自身が望むもの。これ以上誰も何も見上げることがないほどの高い空。