躓く可能性がある小石は早く始末する 1
爆発音が耳に痛い。熱風が見下ろしている己の元にまで届いた。
眼下には燃え上がる車。
乗っていた者は生きてはいまい。戦闘員ならばとっさに脱出するくらいは可能だろうが、あの女は非戦闘員なのだから。
『レイチェル』は少し笑うと踵を返した。
これからが本番だ。
***
ジャボン国首都ネオトーキョー、ミナット区内にあるボルダリングジムをレイチェルは訪れていた。ターゲットであるジェイは週末にここをよく訪れると調査資料にあったからである。
正義の味方レッドの表の姿である『ジェイ』に接近すべく、魔人リリスが『レイチェル』という女の仮面をかぶり始めて三日目。とうとう彼に接近すべく行動を始めた。まずは上手く出会いを演出しなければならない。
その出会いの場にこのジムはうってつけだと思えたのだ。まさか路上で彼をナンパする訳にもいかないし、仕事繋がりでの出会いを演出するのも不可能だ。ジェイが勤めているのは正義の味方エッセエンメの表の姿、エスエム協会なのだから。エスエム協会は徹底して部外者を排除している。付け入る隙は全くない。
だからこそ協会、いやエッセエンメの秘密を探るのにこうやってレイチェルが任務を与えられているのだ。
「そろそろか」
時計をちらりと見て、入り口がよく見える場所へと移動する。そんなレイチェルにインストラクターが声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 分からないことがあれば何でも聞いてください」
「大丈夫。ありがとうございます」
レイチェルの笑顔にインストラクターは少年のように顔を赤らめた。彼は尋ねてもないのに、ジム内の説明をしてくれる。
「ここはボルダリングのエリアです。高さは四メートル。向こうはトップロープクライミングとリードクライミングのエリアです。大体十メートルちょっと、というところでしょうか。お客様はリードクライミングをなさるのですよね」
レイチェルはジムへの入会申し込みの際に経験者であると伝えておいた。それもジェイに接近する為だ。彼は三種類のクライミングの内、最も難易度の高いリードクライミングをしている。
インストラクターの問いかけにレイチェルは頷き、あらかじめ用意しておいた答えを言った。
「ええ。でも少し久しぶりだから。ボルダリングで体を慣らしてからにしようと思って」
「そうですか。今日はお一人ですよね。もし気が変わられて、リードクライミングもなさりたい場合、お声をかけてください」
ボルダリングは下にマットも敷いてあるし、特別な道具も要らない。このようなジムでは人工壁に取り付けられたカラフルなホールドを利用し、一人で上まで登る。
だがリードクライミングは一人では出来ない。下でロープを持ち、安全確保するビレイヤーと二人一組でやるのだ。勿論このジムでは一人で来た客にジムのスタッフがビレイヤーをやってくれる。
しかしレイチェルはジェイに接近することを目当てにここに来たのだ。二人一組でリードクライミングを始めてしまっては自由に動けない。
笑顔で立ち去るインストラクターを見送ったレイチェルは手近な壁へと近づいた。あまり何もせず立っていては怪しいからだ。ジェイが来るまで適当に登っていればいい。彼が現れたら行動開始だ。
それにしても、とレイチェルは人工壁にとりつけられたホールドを掴み上へ上へと登りながら考える。正義の味方レッドは『ジェイ』として、普通の人間を装い生きることにかなり努力しているようだ。フリークライミングが趣味というのも、あくまで外面に違いない。
普通の人間を超越した身体能力を持つ魔人やレッドにとって、一番難易度の高いと言われるリードクライミングも簡単すぎる。何の娯楽にもならないだろう。
平日は熱心に働き、週末は趣味に打ち込む人間を演出する為、彼はせっせとここに通っているのだ。たとえそれが彼にとって簡単すぎてあくびが出るほど退屈なものであったとしても。敵ではあるがその努力は認めてやってもいい、とレイチェルは思った。
何度か登ったり降りたりを繰り返したレイチェルの視界に鮮烈な赤が飛び込んだ。赤い髪、赤い瞳の持ち主、何度となく写真で見た男レッドだ。いや、今はジェイと呼ぶべきか。
やっと来たか、と壁の中ばまで登りかけていたレイチェルは降りる態勢に入る。だがその手がぴたりと止まった。
鮮やかすぎる髪や瞳の色とは対照的なダークグレーの動きやすそうな服装をした長身の彼の隣には女がいた。資料で見た彼の現在の恋人、正義の味方エッセエンメの職員である。やはり写真で見たままに地味な女だ。写真よりも良いと思える男のほうとは対照的で何やら気の毒になってしまう。彼と並んでいると誰もが『男のほうが美しいなんて気の毒に』と思うに違いない。
だが今は二人が釣り合っているかいないかよりも重要なことがある。ここに来れば上手くジェイに接近出来るかと思ったのに、これはどうしたものか。笑いながら何か話している二人の姿を目にし、少し考えが甘かったかと思わず舌打ちした。まさか彼が女連れでここへくるとは思わなかったのだ。
レイチェルは冷静を装い、何事もなかったかのように壁を降りていく。もちろん怪しまれない程度にジェイとその恋人の動向を伺いながら。
恋人たちは二人でリードクライミングのエリアに向かうかと思いきや、違った。ジェイだけが奥のリードクライミングのエリアへ向かい、女だけがボルダリングの為の人工壁へと近づく。それも難易度の低い壁だ。
それを見たレイチェルは女がエッセエンメの非戦闘員であったことを思い出す。ジェイはジムのスタッフにビレイヤーを頼み、一人でリードクライミングをするのだろう。
彼らが二人別行動ならばチャンスはあるか、とレイチェルは計算した。全くチャンスがないわけではないだろう。ボルダリングのエリアからリードクライミングのエリアは離れている。だが、全くここから見えないわけではない。
果たしてあの男は恋人に見られる可能性があるにも関わらず、声をかけてきた別の女と仲良くなったりするだろうか。レイチェルはその可能性はないと判断する。あの男は用心深い。
こんなつまらない遊びを趣味としてまで『普通の人間』を演じるような男だ。
確かにさりげなく近づいて一言二言、自分を印象づける会話をすることは出来る。レイチェルは自分にはその魅力があると信じている。
しかし出来るのはそこまでだ。たとえ上手くやって連絡先を渡すことは出来ても、彼のそれを手に入れる可能性は低いし、彼から連絡が来る可能性はもっと低いだろう。
最悪の場合、急に接近してきたこの女はなんだと不信感を抱かせてしまうだろう。偶然知り合った女、急なアプローチ、疑うにはじゅうぶんすぎる。
レイチェルは何度も登って疲れた人間のふりをして、飲み物のボトルをとった。それを飲みながら、ジムの中を見渡した。
奥ではジェイが軽々と壁を登っている。全く迷いを感じさせない動きだ。
今度は視線を入り口近くにまで戻す。彼の連れである恋人のほうは初心者向けの壁をゆっくりと登っていた。その後ろ姿にこれを使うか、と決断する。
思わず笑みを浮かべ、レイチェルは『獲物』に向かってゆっくりと歩き始めた。