黒髪の彼女は「存在」を考える
「私は本当に『ここ』にいるのかな?」
彼女は今日も唐突に言った。いつもそうだ。彼女はいつも唐突にものを言う。
「『自己の存在規定』についての議論ですね」
黒い机を挟んで、俺は彼女と向かい合った。
「私の前にいる君も、本当に私の前にいるのかな?」
「間違いなくいるとは、言えないですね……」
俺は腕を組んで言った。自分の目も前に広がっているこの世界を確定できなくて、他にどこに証拠を見出せると言うのだろう。
「うん、そう言うしかないよね」
彼女はそう言いながら、1つ頷いた。
「じゃあ取り敢えず、私たちが見ているこの世界を偽として、話をしてみようか」
「物凄い仮定ですね……」
彼女はこの世界を否定する仮説を立てようというのである。
「あら、その『物凄い仮定』を引き出すに至った経緯を、君はたった今経験したはずだけど」
「いやまあそうなんですけど……」
「『普通』とか『一般的』とか『常識』とか、そういうのを議論に持ち込むのはやめてね。思考を制限するから」
「ああ、はい……」
俺は頷くしかない。その言葉を使わずに、今の仮定を「物凄い」と思った理由を説明するのは難しい。
「さて、話を戻すよ。私たちの前にある世界を偽とするのなら、じゃあ今見えているものは何なのか。……何だと思う?」
彼女は俺にその問いを投げてよこした。
「そうですね……俺たちの脳が見せている幻とか……?」
「何にもない空間にいる私たちに、脳が構築した世界を見せているんだね。……でも、ここで1つ、私は気になることがあるんだけど―――」
彼女は俺をじっと見る。
「君は今、私を知覚してるんだよね?」
「ええまあ、そうだと思いますけど……」
「私も今君を知覚してる……。私たちがそれぞれ個体として存在しているとすると、今目の前に見えている『ここ』は、私の脳が構築してるものなのかな? それとも君の脳の方かな?」
「あ、そうか……。どっちなんだろう……?」
「もし仮にどっちか特定できたとしても、じゃあそうなるともう片一方は『まるで自分とは別の意思を持っているかのような登場人物』に過ぎないってことになっちゃう」
「ちょっと待ってください。……登場人物?」
俺の思考は、彼女についていけなかった。
「例えば、ここは君の脳が構築した世界であると仮定する」
「ええ」
「すると、君の前にいる私も、君の作ったモノってことになる。……分かるね?」
「ああ、なるほど」
「でも君は私の全てを知っているわけではない」
「ええ、知りません」
「すると私は、君が作ったモノにも関わらず、君にとって未知のモノ……つまり、『まるで君とは別の意思を持っているかのような、君の世界における登場人物』ということになるんじゃないかな?」
「……納得しました」
俺はようやく、彼女の難解な意見を消化できた。
「―――しかしそうなると、俺はわざわざあなたという登場人物の情報を、俺自身に知覚させないようにしてるってことですよね……」
「うん、少し不可解だよね」
彼女は座ったまま、足をぱたぱたさせて言った。
「そこで私は、『ここ』を私と君、両方のものにしようかなと」
「え、でもそれじゃあ話が戻っちゃうんじゃ……」
「もっと言えば、全世界の人々のものかな」
「どういうことです?」
俺はまた、遅れているようだ。
「つまりね、みんなの意識が互いに干渉し合ってるってこと」
「意識の相互干渉、ですか?」
「そう。この世界は君の脳が構築した君の世界と、私の脳が構築した私の世界と、他のあらゆる人々の脳が構築した世界とが互いに干渉し合って生成された世界なんだよ」
「……じゃあ、例えば俺の座っているこの椅子は俺の世界のものかもしれないし、あなたが持っているそのペンはあなたの世界のものかもしれない……ってことですか?」
「大枠、そういうことかな。……もっとも実際には、もっと複雑に世界は交錯してるんだと思うけれど」
「なるほど……」
話のスケールが大きすぎてイマイチピンとこないが。
「もちろん、これは様々な仮定の上に成り立つ論であって、その仮定が1つでも否定されればあっさり崩れちゃうんだけどね」
彼女は椅子に深く腰掛け直して言った。
「私たちの肉体の存在規定とか」
「肉体……あ、脳ですか」
「そう。今の話は、最低でも私たちの脳にあたるものがどこかに実体を持って存在してるってことが前提になってるのよ」
「でももし存在するとしたら、その脳が存在してる場所ってどこなんでしょうね……?」
「うん、『そっち』の世界も規定しなくちゃね。それから、私たちの実体が思考する器官だけなんだとすれば、私たちの『生死』とは何なのかについても考えてみる必要があるね」
彼女は楽しそうに足を揺らす。
「思考器官だけの俺たちに、生死なんてあるんですかね……」
「もしかしたら私たちは、同じ人生を何千回何万回とテープのように繰り返してるだけなのかもしれないね」
彼女は大きく伸びをしながら言った。
「なんか、果てしないですね。今回の議題」
俺には全くゴールが見えない。
「この世界とか、俺の存在とか、見失いそうですよ」
「よし、じゃあ、私が助けてあげよう」
彼女は突然立ち上がると、俺の顔を両手で包みこんだ。
「この世界の存在を、君の存在を、絶対的に証明することはできない。……でもね、世界が、君がここにいないことを証明することもまた、できないんだよ」
救われるような、救われないような、そんな曖昧な発言だった。……だけどそんな彼女らしい言葉が、何故だか俺にとっては心地よかった。